ただいま
「よォし、行くぞォ!」
「……どこに?」
「せつばあの家! 肩慣らしは済んだ、から……あれ?」
集中力だけは一人前だな、と健太郎はため息をつく。いつまで吹いているのだろう、と日が暮れてからも後ろで待っていたのだが、あれから一時間以上海に向かって吹き続けていた。始めてすぐに遭遇したとしても一度も休憩せず、辺りを見渡すことなく一心不乱に吹き続けていたのは中々の根気だと言えるだろう。
「け、健太郎⁉」
「……や、やぁ」
ここで健太郎は冷静に考える。それほど親しくない間柄の男が知らぬ間に背後で待ち構えている、と言うのは相当気持ち悪いのではないか、と。
「き、聞いてた?」
「まあ、大きな音だし、目立つし」
「……ど、どうだった?」
七海真生の眼、この目に自分は弱かったことを思い出す。どれだけ理不尽に引きずり回されても、結果として次の日も、そのまた次の日も一緒に遊んでいたのは――
「端的に言うと……下手くそだった」
「あがっ⁉」
ショックを受けて白目を剥く、という古典的な反応を示すうら若き少女。
「力任せに吹き過ぎて音がかすれているし、高音域も綺麗に出ていない。難しい部分をそれっぽく流して吹いているけど、手抜きでしかないからその癖は修正すべきだね。細かい部分は音が潰れているし、そこを軽快にくっきりと陰影をつけてやらないといけない。他には――」
「あうあー」
いきなり怒涛の勢いで指摘され、七海真生、通称マイマイは混乱の極みにいた。
「――でも、手癖になってしまっている部分を直すだけでかなり良くなると思うし、今ならまだ何とかなるはず。とりあえず母さんの伝手で名義だけでも借りて、音大に入ることさえ出来れば道は拓けるんじゃないかな。チャンスはあると思うよ」
「……?」
「あー、ピンとこないよね。だけど、ここからは時間との勝負になる。高校生時点で実績がないのは痛いし、正直何らかのコネクションは必要だけど、それは何とかなるから……とりあえず君は今から技術を一定の水準まで高めることだけを考えてくれたらいい」
「?」
「え、と、伝わってない?」
「うん。よくわかんない」
「た、端的に言うと、音楽の道で食べていくなら急ごうって感じなんだけど」
「……あたし、ラッパは趣味だよ」
「いや、今まではそうだったかもしれないけど、十年もやったら――」
「将来はお父さんたちと同じ島のガイドさんになるつもりだし」
「……え? いや、だって、十年ずっと吹いてきたんでしょ」
「うん」
「それって音楽の道で食べていくためなんじゃ」
「あはは、全然違うよ。あたしがラッパを吹いてたのはね、健太郎ともう一度会うため。これを吹いてたらね、いつかこの島に『ただいま』してくれるかなぁ、って思ってたの」
「僕と、会うため? それだけのために、十年も?」
「うん! このラッパは健太郎から貰ったからね。だいぶ日に焼けて、昔みたいにキラキラしてないけど、それでもこれはあたしの宝物なんだ」
「ラッパを、僕が……ラッパって言って僕がそれ、渡すかな」
「そしたらね、また会えた!」
眩しいほど笑顔の花が咲く。細かいことなどどうでもいい、とにかく再会できたことが重要なのだと彼女の笑顔が雄弁に語る。その相手は十年間、ほとんど彼女のことを思い出さなかったし、島に来るまで忘れていたというのに――
彼女はずっと、また会うためだけに吹いていたのだと言う。
「あは、あははは、あっはっはっはっは!」
もう笑うしかない。さっき浮かんだ仄暗い嫉妬も、全部吹き飛ばされた衝撃も、この『音楽』を外に出さねばいけないという使命感も、全部吹き飛んだ。
彼女の演奏は、ただの『ただいま』であったのだ。
信じ難いことであるが――
「わ、笑うところあったかなぁ?」
「笑うところしかないよ。本当に、君は馬鹿だなぁ」
「……それ、昔も言われたよ」
「そりゃ言うだろ。あはは、もうダメ、笑いが、止まらない」
「わ、笑うなー! 人がせっかく真剣にね、演奏してたのに。笑われるとは思わなかった! もう絶交だよ、絶交!」
頬を膨らませてむくれる彼女を見て、健太郎は苦笑する。
