~春~

『いつか帰る春の日に』

 桜の花びらが雨のように降り注いでいた。


 雨桜あめざくらと呼ぶのだと、何気なく訪れた茶屋の主人は語っていた。


 雨桜。確かに空から降り注ぐ様は、花びらを絶え間ない雨のように見せている。「風流だな」と言えば、道連れは「らしくもないね」と笑う。


 俺たちは旅人だ。少なくとも旅をしている人間、という意味では「旅人」という呼称が相応しい。だが「人間」というくくりで言えば、道連れはそれには当てはまらない。


「この町の痛みは、少し苦いね」


 手にした石を軽く食みながら、リンドウは桜並木の続く道を見つめた。


 薄紫色の瞳はいつも微笑んでいるような柔らかな光をたたえている。優しげな瞳で映し出された町には、確かに穏やかな日常が流れているようだった。


「あまり人前で石を食うな。それでなくともお前は目立つ」

「気にしてくれるのかい。それは有難いけれど、今更というものだよ。カナン」


 カナン。暖かな日差しの中でそう呼ばれると、ひどく違和感がある。


 俺はかつて、とある国でそれなりになの知られた将軍だった。しかしその国は隣国との争いに敗れ、将軍であった俺も命運を共にするはずだった。


 だがどういった因果か。倒れた森の中でリンドウに命を拾われ、こうして共に歩いている。不思議な縁と言えばそれまでだが、本当に不思議なのはリンドウ自体の存在だった。


「やはり苦い。けれどたまには悪くないかな」


 リンドウは頰を緩ませながら石を食う。無論、人間は石を食わない。一種異様な光景ではあるのだが、リンドウにとって石は食物だった。


 石喰いの民——リンドウは、人の痛みを石に変えて食う一族の最後の一人だった。


 石喰いは、様々な痛みを石に変えて食べる。人の抱えている痛みが強ければ強いほど、石は甘くなる。だからリンドウが苦いというのなら、この町は満ち足りているのだろう。


 雨のように降り注ぐ桜の花びら。風が吹けば、降り積もった桜は踊るように舞い上がる。雨のように、あるいは雪のように。うつくしい円舞に目を奪われれば、リンドウは安らかな微笑みをこちらに向けた。


「きれいだね」

「……そうだな。しかし、きれいなだけでは腹は膨れん」

「らしい言い方だね。きれいなものでは確かに腹は満たされないか。だが、少なくとも心は満たされるものじゃないのかな」

「心は満たされたとしても、空腹では幸せになれない」


 暗澹とした声で言えば、さすがのリンドウも意図に気づいたらしい。


 微笑みをかすかに苦いものへと変質させた石喰いは、「仕方ない」とでも言いたげに道の先を指差す。緩やかに軌跡を辿れば、雨桜の向こうに小さな茶屋が見える。


「少し、休憩しようか。桜を眺めて茶を飲むなんて風流じゃないかい?」

「らしくないな。石を茶請けにするお前が風流を解すとは思えないが」

「お互い様だろう。君だって茶請けが酒のつまみになるのが常じゃないか」


 他愛ない言い合いをしつつも、俺たちは赤い屋根の茶屋に歩を進める。


 穏やかな日差しの中、店先では看板娘だろうか。少女と言っていい年頃の娘が、桜の枝先を見上げて佇んでいた。俺たちが近づいてきたのに気づいて、少女は笑みを浮かべて頭を下げる。


「いらっしゃいませ。お食事になさいますか?」


 後ろでまとめられた艶やかな黒髪を彩るのは、桜の花の飾りが揺れる髪飾りだ。はめられた石が日差しを受けて、夜の星のように密やかに光を放っている。


 そばかすの散る素朴な笑顔には少し不似合いな、美しい髪飾りではあった。けれど客にすぎない俺がどうこう言う筋合いではない。手短に席への案内を頼むと、少女は気持ちのいい笑みで店先の椅子へと案内してくれる。


