『夜に憩う』
ミズキの案内で村を巡り、そのうちに時は過ぎて。俺たちは再び、ハナさんの家に戻ってきていた。その頃になると完全に日は沈んでいて、目に映る光景は夜に沈んでいた。
静かな夜だった。ハナさんの用意してくれた夕飯を頂き、和やかに会話をしているうちに時間が流れて行く。それは俺にとって、遠すぎる日常を思い出させる光景だった。
かつての「ソウ国」——今は亡き俺の故郷。ソウ国があった頃は、俺にも家族や友人、仲間がいた。気楽に騒いで、楽しんで。そんな何でもない日常が壊れて消えてしまうなんて、あの頃は思うことさえなかったのだ。
「日常、か」
縁側に座って、夜の庭を一人眺めていた。暖かくなったとはいえ、春の夜は少し肌寒い。夜を渡る風が庭に咲く花を揺らし、密やかな音を響かせる。周囲は暗くて何も見えない。町ならばともかく、小さな村の人間が夜更かしをすることはないのだろう。
明かりのない光景。少しばかりの星明かりが、暗がりに光を投げかけている。月があればもう少し明るのだろうが。どうやら今日は新月のようだ。いくら見上げても、あの白い横顔を探し出すことは出来ない。
そっと息を吐き出す。そろそろ布団に入るべきかもしれない。酒があれば話は別だが、こんな何もない寒い夜に一人座り込むのも虚しいものだ。
誰にともなく苦笑いして、立ち上がろうとした。その時だった。縁側の向こうに誰か立っていることに気づく。
「……誰だ?」
声を向けると、その誰かは縁側の俺のそばへと歩んでくる。暗いとはいえ、近づけば自ずと誰なのかはわかった。ゆるく後ろで結われた長い髪。こちらへゆっくりと歩んでくる人物、それはこの家の孫娘、ミズキだった。
「……眠れないんですか?」
やはり少し困ったような曖昧な笑みを浮かべて、ミズキが歩み寄ってくる。何となくその笑みに距離を感じるのは仕方ないとしても。立ち止まったミズキが、何故か間合いをとったのには少々傷ついた。……俺が突然襲いかかるとでも思っているのだろうか?
「ああ。普段はもう少し遅い時間に寝ているから、どうにも寝付けなくてね」
「そうなんですか……リンドウさんはお休みになられたんですか?」
「ん? そうだな……あいつは布団に入って十秒で寝ていたな」
「寝つきがいいんですね」
「まあ、あいつは石喰いだからな。そういうところも少々人間離れしている」
「石喰い……そんな風には見えませんけど」
「見た目は人間とさほど違いがあるわけではないからな。だが、人間が石を食うわけもない」
「そうですね」
「ああ……そうだよ」
「…………」
「………………」
駄目だ。会話が続かない。そもそも俺はそこまで口が上手い方ではない。無理に会話しようとしても、相手に会話する意思がないなら成り立つわけもないわけだが。
「……ああ、そうだ。君こそどうしたんだ? 何かすることでもあったのか?」
「いえ。ただ、人の気配がしたのでどうしたのかと思って」
「そうか……まあ、見ての通りだよ。しばらくしたら寝るつもりだから、君も気にせず寝るといい」
「そう、ですか……」
また途切れた。さすがに俺も居心地が悪くなってくる。それはミズキも一緒のはずだったが、彼女はなぜかその場を動かなかった。視線を彷徨わせながらも、俺の方に意識を向けているとわかる表情。なんだろう、何か用があるのだろうか。
「……何か、俺に用が?」
「え……あの」
「……ないなら構わないが」
「え、あ……その……」
要領を得ない。戸惑っているのはミズキだが、それ俺にしても同じだった。地に足がついていないようなふわふわした感覚。さすがにずっとこれでは俺が辛い。
いい加減、寒くなってきた。俺はわずかに目をそらすと腰を浮かす。そうだ、いい加減寝るべきだろう。こんな中途半端な感覚は、俺の好むところではない。