「技術は拙いけど、凄く良かった。驚いたよ、マイマイ」
「……ごますり?」
「僕は『音楽』には嘘をつかないよ。良かった、そう思ったのは本当だ」
「……本当に?」
「うん」
「……ぃぃぃ、やったぁぁぁああああ!」
トランペットの音と同じくらい大きな声で喜ぶ彼女を見て、健太郎は少し照れ臭い気分であった。
音楽に没頭し、忙殺され、完全に忘れていたこの島の記憶。未だすべてを思い出したわけではないけれど、彼女があまり変わっていないことだけはわかった。
十年の壁が、目の前で崩れていく感覚。
「明日、暇?」
「毎日暇だよ。夏休みだから!」
えへん、と胸を張るマイマイであったが、宿題とか部活とか高校生なら多少なりともやることはある気もする。とはいえ本人がないと言っているなら、良いだろう。
「ばあちゃんの家に集合、そのトランペット持参で」
「ラッパのこと?」
「ラッパは金管楽器の総称で、それはトランペット、正式にはピストン式B♭トランペットだよ。欧州だとジャズトランペットって呼んだりも――」
「ラッパはラッパ、変なこと言わないで!」
「ええ? 何でそこは強情なんだよ。まあ、別に呼び方なんてどうでもいいけど」
「よくない! これはラッパなの!」
「わ、わかったよ。とりあえず、そのラッパ持参で」
「了解しました!」
「元気だなぁ。じゃあ僕、今日は帰るから」
「うん! また明日ね!」
「うん、また明日」
ただの挨拶なのに、彼女はとても嬉しそうな顔になっていた。どうにもむず痒い、と思ってしまうのだが、照れていると悟られるのも何となく癪ではある。
「あ、マイマイ。言い忘れてたんだけどさ」
「なぁに?」
だから健太郎は極めて平然と、出来るだけ自然に――
「ただいま」
「……あっ」
きっと彼女が心から求めていた言葉を、口に出した。
「おかえり、健太郎!」
満面の笑みの前で、平然と出来ていたかは、正直自信はない。
○
「あら、買い物は?」
「あ」
何故家から出ていたのか、すっかり失念していた健太郎は家に戻って初めて買い物のことを思い出した。別に急ぎではないから構わない、と祖母は言ってくれたがちょっと申し訳ない。それに、明日からのことで相談しなければいけないこともある。
「ばあちゃん」
「なんですか?」
「地下室、まだ残ってる?」
「そのまんま、残っていますよ」
「……明日、使わせて欲しいんだ」
「じゃあ後でばあちゃんと掃除しましょうか」
「理由は聞かないの?」
「健太郎が使いたいなら好きに使えばいいし、見たくもないなら使わなくて構いません。好きになさい。まあ、ちょいと調律してやらないといけないでしょうが」
「ありがとう、ばあちゃん」
「ええ、ええ」
夕食を終え健太郎は幼少期に島の中で最も長く滞在していた場所に戻ってきた。青柳節子の家には防音の地下室があるのだ。部屋の中央には節子が、綾子が、そして健太郎が使っていたピアノが設置されていた。何年も使っていなかったのだろう、立てかけた譜面もそのままに時を止め、埃だけが年月の分降り積もっていた。
「あらあら、こりゃあ大変ですねえ」
「……想像以上だった」
一瞬、明日に回して彼女にも手伝わせようと思ったが、鉄は熱い内に打てとも言う。それに時間は有限、今の自分にとっては無限に近いが彼女は高校生で、夏休みぐらいしか時間は取れないだろう。ここが勝負なのだ。
「とりあえず掃除機かけるね」
「やる気ですね。ばあちゃんも腰の許す限り頑張りますよ」
「ほ、ほどほどにお願いします」
「冗談冗談」
寝る直前まで掃除に取り組み、そのまま崩れるように健太郎は床についた。
明日からやるべきことを、考えながら――
彼女がそれを求めるかはわからない。でも、折角光るものがあるのに磨かないのはもったいないと健太郎は思ったのだ。それは自分のエゴかもしれないが、自分と彼女を結んだのが楽器ならば、やはりそれを介した関係性になるのだろう。
そんなことを考えながらうつらうつらと、入眠する。
今宵の夢は、嫌に鮮明であった。
『いやだぁぁぁああ。健太郎ずっと島にいでよぉぉぉおおお』
