こどもの十年すごくむかし
マイマイが休憩場所と称したその場所は、疲れ切った健太郎でも息を呑むほど美しい砂浜であった。先ほどの大村海岸も綺麗ではあったが、ひと回り、ふた回りほど彼には美しく見えた。先ほどよりもさらに透明度が上がり、白い砂浜とのコントラストが眼に沁みる。
絶景、と言うべきなのだろう。今の彼にはそれを表現する術はないが。
「ここが宮之浜海岸ね。はい、飲み物」
木陰で休憩しているとどこからともなく戻ってきたマイマイがキンキンに冷えた麦茶を持ってきてくれた。家で使うコップに入っているので、どういうことなんだろうと思っていると。
「マイー、はちみつレモンあるけどいるー?」
「いるー!」
「……お母さん?」
「うん、ここ家が近いんだ」
どうやらマイマイの実家が周辺にあるようである。そうと分かれば現金なモノ、
「くぅ!」
綺麗な海を眺めながら、冷えた麦茶を流し込む快感たるや、全身の毛穴が総毛立つほどであった。のどごしさわやか、もう何杯でもいけます、といった具合である。
昔、ここに来た時は何も思わなかったはずだが、大人に近づいてから来てみると随分とこう、心に沁みる景色である気がする。暑い空気がそう感じさせるのか、冷えた麦茶がそう思わせるのか、この景色そのものがそう見せるのかはわからないが――
「あら、健太郎君じゃない。おばさんのこと、覚えてるかしら?」
「あ、真生さんのお母さんですか。ご無沙汰してます」
「もー、お母さんあっち行ってよ。今案内中なんだから」
「ごめんなさいね、この子ったら。昔からずっと健太郎君のことばかりで、ピアノと一緒にラッパを吹くんだ、っていつも言ってるのよ」
そんな感慨も、
「ピアノ?」
「それ言っちゃダメ! 早くレモン置いて帰って!」
「はいはい。それじゃあお邪魔しました。ごゆっくりぃ」
「もー、あ、健太郎、はちみつレモン美味しいよ。島のはちみつ使って――」
全部、吹き飛んでしまった。
「……どうかした?」
「い、いや、何でもないよ。何か楽器、やってるんだ」
「うん!」
「……そっか」
疲れた身体には最高であるはずのはちみつレモンも、さっきまであんなにも美味しく感じていた麦茶も、この景色も、全部、灰色に塗り潰されてしまう。
「音楽、楽しい?」
「うん! 毎日練習してるよ」
「そっかぁ」
味がしない。噛んでいるはずなのに、感触もない。
「健太郎は音楽の学校に通ってるんでしょ?」
「……うん、まあ」
「だから、今度一緒に――」
せっかく美味しそうなのに、こんな状態で食べるのは申し訳ない。
そう思って健太郎は、はちみつレモンが入ったタッパーの蓋をする。
「僕、学校辞めようと思っているんだ」
「――えん、そ、う……え?」
「もう、ピアノもやめる」
信じられない、そんな感じの顔だろうか。健太郎は苦笑する。
「なんで?」
なんで、その言葉に笑みがこぼれて仕方がない。何かをやめる時なんて一つしかないだろうに。こんな島にいたらそんなことも想像できないのだろうか、と。
「才能がないから、だよ」
答えなどただ一つ。才能の欠如。
「あるよ、才能! 昔、聞かせてもらった時、すっごく上手だったもん!」
親切な言葉が、棘のように刺さる。それはたぶん、下手くそ、よりも辛い言葉。
「あまり、音楽をやっている人を褒める時に、その言葉は使わない方が良いよ」
残酷なる善意の棘、棘だらけ、傷だらけの自分を忘れようとこの島に来た。強制的に離れられたら、忘れることもできるのではないかと思って――
「感想が上手、なんて……侮辱でしかない」
「どう、して?」
「君も何かに本気で打ち込んだら、わかるさ」
健太郎は立ち上がり、コップを呆然とするマイマイに手渡す。彼女は何も理解していない。きっと楽しいだけの音楽をやっているのだろう。それはとても幸せなこと。誰かを蹴落とし、僅かな席を目指して這い上がる、血みどろの争いなど縁がない。
競い合い、あと一歩と言う所で砕け散った者の無念など、知り得るわけがない。