「ここにいるのが駄目なら寝るよ」
「あ……ま、待ってください! その、少し聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」
浮かしかけた腰を下ろすと、再びミズキを見る。ミズキは戸惑いを見せながらも、ゆっくりと間合いに踏み込んでくる。間合いと言っても俺は丸腰だし、いきなり切りつけたりはしない。けれど彼女にとっては、結構な勇気が必要な距離なのだろうか。
「あの……カナンさん、は」
「何かな」
「……ソウ国の出身なんですか?」
思わず無言になったのは、責められるようなことではないと思う。
ソウ国。無論、俺の出身国だ。だが現在その国は存在しない。隣国の「ナ国」との争いに敗れ、滅亡したのだ。……だが問題はそこではない。
「……何故、そう思う?」
自然と声が固くなった。まさか、こんなところに「ナ国」の間者がいるとは思わないが。かつて俺は「ソウ国」で将軍職にあった。それを追求されれば、少々まずいことになりかねない。ミズキがどういう意図で言っているのか、それは——。
「あの、実はうちのおばあさま……昔、ソウ国に住んでいたんです。昔のことなので、私自身はソウ国に行ったことはないんですけれど……。おばあさまが、たぶんカナンさんはソウ国の人じゃないかって言っていて、それで」
「ああ……」
なるほど、とひとまず納得した。そして何故ハナさんが俺たちに親切だったのかも、おぼろげながらに理解した。
ソウ国の人間の多くは、黒髪だ。ソウ国の周辺国にも黒髪はいるが、離れれば少なくなる。この辺りはどちらかといえば薄い色合いの髪が多い。それに、若干だが顔立ちにも違いがあるように思う。
「……なるほど。言われてみれば、ハナさんにはそういう雰囲気があるな。君は……そんなに感じないが」
「私は、この村で生まれ育ちましたから。カナンさんは……ソウ国で生まれ育ったんですか」
「そうだな……『そうだった』よ」
俺も修行が足りない。口から出た言葉はどうしようもない現実を紡ぎ出してしまう。
結果、ミズキは思い出したように口をつぐんだ。そして次に現れた言葉は、容易に想像できてしまうものだった。
「あ……ごめんなさい。無神経で」
「別に謝る必要はない。……もうどうすることもできないことだしな。それに、今はそれなりに楽しく旅をしているから」
「旅、ですか」
「そう、旅だ」
ぎこちなさが拭えない会話。しかし、それが不快かと言われればそうでもない。俺はゆっくりと庭の向こうの暗がりを見つめた。相変わらず何も見えはしなかったが。
「……カナンさんは、どんな場所を旅してきたんですか?」
「うん? どんな……? もしかして、旅に興味があるのか?」
「旅、というか。この村の外の世界に興味があるんです。私、生まれてからこの村の近辺以外行ったことがなくて……もし、迷惑でなかったら、教えてください。……旅の話」
何気なく横を見れば、いつの間にかミズキとの距離が縮まっていた。俺はふと思う。旅の話……それは結局、俺にとって敗北の後の話なのだけれど。
わざわざそれを告げる意味もない。俺にとって色褪せるには少し早い過去の話。少しだけ思い返す時間をおいて、俺はミズキに今までの歩みを話し始める——。
——去年の春。桜の美しい町を歩いた。その場所は幸せそうに見えたけれど、戦の影がちらついていた。幸せとは結局、表面だけでは測れないのかもしれない。そんな風に思っても、壊れないものもあるのではないかと感じる瞬間があった。
夏。湖のほとりの町にいた。夏祭りの賑わいの中で、リンドウを見失ったこと。自分でも驚くべきことだが、意外に焦っていたことを思い出す。リンドウといえば焦ったことが馬鹿馬鹿しいほど、呑気に町を歩いていたが——その間、何があったのだろう?