『学校もあるし、無理だよ』
『……転校、さいきんね、けっこう多いんだよ、転校生。健太郎もどう⁉』
『それは、その、僕のイチゾンでは』
『あああああああ! またむつかしい言葉つかったぁ。マイマイを馬鹿にしてるぅ』
『な、泣かないでよ。そうだ、これあげるね。この前お父さんからもらったんだ』
『……ラッパだ』
『いや、これはトランペットって言って』
『ラッパ、マイマイにくれるの?』
『え、と、トランペット――』
『じゃあ、マイマイ練習するから、絶対聴きに来てね、約束だよ!』
『あ、うん』
『絶対ね!』
十年越しの記憶、確かに自分は再会を約束していた。そして、やはり自分はトランペットと言って渡そうとしていたことに安堵する。ラッパでも間違いではないが、いくら幼くとも音楽家の息子がラッパとは言うまい。微妙にズレたことを考えながらすやすやと眠る。
あと、やはり変わらずに強引だったな、と笑みがこぼれた。
○
翌朝――
「健太郎、あーそーぼー」
まさかの早朝にマイマイが襲来する。確かに明日としか言わなかったし、時間を指定しなかった自分の落ち度ではある。
それでも常識的な時間があるだろう、と健太郎は驚き呆れ果てる。祖母はまあ、お年寄り特有の早寝早起きなので問題はなかったが――
「嘘、だろ」
健太郎が瞼を開けると、そこにはそわそわしているマイマイがいた。
ここは他人の寝室である。そして、健太郎が目を覚ましたのは彼女の言葉によってであり、またもチャイムを鳴らす前に家に侵入し、寝ている自分の前まで悠々とやってきて声をかけたのだ。
都会ではセキュリティ上ありえないし、いくら島でもこれはちょっとした恐怖体験であろう。
「……とりあえず、顔洗って朝ごはん食べてからでいい?」
「うん、いいよ」
まあでも、今更突っ込む気も起きなかったので健太郎はその環境に適応することにした。顔を洗って、祖母の用意してくれた朝ご飯を食べる。
「「「いただきます」」」
当たり前のように三人分用意されており、当たり前のように合掌するマイマイ。おいおい、と思いつつも、やはり突っ込む気が起きずそのまま流した。
朝食を終え、一服した後――
「で、今日は何して遊ぶ?」
しびれを切らしたマイマイの問いに健太郎は短く応えた。
「音楽」
「一緒に演奏してくれるの⁉」
「それはマイマイ次第かな」
「あたし、次第?」
細い階段の下、地下室にマイマイを招待した。
「せつばあの家にこんな部屋があったんだ。知らなかった」
「とりあえず、基礎から徹底的にやろう。楽譜は読める?」
「……え? 読めないけど、なんで?」
「だと思った。なんでもなにも、練習するんだし楽譜が読めるかどうかは重要なことでしょ?」
「あたし、一緒に演奏できたらそれでいいんだけど……練習は、別に」
「残念ながら僕は、下手な人とセッションする気はないんだ」
「うがぁ」
「大丈夫、大丈夫。毎日暇なんでしょ? 夏休み中、頑張れば一緒に楽しくセッション出来るようになっていると思うよ。じゃあ、メトロノームを六〇に設定するから、ロングトーンの練習からやろうか。長く伸ばすよりも綺麗に伸ばすこと意識で」
「……うう、思っていたのと、違うよぉ」
「はいはい、時間ないよ」
「ええい、ままよ!」
こうしてマイマイを力ずくで丸め込み、彼女に技術を与えるための日々が始まった。離れようと思っていた『音楽』も、今はもうそれほど嫌悪感はない。確かに自分は『音楽』に選ばれなかったかもしれないが、時を超えて彼女と自分を結び付けてくれたのもまた『音楽』であった。
泣き止ませようとして、ピアニストの自分には不要だと思ったものをあげただけだが、それでもこうして十年の時を超えて繋がったのは何かの因果。
とりあえず、出会ってしまった以上、このまま放置することなど、出来ない。
ゆえに青柳健太郎は笑顔で七海真生と接する。
「伸びてない。音がブレてる。綺麗じゃない。やり直し」
「ひーん」
『音楽』を介して――
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