掌編 シーサイド・ドリーム
月の出ない夜に歩く人
シーサイド・ドリーム
空乃とはつい先週知り合ったばかりだ。
*
「ねぇ。生きてる?」
起き抜けの僅かな昂揚と不機嫌そうな表情が声でわかる。僕はそれが嬉しかった。倒錯している、と自分でも思う。でも恋愛なんてそんなものだろ? 倒錯のない恋愛なんて、100%植物由来の食材で作られたビーフステーキのようなものだ。それはビーフでもなければ、ステーキでもない。いまこの瞬間、僕は彼女に恋をしている。それだけが大事だった。
「どうだろう。生きているって感じたことがないから。時間の連続性は感覚的な連続を保証してくれない」
「なにそれ。」
「もしかしたらずっと以前から僕は死んでいたのかも知れないし、そうでないかもしれないってこと」
「やめてよ。なんか不安になる」
彼女が身体をすり寄せる。皮膚と皮膚が直接に触れる。二人とも服を着ていなかった。少し目を開けた。部屋の中が明るい。夜のうちにカーテンを開けておいたからだ。「いま何時かな」と僕。本当は時計はもう見えていた。毛布の中で身体を回転させて彼女の方を見る。彼女はまだ目を開けていない。
裸の彼女を抱きしめた。柔らかくて、温かい皮膚の感触が僕の皮膚を通して神経に働きかける。首筋に鼻を付けて匂いを嗅いだ。鼻に髪の毛がかかってこそばゆいけれど、ここが人の身体で一番皮膚の匂いがするのだ。炒ったアーモンドの皮を剥いたときのような匂いが心地よかった。
「わかんない、九時ぐらい?」
再び身体を回転させ、今度はベッドから足を出して、そのまま上体を起こした。ベッドの淵に座る。部屋の時計は午後一時を過ぎようとしていた。
海を見たいと言い出したのはどちらだったろう。僕からだったような気もするし、彼女に言われてそう思ったような気もする。「海を見たい」という単純な動機で意気投合し、昼過ぎから電車を乗り継いで湘南まで来たのだった。
駅についてすぐに片瀬江ノ島から鎌倉まで歩いて行こうという話になった。「いざ鎌倉!」と叫びながら他に誰も居ない砂浜をひたすら東に向かった。
歩くとき僕たちは時々手を繋いだ。関係性の定まる前からそうだった。僕たちの関係を世間では何と呼ぶのか、僕にはわからない。
途中から山に逸れた。江ノ電の線路沿いを歩きながら寺院に続く階段や路地裏の水路を探検し「こんなところを舞台に小説を書いたら面白いだろう」とか、「書くならラブロマンスかミステリーだ」などと言い合った。
平日の湘南・鎌倉界隈はほとんど人がいなかった。シーズンがよければ人の大勢いる海岸沿いは、冬場の波を楽しもうとするサーファーの影を沖の方に数人見かけるくらいで、あとは白波の痕跡と同じ曲線を描く海藻や流木など堆積した漂流物があてもなく続いている。
真冬の灰色の空気を漂わせた海辺の町はそれでも美しく、そう話せば共感してくれる相手がいることがうれしかった。
歩き続けたツケがようやくまわったのは鎌倉に着いてからで、JRの駅付近に来たとわかると流れ出た汗が急に冷えた。そう思うと途端に疲労が限界を迎え、今日は泊まろうと提案したのが僕で、それなら海辺のホテルがいいと言ったのは彼女だった。
湘南にある海の見えるラブホテルに一泊することになった。ビジネスホテルと違ってチェックアウトを気にする必要がなかったのと、ベッドの大きい割に値段が安かったからだ。部屋は浴槽が広く、ベランダにはジャグジーがある。広いロフトが中二階のような作りになっており、そこが寝室になっていた。浴室で汗を流した後、僕たちは同じベッドで眠った。
起きてすぐに空乃は顔を洗いに洗面台へ行った。僕は窓を開けベランダに出て煙草を吸い、そこから景色を眺めた。
ベランダにはヨーロッパ風の建築を模した手すりがあった。似たような手すりを外国の映画で見たことがある。ベネツィアが舞台の映画だった。ジョニー・デップが主演で、セクシィなリップが特徴的なハリウッド女優がヒロインの映画だ。水路沿いのベランダで主人公はヒロインと濃厚なキスをする。
裏切りのシーンだった。ヒロインは実は悪役でその光景を近くに居るカメラマンに撮影させるのが目的なのだ。
スクリーンに映る光景と目の前の風景を重ねる。僕がいるベランダからは湘南の砂浜と海、沿岸を続く道路と通り過ぎる車。吸い込み損ねた煙が目に入り顔を逸らすと、横にあるジャグジーの照明が点いていることに気付いた。昼間だというのに三色の照明が浴槽を底から照らしている。
背後から声をかけられた。振り返ると彼女はすでに化粧を済ませた後だった。僕は顔を洗ってすらいない。
「おなかすかない?」
「そう言われるとそんな気がする」
「気がするだけ? 朝も昼も何も食べてないのに。わたしは食べないと死んじゃう」
「何を食べる?」
「せっかく湘南にいるんだし、海鮮丼とか。あとは近くにハンバーガー屋さんがあった気がするから、それでもいいかも」
「ならハンバーガーかな。どんぶりは食べれない気がする」
洗面所で顔を洗い、髭を剃った。普段使っているカミソリは持ってきていなかった。ホテルで用意されたカミソリは研がれておらず、剃る途中で何度も引っかかった。部屋に戻ったとき彼女に「猛獣でもいた?」と言われたのは、そのせいだ。昨日着ていた服に着替え僕たちはホテルを後にした。
冬の夕暮れは早く、外は暗くなり始めていた。
昼食はハンバーガーを食べることになった。
