~夏~

『痛みを知るために夏の夜は』

 僕は、「痛み」がわからない。


 あまりにも強く降り注ぐ太陽の光。その下を歩いたところで、心はひとかけらも動かなかった。この街を通り過ぎる人々は皆、この夏の光の強さを「痛い」と語る。


 そんな些細な「痛み」すら、僕にはひどく遠かった。世界はいつも、僕とは壁一枚隔てた場所にあって、僕は透明な玻璃の向こうから「それ」を眺めている。


 曖昧で、色あせた世界。僕は隔絶されたような感覚の中で生きている。それを誰も知らない。知ることもないのだろう。僕にはわからない。「悲しみ」とは一体なんなのか。

 わからない。けれど気づかれてはならない。だから僕はその日まで、真実を隠し続けていた——。



 ※


 その日は、年に一度の夏祭りの日だった。


 湖のほとりに位置する町は、夏の盛りでも少しだけ涼しい風が吹く。湖を渡る風が髪をかすめるたび、彼女は心地良さそうに目を細めていた。


「ホオズキ。今日の夏祭り、一緒に行きましょう?」


 彼女は少しだけはにかんで、いつものように僕を見つめた。


 夏の空の下、済んだ瞳をした彼女は綺麗だと思う。夏に相応しい軽やかな服装も、光の中で艶めく黒髪も、とても綺麗だと僕は思っていた。


「そうだね。じゃあ、いつもの通り湖の木のところで待ち合わせようか」


 僕はたぶん、笑っているのだろう。少しだけ口角を持ち上げて、目元を緩めれば微笑みとしては完璧だろう。だから彼女が嬉しそうに笑い返すのを、淡々と眺めていられる。


「うん、わかった。じゃあ、夜にね。お店がひと段落ついたら、すぐに行くから」

「わかった。親父さんによろしく伝えて。忙しいようだったら僕も手伝いに行くよ」

「うん……ありがとう、ホオズキ。じゃあ」


 またね。かすかに指先を触れ合わせて、僕たちは離れて行く。


 ひと時の別れを、僕は「寂しい」とは思わない。なんとなく名残惜しい、ということくらいは理解できる。けれど全てはぼんやりと曖昧に歪んでいた。


 去って行く彼女の背中を見つめても、頭上で揺れる祭り飾りを見上げても。感じることはひどく虚しい感覚だけだった。触れた指先の温度さえ、ほとんど感じられない。


 世界は灰色だった。色鮮やかな夏の花を目にしたとしても、曖昧な玻璃に阻まれて、全ては霞んでしまう。だから虚しい。苦しいとは感じない。ただ胸の奥に穴が空いて、あらゆるものが流れ落ちてしまうような虚しさだけがある。


「……あ……」


 なんだろう。どうでもいいくらいに退屈だ。


 町をゆっくりと歩みながら、顔をうつ向かせる。湖を渡る風に、家の窓辺に飾られた鬼灯が揺れる。夕暮れの日のような色をしたそれを眺めいてると、ふと、どこからか視線を感じた。


 特に、なんの意味もなく視線を辿れば。道の先に透けるような薄い色の髪をした、男か女かも判別つかない人物が立っていた。


 無言で僕たちは視線を交わし合っていた。明らかに相手は僕を認識している。


 何故? そう心に問いかけたところで、答えが出るはずもない。視線を彷徨わせて歩き出そうとすると、その人物はゆっくりと僕に歩み寄ってくる。


 不思議と危険は感じなかった。澄んだ紫色の瞳は、微笑むように柔らかな光をたたえている。その人物は僕に歩み寄ると、かすかに笑むような形の口を開いて——。


「——あなたは、痛みを感じない人なんだね」


 驚くより先に、何故か僕は相手の言葉を受け入れていた。


 紫色の瞳が穏やかなせいなのだろうか。いや、そうではない。そんな上辺のことではなく、もっと根本的な部分がその人物を拒否できない。


「何故、解るんですか」


 自然と、声が震えていた。一瞬で見抜かれたことに、今更ながら驚きが襲ってきた。


 いつもなら笑い飛ばすことだってできたはずだ。けれどこの人物の前では、そんなつまらない誤魔化しも出来ない。不思議な紫。それがひどく鮮やかに見えて落ち着かない。


 眉根を寄せた僕に、紫の瞳が微笑みかける。それは夏の日差しよりも柔らかな、陽だまりにも似た笑みだった。


「解るさ。私は石喰いだからね」


 ——これが、僕と「石喰い」リンドウとの出会いだった。


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