「案内ありがとう。麦茶も美味しかった。はちみつレモンも美味しかったです、っておばさんに伝えて。今日は楽しかったよ、じゃあね」
彼女の大きな瞳に映る、死んだ魚のような眼をした自分。夢破れ、全てを失った空っぽな己を見て、やはり笑うしかない。死んだように、微笑むしかない。
「ま、待って」
「ごめん。今はちょっと、音楽から離れたいんだ」
青柳健太郎は一人、ふらふらと歩き出す。音楽を楽しんでいる彼女に水を差すわけにはいかない。彼女はとても正しく音楽をしている。自分が歪だっただけ。才能があると信じて、選ばれた者であると信じて、楽しむ余地もないほど打ち込んで、ただ選ばれたい一心で――その結果何も残らなかった。
今はもう、何で音楽の道を選ぼうとしたのかもわからない。
いや、最初から、母の真似事でしかなかったのだろう。
この島には逃げ出すために来た。母にその旨を伝えると「それでいい」とだけ返ってきた。業界における数少ない椅子を手にして、一線で活躍する母にはわかっていたのだろう。息子には才能がないことを。だから何度ねだっても師事してくれなかった。音楽の学校に行くと決めた時も難色を示していた。
全部わかっていたことで、全部無駄だったのだ。
無駄な時間だった。本当に、これ以上なく、無駄な人生だった。
○
「……とお、い」
ぜぇはぁと肩で息をする健太郎。格好をつけて宮之浜から歩いて祖母の家まで向かっているのだが、徒歩だとこれほどに遠いのか、とげんなりしてしまう。
如何に辛く落ち込んだ気分でも、日差しは強いし道は長い。疲労はどんどん蓄積されていく。ただでさえ運動不足な自分では困難な道のりであろう。格好つけずに自転車で送って貰えば、と途方もなく格好悪い考えが幾度も頭をよぎった。
現実は、厳しい。
夕日が目に染みる。その赤みを綺麗だ、と思えるほど今の自分に余裕はない。
それでも歩くしかないのだ。今この場には自分しかいない。
足を踏み出すのも、止まるのも、全て自分次第なのだから――
○
ようやく祖母の家に到着した頃には日も暮れていた。一人で帰ってきた健太郎に祖母は何も言わず、温かい夕食を用意してくれていた。
「この煮つけ、美味しいね」
「アカバの煮つけですよ。島の味です」
アカバとはカサゴの一種らしいのだが、身がホクホクで上品な味わいが沁みる一品であった。味付けもさることながら魚自体が美味しいのだろう。正直、南の島と言うことで料理にはあまり期待していなかったが、これは嬉しい誤算である。
「もう少し早く来ていれば亀刺しもあったのですが」
「……亀刺し? え、亀食べるの?」
「南の島の貴重なたんぱく源として昔から食べられています。今はまあ、船の足も速くなって、不自由なんて滅多になくなったけど、それでもここは島ですから」
「なるほどなあ。……で、美味しいの?」
「普通です」
「え?」
「私も綾子も、感想は『普通』でした。冷凍ものならお店にもありますので、暇が出来たら行ってみるのもいいでしょう。旬は六月までですが、今なら比較的新鮮です」
「へえ。逆に興味が湧いてきたよ」
「それはよかった」
亀にも旬があるのか、と驚いている健太郎であったが、実際にはウミガメに旬も何もない。あるのは漁期というルールだけである。
保護のため年間の捕獲頭数、時期が厳格に定められているのだ。そのため、新鮮な亀はその時期でしか食べることが出来ない。
地域限定であり時期限定の珍味である。
そんな他愛もない話をしながら――
「ねえ、ばあちゃん」
「なんですか?」
「僕さ、音楽の才能、なかったよ」
唐突なカミングアウト。ここに来た理由など、一度も話していなかった。ただ行きたいと告げ、いつでも構わないと言ってくれたので、夏休みを利用してやって来た、くらいにしか祖母は認識していないかもしれない。
健太郎はそう思って話を切り出したのだが――
「そうですか。まあ、気に病むことはありません」
驚く気配も無い。言わずともそういうものは伝わっているらしい。
「学校も、やめようかなって」
「そうですか。大変でしたね」
