石喰いの花

雨色銀水

石喰いの花 ~旧き時代の終わりに~

 ――人は誰しもエゴを持つ。それが時として偽善となり、誰かを傷つけた。


 石喰いは、旅を続ける一族だ。彼らは人の傷や痛みを石に変えて、それを食べることで生きている。痛みを喰い安らぎを与える石喰いを、人々は心から愛したという。


 しかし時は流れ、人の心は次第に荒んでいく。石喰いはそれでも痛みを食らう。多くの痛みを食らったところで、人の心が安らぐことはなく。


 いつしか、石喰いは人々から忘れ去られていった。傷つけ奪うだけの世界を、石喰いは見放したのだと誰かが言う。石喰いは痛みを食らう。けれど決して、傷つけ合うことを望まない一族であった。


 

 うつくしい、花のように一瞬で散る儚さ。石喰いの命は短い。故に彼らは決して奪わなかった。痛みを石に変え、食べるだけ。奪うことなく、癒しだけを与える一族。


 そんな彼らを、かつての人々は「花の民」と呼んだという。だがそれも今となっては遥か昔。石喰いは姿を消し、人々は果てのない争いの時代へと身を投じていったのだ――。


 ※



『リンドウ』。

 ――彼あるいは彼女はそんな花の名を持っていた。


 男がリンドウと出会ったのは、曇天の空が冷たい雨を降らす日のことだった。


「ソウ国」――男が仕えていた国は、隣国の「ナ国」と長年戦い続けていた。戦いの原因は、些細なことだったという。しかし、長く続い戦いは二つの国に憎悪を植え付け、原因など無意味なものと成り果てていた。


 延々と繰り返された戦い。だが、そんな戦いにも終わりは訪れる。雨の降り続く年、「ソウ国」は「ナ国」に攻め入られ、あっけなく終焉を迎えたのだった。


 男は、「ソウ国」の将軍だった。仕えた国を失い、主を守れず。それでも敵を屠り続けた男は、ついに雨のの降り続く森の中で倒れた。


 全身に数えきれない傷を負い、動くこともできず冷たくなっていく体。男は訪れるべき死に目を閉ざした。無念と悔恨が胸を満たし、自ら終わりを呪った。


 守るべきものを守れず、死に逝く己などなんの価値もない。この死は無価値だ。

 胸を焼くこの痛みは、体の傷のせいではない。為すべきを為せず、死ぬしかないこの虚無を誰が理解できるというのだろう。

 せめて、戦いの中で命を散らすことができたのならば、悔いなど残ることもなかっただろうに。


 雨音だけが森を包んでいた。冷たく頰を打つ雫に慈悲などあろうはずもない。温度を奪い尽くす天上の涙は、失われていく命が無価値だと突きつけるように降り続いた。


 無為の時間が過ぎていく。そんな時だった。雨音の合間に、水を跳ね上げるような音が響いた。

 密やかに、しかし確固たる足取りで近づいてきた何者かは、倒れた男の数歩手前で足を止める。しばしの静寂の後、微かな吐息が雨音に紛れるように届く。


「あなたは」


 わずかでも存在した距離が縮まった。水を踏みしめ、何者かは男の傍に膝をつく。


 伸ばされた手が傷だらけの頰に触れる。暖かな温度。触れた手のひらは、この冷たい雨に不似合いなほどのぬくもりを男に与えていた。


「あなたは、いきたいのですか――?」


 痛みは、ひとときの安らぎの中に消える。目を閉ざした男は、温かな手のひらの中でまどろむような眠りに沈んでいった。


 ※


 軽い音を立てて、口の中で石が砕けた。今回の石は甘い。強い痛みが込められた石は、とても甘いのだ。


 リンドウは無言で石を食むと、焚き火の向こう側で眠る男に目を向けた。

 男は死んだように眠っている。事実、この洞穴に運び込む前までは死にかけていた。それをリンドウが助けた――と言えるのか。少なくとも石喰いであるリンドウにとって、人の痛みは貴重な食料だ。

 男の傷と痛みが形を成した石を食みながら、石喰いは考える。

 この男の髪は黒い。ということは、先の戦いで敗れた「ソウ国」の人間だろう。


 戦いから逃げてきた、ようには見えなかった。むしろ、敗れた後も戦い続けていたのだろうか。だとしたら、こうして生きていることは本意ではないのかもしれない。


 リンドウは最後の石を口に運ぶと、焚き火に枝を投げ込んだ。わずかに火の粉が散り、炎が音を立てて揺らぐ。雨はまだ降り止まない。小さな雨音を聞きながら、石喰いは痛みの石を噛み砕いた。