「良い天気ですから、桜の見えるお席で構いませんか?」


 桜の花びらの舞い散る店先は、暖かな日差しに照らされていた。

 頰を撫でていく風に、リンドウは心地良さそうに目を細める。椅子に腰掛けて桜並木を眺めれば、優しい春の香りが鼻先を掠めて行った。


「良い天気だね」


 茶と菓子を注文して、降り行く桜を眺めた。緩やかに舞う桜は、いずれ地に落ちるのだろう。けれど風に吹かれて飛ぶ花びらは、あるべき定めに抗うように舞い上がる。


 乱れ舞う。踊るように目の前を過ぎていく桜色に、しばし言葉を奪われた。俺もリンドウも、言葉もなくうつくしい春の光景を見つめる。


 言葉にすれば砕けそうなほどに、訪れた季節は眩しく輝いていた。一時のことだとしても、穏やかに過ぎる時間は心に暖かなものを与えていた。


「お待たせしました。ご注文のお茶とお菓子になります」


 盆に乗って運ばれてきた茶と桜の花を模した水菓子。季節を感じさせるそれらを受け取れば、桜の花びらが茶に浮かんでいる。「風流だな」と呟けば、リンドウも茶に目を落としながら「風流だね」と返してきた。


「この町は桜の名所なんですよ」


 茶を飲みながら桜を眺めている俺たちに、少女は微笑みながら教えてくれる。


 桜の名所。確かにこれだけ見事な桜並木なら、名所と言われるのもわかる気がした。納得して頷いた俺の横で、リンドウは茶を飲みながら首をかしげる。雨のように降る花びらを追った瞳が、少女を捉えると少しだけ細められた。


「確かに綺麗な桜だね。でも名所にしては、出歩いている人が少ない気がするけど」

「ああ、それは」


 髪飾りの桜が揺れる。少しだけ少女の笑みが陰ったのは気のせいだろうか。


 暖かな光に満たされた桜並木の光景。春を感じながら歩めば、心穏やかになる午後の日差し。けれど桜の下を歩く人々は、さほど多くはない。歩んでいる人々にしても、どこか伏せ目がちで表情にも陰りを含んでいた。


「それはきっと、戦のせいですよ」


 人々が顔に浮かべる陰りや憂いを、俺はよく知っている。戦というものは、多かれ少なかれ身近な人間を奪い去って行くものなのだ。


 戦いといえば、人によっては華やかなものに映るのだろう。だが結局のところ、戦場においては単なる殺し合いに過ぎない。


 戦が身近であればあるほど、人々は表情の裏に陰りを隠し持つ。どれほどこの春の光景が美しかろうと、この日差しの下で奪われた事実が消えることはないのだ。


「戦、か。この辺りはまだ、平和な方だと思っていたが」

「……そうですね。少なくともこの町に戦火は及んでいません。でも、やっぱり無関係ではないんですよ」


 盆を握り締める手が白くなる。少女は唇を噛むと、悲しげに桜を見上げた。


「昨年、「ソウ国」が「ナ国」に敗れて滅亡したことで、「ナ国」を抑える国がなくなったんです。「ナ国」は周辺の国々に侵攻を始めていて……この国の国境もひどいことになっているって言います。この町の人も何人も戦にとられていて……私の幼馴染も……」


 髪飾りの桜が小さな音を立てた。少女の顔に浮かんだ悲しみに、俺は何も言うことができない。


「ソウ国」、それはかつて俺が仕えた国。「ソウ国」は長らく「ナ国」と争ってきたが、ついに昨年敗れ去った。王は死に、民は散り散りになったという。


 ひとつの国が倒れれば、その影響はその国だけに留まらない。


 解っていたことではあったが、改めて突きつけられた現実にかすかな痛みを覚える。俺は国とともに死ぬことができなかったというのに、それでもなお、多くの命は散って行く。


 痛みの合間に、桜の花びらが静かに落ちる。少女も俺もそれ以上の言葉を継ぐこともできず、手にした茶も少しずつ冷たくなっていった。


「ごめんなさい。お客様にこんな話をして」


 無理矢理のように笑う顔は、誰の目にも痛々しく映ったはずだ。どんなに取り繕ったところで、胸の内にある痛みを完全に隠し切ることはできない。それは俺にしても同じであったから、きっと同じような笑みを浮かべていたかもしれなかった。


「いいや、もしよければ話してくれて構わないよ」


 何気ない調子で告げて、リンドウは一口だけ茶を飲んだ。世間話のように些細な言葉は、引っかかりもなく胸の底にすとんと落ちる。少女は不思議そうな顔で、リンドウの薄紫色の瞳を見つめた。


 不思議に思うのも無理はなかった。けれど石喰いという存在は、気づけばいつも人の心の傍にいる。「人でないもの」が人に心を寄せる意味は、未だ俺にはつかめないが。


「話すと良いよ。世間話程度なら、誰もあなたを咎めたりしないさ」


 リンドウは微笑んだ。いつも通りの、穏やかな笑みだった。


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