『カフェ&バー シーサイド』という名前の店で、ハンバーガーは店で出しているメインというより、そこで飲むアルコールの付け合わせのようなものだった。他にもステーキやハワイアンボウルなどのメニューが用意されている。僕も彼女もそれぞれビールとハンバーガーを注文した。
席は窓際のボックス席の一番奥に座った。窓からは沖の方がよく見えた。浜は手前にある小さな堤防のせいで見えなかった。波の打つ音だけが聞こえている。
「こういうところに暮らしてみたかったな」窓の外を眺めながら彼女が言った。
「海が見えるお店っていいよね」
「そうだね。僕もそう思う」
ビールが出てきた。茶色い瓶に青いラベルの貼られた瓶ビールとグラスが二つずつ、それぞれの目の前に並べられる。
瓶と瓶をぶつけて乾杯した。互いに瓶に直接口を付けてビールを飲んだ。冷えたビールが喉を潤す。二人とも朝から何も食べていない。
「引っ越せば良いじゃん」
「まあ、そうなんだけどさ。そう簡単にいかないでしょ? 仕事とか、他にもいろいろ」
ビール瓶に口を付ける。
一口飲んだ後で彼女が言った。
「瓶ビールってさ。なんか特別な感じしない?」
「どうだろう?」考えたこともなかった。
もう一度ビール瓶に口を付けた。中の液体が胃に落ちていく感覚があった。
「家ではあんまり飲まないじゃん」
「たしかにね。ここはロケーションもいいし」
「ほら、特別な感じするじゃん」白い歯が彼女の口元にあいた隙間から見えた「普通はつまらない。わたしはいつだって特別がいい」
やがて食事が運ばれた。分厚いパティの上にレタスとトマトが乗っている。ソースはシンプルなケチャップとマスタードだった。山盛りのポテトは揚げたてで、ビールとの相性が抜群だった。
店から出たとき、それまで辺りをオレンジ色に染めていた太陽は、山の向こうへ落ちたあとだった。西側の水平線上を金色の輪が染めている。空の色は紫に変わり、東から深い藍色をした夜の帳が下りはじめていた。昼という舞台の照明はあとほんの少しで明日へと持ち越されるのだ。
外は昼間よりもずっと寒い。暗闇を歩きながら波の音を聞いた。駅までの道は緩やかな下り坂になっている。
車が二台通り過ぎた。一台は僕たちを追い越した。その車は少し先にあるトンネルの向こう側へ消えていった。街灯はまだ点いていなかったが車はライトを付けている。もう一台は対向車線を走る車で角度が悪く車のライトが顔に当たった。トンネルを抜けると駅が見えてくる。
「帰りたくないな」と僕は言った。彼女は目を丸くして「でも帰らないと」と言った。明日彼女には別の予定があるのだ。僕も明日は仕事をしなければならなかった。
僕たちはいったいどこへ帰るのだろう、と思った。僕は自分の住んでいるマンションを帰る場所と認識していただろうか? 生まれ育ったのは場所を故郷だとかふるさとだとか、そういう自分の根を張る場所として認識していない。なら、僕の拠り所はどこにあるのだろう。
同じ電車に乗り、並んで席についた。もう手は繋いでいなかった。
上り列車は途中から混雑しはじめた。都市に近づくほど車輌には仕事帰りの人間が増えていった。海沿いの町の風情ある空気感が、着実に肌を刺す東京の空気に変わっていく。
それでもこの二日間で散々聴いた波の音だけは耳元で鳴っているような気がした。
小田急線の改札を抜け、新しくできた東西連絡通路の壁沿いに立ち止まった。今日も新宿駅西口の改札付近は混雑している。人の流れというには不規則だった。
彼女が「家に帰ったら何する?」と訊いた。別にいつも通りだよ。お風呂に入って、明日の仕事に向けた準備を終えたら寝るだけだ、と言った。「わたしも同じだよ。帰ったらいつもみたいに、ベッドの上でゴロゴロしているだけだと思う」と返事が来た。
他愛もない会話をしているうち、少しずつ互いの距離が近づいていく。人混みの中ではお互いの声が聞き取りづらいせいもあっただろう。あるいは元より何か思惑があったのかも知れない。
別れる前に僕は彼女とキスをした。交差する吐息のすぐ後ろをオフィス勤務の労働者たちが急くように通り過ぎていった。舌先を舌先で味わうような、あるいは唾液を唾液で舐め取るような。けれど、思い出に残るようなものではなかった。キスのあとで僕たちは別々の路線に乗り換え、帰路についた。
*
家に着いてすぐに僕は煙草を吸った。入浴のための時間は十分にあった。明日は仕事とはいえ、アルバイトの身分ではほとんど準備することはない。ベランダから見えるのは向かいの家屋の外壁と知らない家のベランダくらいなものだった。
ビールでも飲もうかと思い、部屋に戻った。冷蔵庫には以前買ったままにしてあった缶ビールが数本あり、そのうちの一つを取るとグラスを持ってベッドの上に座った。
端末に通知が来ていた。SNSのダイレクトメッセージには『近いうちにまた会いましょう』とあった。僕は『考えておきましょう』と曖昧な返事をした。
手に持ったビールのプルタブを開ける。炭酸の抜ける音が帰宅を知らせる合図だった。グラスに注ぐと泡が透明なガラスの上を転がるように落ちていった。
了
掌編 シーサイド・ドリーム 月の出ない夜に歩く人 @urei-kansaku
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