「……ここは」


 石を砕く音を耳にしたためか。掠れた声を出すと、男は瞼を開いた。開かれた男の目は深い黒色で、まるで闇の底の色のようだとリンドウは思う。


「ここは、森の中にある洞穴ですよ」

 石を飲み込んで男の問いに答える。しかし、石喰いの言葉に返るものは何もなかった。


 男は黙って身を起こすと、空ろな眼差しを周囲に投げかけていた。感情の抜け落ちた顔は、リンドウを素通りしてどこか遠い場所を見つめている。


 雨は沈黙の間にも降り続く。雨音に耳をすませて、リンドウは息を吐き出す。静かな音。


 ほんの少しの生きている音に、男は空ろだった眼差しに力を宿らせた。


「お前が、俺を助けたのか」

「結果を言えば、そうなります」

「何故助けた」

「何故?」

「そうだ、何故だ。俺が誰なのか知ってのことか」

「あなたが誰かは知りません。何故助けたかと言われれば……私は石喰いだから」

「……石喰い? なんだそれは」


 攻撃的な瞳だった。同時に深い痛みを感じさせる瞳だった。石に変えれば、さぞ甘い味がすることだろう。そんな風に思いながらも、リンドウは問いかけに答える。


「石喰いは、人の痛みや傷を石に変えて食べる一族です。あなたの傷も石に変えて食べたのです……ほら、体に傷は残っていないでしょう」


 石食いの言葉で、男は初めてその事実に気づいたようだった。自らの腕に視線を落とし、険しく眉根を寄せる。石食いの言葉が事実とは信じがたい。

 しかし現実に体に負っていたはずの傷は一つ残らず消え去っていた。


「……人ならざる者、か」

「人ではない、と言われればそうなるでしょう。私は石喰いの一族。痛みを糧にして生きる者だから」


 石喰いは自らを語ると、枝を焚き火に投げ入れる。乾いた枝は炎の中で静かに燃え上がっていく。その様を石食いの目は静かに見つめていた。

 火の粉を散らす炎の色は赤。あるいは血色にも似ている。しかし、血肉を喰らわぬ石喰いにとっては見慣れぬ色であった。


「何故、助けた」


 男は繰り返した。石食いは痛みを含んだ闇色を見つめる。瞳から伝わる感情は激しいものであるのに、痛々しさを消し去ることができない。


 男の瞳は言う。何故、助けた。どうして何もなくなった己を生かした。生かされるだけの意味も、生きるだけの意味のない己を。


「何故、助けた」


 繰り返される言葉は、慟哭にも似ていた。秘められるばかりの感情を、リンドウは口を閉ざしたまま見ていた。何故、などと。石喰いにとっては何の意味も――。


「意味がないからですよ」


 炎の色を瞳に映して、石食いは告げた。ひとときだけ、ほんのひとときのことだった。


 男は確かに息を飲んだ。わずかに残った静けさに、リンドウの声が響く。


「生きることに意味がないと言うのなら、死ぬことにどれほどの意味があると言うのですか?」


 あなたは国を失い、守るべきものを守れず、帰るべき場所を失った。


 そんなあなたに、死ぬだけの意味があるのですか? 問いかけは風を切る音に遮られた。


 抜き放たれた剣が、石喰いの喉元に突きつけられている。リンドウは微動だにしな

 かった。怒りに燃える黒い瞳が石食いを貫き、掠れた声が空気を震わせる。


「お前に何がわかる」


 声に込められた痛みが、石喰いには強く響いている。だが、男にその想いが伝わることはない。


 深い悔恨と憎悪、そして悲嘆。

 混じり合う痛みの温度にリンドウは少しだけ目を伏せる。


「わかりません。だけど」


 リンドウは顔をあげた。そこに浮かんでいた表情は、すぐに消えてしまう程度の微笑みだった。

 だが、その微笑みは決して誰かを哀れむものではない。男を憐れむことはない。


「私はこの世界でたった独りです。遺される悲しみが……容易に癒えるものではないと、知っている」


 剣先が震えた。リンドウは消え入りそうな笑みでそれを見つめた。


 石喰いは、滅ぶ。リンドウが最後の一人だった。「花の民」̶̶そう呼ばれた彼らの人

 生はとても短い。リンドウもまた、遠くない未来に散る運命の下にある。


 それでも、遺されることは悲しい。男の怒りが何も救えず、手の中に残らなかった悲嘆から来るものだというのは、リンドウにはわかる。


 怒ることも出来なければ、心は悲しみに飲み込まれ死んでいく。心が死した先にあるのは、本当の死だ。少なくともまだ、男はまだ死んではいない。


「死ぬことに意味がないなら、生きてみませんか」


 微笑みを浮かべたまま、石食いは問いかける。突きつけられた剣先ではなく、その先に立つ男へと。男は表情もなく立ち尽くす。それでも瞳はリンドウを見つめていた。

「痛みで生きるのが辛いというのなら、私がそれを食べましょう。そうして生きて、それでも死んでしまいたいと思うのなら……その時は引き止めません。だから」


 瞳は互いだけを見つめていた。互いに失ったもの同士、傷を舐め合えというのだろうか。


 しかし、それのどこが悪いというのだろう。死ぬこと以上の虚無なんて、この世にはないのだというのに。


「だから、いきましょう。いつか訪れる終わりは、今ではない」


 偽善だ。男はそう告げて剣を下げた。何かに傷ついたように、何かを諦めたように。それでも男は死を選ばなかった。目の前にある現実だけが、石喰いにとっての救いだった。


「お前は俺に生きろと言った。ならばお前はそれを見届けろ」

「それが望みだというのなら、そう致しましょう。私が押し付けた想いです。私の終わりまで……見届けましょう、あなたの道行きを」


 石食いが選んだ道行きは、いつか途切れてしまうであろう道。しかしそれでも、道は今ここにつながったのだろうか。それはまだ誰も知らない、終わりも見えぬ道。


「……お前、名は」

「リンドウ」


 石喰いは、痛みを石に変え食らう。それ故に人を癒し、時に厳しい道へと誘うもの。


 人は誰しもエゴを持つ。それが時として偽善となり、誰かを傷つけた。


 石喰いとて生きるもの。傷つけた痛みを分かち合い、いつか石の上にうつくしい花を咲かせるかもしれない。


 それは一瞬で散るうつくしさ。愛しきは儚きもの。故に人は、石喰いを「花の民」と呼んだのだろうか。









 石喰いの花。君を想う春に――序幕――了

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