秋。深い森の家を思い出す。特に楽しいことがあったわけではない。でも、その森の小さな家で暮らしていた二人の幸せを願わずにはいられない。たぶん俺は無理なことを言ったかもしれないが……その願いだけは叶えばいいと思う。少し、感傷的すぎるかな。
冬。その年始めての雪が降った日のこと。リンドウと暖炉の火を眺めたこと。思い出したところで、どうにもならないこともあって。しかしそれでも、俺はかつて救われたことを否定できなくなっていた。それが俺にとって良いことなのか……まだわからない。
「その前の年は、どうしていたんですか?」
「……前の年か。その頃は」
まだその頃、俺は「ソウ国」にいた。何も失われることもなく、家族も仲間も、故郷も確かに存在していた。日常というものが失われる意味を、その頃の俺はまだ知らない。
あの国は、そこまで豊かな国ではなかった。けれど俺にとっては唯一の故郷で、守るべきものだった。家族がいて、友人がいて。仲間がいて……そんな日常があったことを、まだ忘れてはいない。だから……守りきれなかったことは、俺にとって「敗北」だった。
……悲しいかと言われれば、悲しくないわけじゃない。少なくとも、国が終わったあの日までは……俺は信じていた。全部失うなんて、物語の上でしか起こらないと。
戦は、所詮殺し合いだ。こんなことを言うと嫌がられるかもしれないが、俺の手は綺麗なものじゃない。だから思うんだ。何故、国を守れなかった俺が、生きているのかと。……少し前まではずっと、意味などないのだと思っていた。
「……カナンさんは……生きていたくなかったんですか」
「どうかな……今だって、生きるだけの意味があるとも思えないけれど。だが、死んでしまう意味はもっとないんだろうな、とは思う。多くを奪ってきた俺が言うのもおかしな話だが……今は、別に嫌じゃないんだよ。生きることも、これから生き続けることも」
何故か旅の話から俺の話になっていた。語ってしまったようで気まずい。そっとミズキを横目で見たが、彼女は俺の話を笑いはしなかった。
「私は、戦のことはわからないですけど」
ミズキは噛みしめるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。その目は庭の先の暗がりに注がれている。何を見ているのか、俺には追うこともできないけれど。彼女の目は確かに、その先にある何かを見ているようだった。
「私は、カナンさんが生きていて良かったと思います」
投げかけられた言葉はまっすぐだった。あまりにもまっすぐで汚れのない。不覚にも俺は、一瞬反応が出来なかった。それがどうしてか、考えるほどの時間もない。ただ、向けられたその言葉は、俺にとって不快なのもではなかった。それだけは確かなことだ。
「生きていなかったら……旅をすることもなかったでしょう。その中で感じたことを、私に話してくれることもなかった……。だからそれだけで、カナンさんが生きていて良かったと、私は思うんです」
「……君は」
やっとの事で口を開いても、気の利いたことは言えそうもない。俺も思ったほど大したことがない。若干、自分の至らなさに落ち込みそうになる。けれどミズキがこちらを見ていることに気づいて、なんとか笑みらしきものを作る。
「……君は意外に、人たらしなのかな?」
「カナンさんって、一言多いって言われません?」
「さあ……言われるほどおしゃべりではないと思うんだが」
「じゃあ言ってあげます。……女性にたらしとか、喧嘩売ってるんですか?」
「いや、たらしとは言っていない……!」
冗談なのだが。お気に召さなかったらしい。ミズキに腕をつねられて、俺は弁解を諦めるしかなった。いくら俺でも女性に向かって本気でたらしとは言わない。そもそも「人たらし」であって……いや、失言であったことには違いないが。
散々つねられて、さすがの俺も逃げ出そうと思った頃だった。ミズキは腕から手を離すと、明らかに不満そうな顔で俺を見つめた。
さらなる責め苦を味あわせるつもりだろうか。思わず身を引いた俺に、ミズキは突然指を突きつけてきた。
「カナンさん。私に失礼を働いた罰として、明日から働いてもらいます」
「え。それは構わないが……どちらにせよ路銀も稼がなければならないし、何か仕事がないか聞こうと思っていたところだから」
「そ、そうですか。なら、明日も早いですから……そろそろ休んでください。私ももう休みます」
どうも思った反応と違ったのかもしれないが。ぎくしゃくとミズキは縁側から立ち去ろうとする。去っていくその背中を見つめていると、いつの間にか頰が緩んでしまう。
「なあ、君」
そっと離れていく背中に声をかける。立ち止まることは期待していない。けれど予想に反してミズキは足を止めた。わずかに振り返ると、不思議そうに首をかしげる。
俺は少しだけ笑って、ミズキの目を見た。夜の色。深い色をした彼女の瞳に向かって、俺は静かにその言葉を投げかけた。
「おやすみ。また明日な」
それは日常の中では大した意味もない、明日への約束。けれど今の俺にとっては、とても大切なもののように感じられていた。
「おやすみなさい、カナンさん。……また明日」
言葉に言葉が返ること。ただそれだけのことがひどく愛おしい。
何気ないこと、なんでもないこと。それが手に入るのなら、俺はきっと、失ったものをもう一度得られるような……そんな想いに囚われていた。
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