『痛みの花』

 湖を渡る風が、体の熱を奪うように肌をなでてく。


 石喰いは湖の岸辺に佇んで、遠く霞む対岸を見つめていた。夏の光を弾く水面が、揺らめいて輝きを放っている。穏やかな横顔に光が当たって、少しだけ目を細め笑う。


「夏の光っていうものは、たまに痛いくらいに肌を刺すね」


 緩やかに振り返って、石喰いは穏やかな瞳を僕に向けた。わずかに傾き始めた日差しは、それでも強く光を投げかけている。短い影を踏みしめて、僕は軽く首を振った。


「……そう言われても、僕にはよくわからないんですよ」

「だけど、感覚がないわけではないんだろう? 心を持たないわけでもない」

「ええ……けれど、全ての感覚はひどく曖昧で、壁一枚を隔てるように鈍い」


 口に出してしまえば簡単なことだった。他の人間には言えもしない僕の秘密。それを石喰いに話せてしまうことが不思議な気がした。本来なら、誰にも告げることのない話だったから。


 石喰いから少し離れた位置に立って、僕は湖に目を向けた。かつてこの湖を見たとき、水の色は鮮やかだっただろうか。もう思い出せない。いつから僕の心は、こんな風に虚ろに世界を映すようになっていたのだろうか——?


「僕には痛みがわからない。悲しみも苦しみも、僕にとってはとても遠い。こんな僕は」


 おかしいだろうか? 問いかければ、石喰いは本当にかすかに笑みを歪めた。


「おかしくはないさ。むしろ、あなたは幸せだ」


 とても。それは幸せなことなんだ、と。石喰いは目尻を下げて頰を歪ませた。その表情の意味を僕は知らない。概念としては知っていても、僕の心には一つも響かない。


 祭りで街が賑わっても、心踊ることもない。傷ついて涙することも、彼女とのしばしの別れを惜しむこともない。


 人として欠けている僕は、空白を埋めるために笑う。唇の端を持ち上げて、目元を少し緩めれば、どんな表情も笑っているように見えるはずだった。


 きっと今も、笑顔のような表情を浮かべているはずだ。そんな欠けている僕が幸せだと、石喰いは言うのだろうか。


「……痛みがわからないことが、幸せなことだって言うんですか?」

「痛みを知ることは幸せなことではない。知らなくても済むなら、それはとても良いことだ」

「わからない。どうしてなんですか。痛まない心は人として欠けているんでしょう? だったら、僕は人として生きるために痛みを知りたい」


 苦しいとも、悲しいとも思わないけれど。人と違うということに空虚感を覚えていた。


 同じものを見て、同じように感じたい。愛も哀も鮮やかに映る世界ならば、どれほど幸せなことだろう。僕は痛みを夢想する。痛いとは、一体どういうものなのか。


 石喰いはいつしか湖に目を移していた。整った横顔に浮かぶのは、やはり少しだけ歪んだように見える笑顔。光を受けても変わらぬ笑みのまま、石喰いはそっと言葉を吐き出す。


「私は痛みのないあなたが羨ましい」

「羨ましい? 僕が?」

「そうだよ。痛みっていうものは、いつも理不尽なものなんだ。消そうと思ったところで、一度傷ついてしまえば……どんな小さな傷でも、思い出すたび少しづつ血を流していく。心は決して、覚えた痛みを忘れないから。だから痛みを知ることは幸せなことじゃない」


 わからない。首を振った僕に、石喰いは振り返ってそっと手を差し出した。


 開かれた手のひらの中にあったのは、花の形をした小さな石。触れれば砕けてしまいそうな薄い花弁。そんな石の花を差し出して、石喰いはそっと語りかける。


「知ることで失われることがあるのなら、無知以上の幸福はない。けれどもし、それでも知りたいと願うなら……これを手に取るといい」


 差し出された石の花弁を見つめて、僕は不意に彼女のことを思い出していた。


 もし、痛みを知ることで、僕が少しでも「普通」の人間になれるなら。もっと彼女のことを大切に思えるだろうか。曖昧な想いではなく、確固たる気持ちで。


「僕は痛みを知りたい。だから」


 手を伸ばす。それだけで何かが変わるとは思えなかった。伸ばした指先が花弁に触れると、石の冷たさが体温を奪っていく。けれどそれだけだ。わずかばかり、ほんの少しだけ感じた温度に導かれ、僕は石の花を握り込む。


 握っても、石の花は砕けなかった。硬い、冷たい石の塊。手を開くと、石の花が淡い光を放った気がした。夏の日差しに溶ける程度の、消えてしまう淡い光。


「……あなたにとっての幸せが、『それ』であることを祈っているよ」


 顔を上げると、石喰いは微笑んだ。石の花と同じ、今にも消え去りそうな淡い笑みだった。


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