「うん。僕、頑張ったんだ。誰よりも、練習したんだよ」
「そうですか」
「でも、駄目だった。留学の枠も取られて、先生にも上手いだけ、ってボロクソに言われて、ハハ、昔はさ、それで褒めてもらえたのに、今は同じ言葉で、貶される」
健太郎は涙を浮かべながら、静かに震えていた。
「僕には才能がない。何も、ない」
「ゆっくりしていきなさい。ここはね、そういう島だから」
優しく抱きしめてくれる祖母の胸の中で、健太郎は無言で、泣いた。
○
翌日、健太郎はせっせと畑の草むしりをしていた。泊めてもらっているのに何もしないのでは居心地が悪い。
何か手伝えることはないかと問うた結果、今の状況に至る。
「……狭いと思ったけど、草むしりをすると広く感じるのはなんでだろう」
来た時は幼少期の記憶とのギャップから小さく感じていたが、こうして作業をすると広く途方もなく感じてしまう。草の匂い、土の香り、軍手に染みる畑の色。
汚いけれど、嫌悪感はない。
「健太郎、休憩しなさいな」
「はーい」
昨日と今日でかなり体を酷使した。普段運動しない体は少しずつ痛みを訴え始めている。俗にいう筋肉痛、そしてそれ以上に――
「ところで健太郎、日焼け止めは塗っていますか?」
「いや、長居するから要らないかなぁって」
「……長居するから必要なんですけどねぇ」
体を動かし、冷たいシャワーを浴びて、昼寝をした後、それはとうとうやってきた。小笠原の太陽がもたらした悪夢。
「い、いでででで」
日焼けである。それも内地で発生するような生易しいものではなく、小笠原の突き刺すような日差しによって生まれたもの。その痛みは、もはや火傷に近い。
「ばあちゃん、なんか、皮がべろべろ剥けてきた」
「……でしょうね」
小笠原旅行の際、島の人やリピーターに必要なものを問うたらほぼ十割、日焼け止めは必須と答えるだろう。季節関係なしにここは日差しが強い。外仕事をしている者ならばともかく、内地で内仕事をしている者であれば例外なく、備え無きモノに未曽有の手傷を負うことだろう。
「……いたい」
「なんか塗ってあげますからこっちにおいで」
「何の薬?」
「よく知りませんが、昔から火傷とか切り傷とかに使っています」
「……え、ええ」
「綾子もこれで育っていますから」
嫌です、とは言えず謎の軟膏を塗りたくられる健太郎。
幸い半袖であったため腕と顔だけで済んだが、調子に乗って半裸で過ごすととんでもないことになるらしい。比較的日に当たる部分である腕でこうなってしまうのだから、背中や腹など考えたくもない。
「まあ一週間もここにいれば慣れますよ」
「うん」
環境の変化とは恐ろしい。ただ過ごすだけでも体に変調をきたすのだ。そう考えると今までの人生、随分代り映えの無い生活だったな、と健太郎は思うのだ。
しかしふと、そうじゃなかった記憶がぽつりと浮かぶ。
「そう言えばさ」
「ん、なんですか?」
「前も僕、こんな感じになってた?」
「ふふ、なっていましたよ。二人して泣きながら帰ってきて、健太郎の皮がめくれて死んじゃう、なんて。皆して大笑いしたものです」
「……二人って、七海さん?」
「さて。ばあちゃん忘れてしまいました」
ニヤニヤと笑う祖母の表情から察するに、十中八九彼女なのだろう。まあ確かに島の子はそれこそ物心つく前からこの日差しと共に生きている。皮がめくれてしまうような重度の日焼けとは無縁、もしくは物心つく前に経過しているのかもしれない。
「あの子のトランペット、聴きましたか?」
「え、いや、聞いてないけど」
「落ち着いたら一度聞いてあげなさい。あの子ね、十年間ずっと吹き続けていたから」
「……まあ、落ち着いたら」
そう言いつつも健太郎に聞く気はなかった。
そもそも素人の演奏なんて今更聞く意味が見出せない。一流の音にだけ触れ研鑽を積んできた。膨大な知識と絶大なる研鑽の果てに生まれた音と、手慰みの遊びから生まれたものでは質が違うだろう、と彼は思う。
「本気の音も、遊びの音も、どっちも音楽には違いありませんよ」
