魔王来訪

「ちょっと稲生さん! 貴方先月の家賃の支払いもまだでしょう! いい加減にしないと今度こそ追い出しますからね!」

 戸の外から大家のハツ江夫人の怒声が響き渡る。稲生徹平は真昼間から布団に包まりながら、耳を塞いでいた。

「あー、うるさいうるさい」

「それにね貴方、ひと月前からドタドタガタガタ、物音がうるさいんですよ。貴方の騒音のせいで他の店子さんもみんな出て行ってしまって、本当に困っているんですからね。貴方、責任取れますの? 聞いてます、稲生さん!」

「それは俺のせいじゃないっつーの」

 布団の中でぼやいたところで、外で喚き散らすハツ江夫人の耳に届くはずもなく。夫人は黙りを決め込む徹平に痺れを切らしたのか、ドスドスと足音を荒げて階段を降りて行った。

 家賃の安さから選んだ、東京府外れの二階建てボロ長屋に転がり込んで一年余り。他者との関わりを好まない徹平にとって――大家のハツ江夫人の口煩さに目を瞑れば――街の喧騒から離れて落ち着ける良物件だ。しかし、問題が一つだけある。

 夫人の重量のある足音が遠ざかり、やれやれと安堵したのも束の間。

 炬燵に残っていた灰がむくむくと膨れ上がったかと思えば、巨大な坊主の頭へとその姿を変えた。火など点けていないはずなのが頭はぐつぐつと煮え滾り、真っ赤に膨れ上がった中から大量の蚯蚓ミミズが溢れ出してきた。

か……」

 徹平は特に驚いたり嫌悪を抱くこともなく、うんざりと溜息を吐き出す。ここで気にせず放っておけば怪事は収まり部屋の様子も元に戻ると経験則から解っていた。

 正確に数えてはいないが、このひと月ほど、様々な怪事が徹平の住居を襲っている。畳が剥がされる、家鳴りがするがするのは序の口で、小火ぼやが起きたり、不審な誰かや旧知の者を騙った何かが訪ねてきたかと思えば何かしらの騒動を起こしては去り、飛んで来た生首に舐め回されたり、覚えのない死体が現れたり――嫌がらせの類いから身の危険に関わる現象まで多岐に渡る。反応するのも面倒なので、全て無視していたのだが。

「やはり怖気づかぬか、それでこそ平太郎よ」

「――ッ」

 唐突に、室内に響き渡った声。徹平は咄嗟に布団から飛び上がり、枕元に置いていた刀を横薙ぎに払う。その間、刹那。しかし、徹平の渾身の一撃は鉄扇によって受け止められていた。

 いつの間に現れたのか、鉄扇を手に佇んでいたのは、時代遅れの裃を纏った、武士と呼べる大男であった。不敵に笑い、鉄扇を懐に仕舞う。

「……アンタ、誰?」

「誰とは笑わせる。わしは山本。魔王、山本五郎左衛門だ。、忘れたとは言わせまい」

 武士は威厳たっぷりに云う。徹平は頭を掻いた。まともに櫛を通していない頭が、更にぐしゃぐしゃになる。

「あー……人違いです」

「何?」

 訝しげな視線に射竦められても、徹平が動じることはない。飄々と続ける。

「たぶんアンタの言う平太郎って、俺の先祖だと思うんだけど。でも、それってまだ国が閉ざされてた頃の話だろ? 俺、そんなに長生きしてねーよ」

 山本は眉を顰めた。

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