祖母の意味深な笑みを見ても、やはり健太郎の心は動かない。少し意固地になっている部分もある。何しろ、上手いのに人の心を動かすことが出来なかったから、彼は音楽の道を閉ざそうとしているのだ。
素人の演奏で、僅かでも動いてしまう可能性が、怖い。
遊びに本気の己が劣る可能性が、怖い。
○
「……意外と人使いが荒いんだよなぁ、ばあちゃんも」
買い物メモを片手にいつの間にか修理されていた自転車をこぐ健太郎。意外と自転車でも遠いなぁと思いながらも、徒歩に比べると格段に楽な自転車という文明の利器に感謝する。
「風が気持ちいい」
夕暮れ時、忌まわしき日差しが弱まった時間帯の外は悪くない。頬を優しく撫でる風が程よい刺激となって日焼け痕をくすぐる。この島はずっと暑いんじゃないか、と思っていたのだが存外この時間帯は涼しく感じるのだ。
慣れてきたからかもしれないが。
「風の音、虫の音、波の音、たまに通る、車の音」
自然の、自然だけではないこの島のオーケストラ。音楽は嫌になったが、こういう音は押しつけがましくなく、すっと耳朶を刺激してくれるので好ましい。
島の中心部から外れた観光地でもないありのまま。こういう空間こそを美しいと感じる。ありのままの生活、ありのままの風景、それらを彩るありのままの音。
生きている画が、音が、匂い立つ。
そんな中で――
プァア。
異質が、混じる。
「……ペットの、音」
少年は視線をそちらに向ける。赤灯台の近くで一人立つ少女を目にして――
「…………」
自然と自転車を停止させ、立ち尽くす。
どこかで聞いたことのあるメロディー、それを適当に繋ぎ合わせたかのような稚拙な演奏。誰かに学んだわけではないのだろう。技術としては目も当てられない部分が散見している。金管楽器を専門としていな自分でも指摘できる部分は腐るほどある。
技術的には未熟、自分の通う学校にこの程度のレベルはいない。
それでも、
「何だよクソ、何なんだよ、音楽って」
何故こうもこの音は沁みる。何故こうもこの音は揺れる。音楽を遠ざけていた、もう二度と触れまいと思っていたのに、ここにも『音楽』はあった。
下手くそだが、光るものがある。
上手くても光るものを持たなかった自分とは違って――
「やけくそみたいな演奏だな。下手くそのくせに、即興ばっかり入れやがって」
枠を知らない者の演奏。我流、独学の拙く粗い演奏。
でも、勢いがある。ともすればそれらを許容してしまいそうな。
「お、マイマイのやつ今日はこっちで吹いてるのか」
「本当に神出鬼没ねえ」
「この前なんて墓地で吹いていたぞ」
「まあこの島じゃ中々あんなの吹ける場所もないしなぁ。仕方ない仕方ない」
島民もある程度許容しているのか、うるさいと怒る者はいない。続けてきた年数もそうなのだろうが、最低限の技量と彼女自身がそうさせるのだろう。
遊びではある。
「……十年、か」
でも、本気の遊びなのだ。十年間、言葉にすればたった一言だが、たかが十年と言えるほど彼は、彼女は、歳をとっていない。人生の大半を、同じように捧げてきた。
そこに何の違いがあろうか。
遠く離れていても届く音、その圧に健太郎は苦笑する。
あまりにも自分と違う音、最初こそ光る部分に目が行って、嫉妬の炎が浮かんだが次第にそれを吹き飛ばされていく。
荒く、激しい、叫び。
「…………」
気づけば地面に座って聞き入っていた。ただただ、ありのままとして受け入れる。これもまた島の日常だと言うのだ。十年続けて日常にしたのだ。
最初は怒られただろう。下手くそと罵られたこともあるかもしれない。独学で聞ける『音楽』に仕上げるのは骨が折れただろう。最初の一年、二年は大変だったはず。
そんな苦労が、風景が、透けて見える。
「……下手くそ」
そう言う健太郎の顔からは、笑みがこぼれていた。
日が落ちる。彼女の背中が赤く染まる。その光景を、音とのパッケージを、エモいと思ってしまうのは、何故なのだろうか。
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