第10話 婚約者との出会いの回想
鈴蘭の花畑で、私は一人読書をしていた。
私にとって唯一の娯楽と呼べるものは、耀昴お兄様と遊ぶことと一人で読書をするこの時間しかない。
私はいつも通り鈴蘭の花の香りに包まれながら、ページを捲る。
「難しい本を読んでいるんだね」
そこに一人の幼い少年が私の顔を覗き込む。
「……誰? 貴方」
思わず彼の方へと振り向く。
水と誤認してしまいそうになる滑らかな銀髪。
澄んだ空色の瞳でこちらを微笑む姿は、まるで絵本や童話の王子様のよう。
耀昴兄様が可愛らしさのある綺麗さなら、彼は洗練された絹糸のような綺麗さがある。でも、その彼の笑顔はどこか怖い、と思った。
「探しましたよ、ジーク様!」
「あ、サルマン。いいよ。気にしなくて、僕の会いたい人に会えたから」
サルマンが慌ててこっちに走ってくる姿に驚きながらも、私は彼の言葉の意味をうまく咀嚼できなかった。
「会いたい、人……?」
「……詐夜子様、こちらにいらっしゃれましたか」
サルマンは呼吸を整えてから、私は見計らって彼に質問する。
「じいや、この人は?」
「こちらにおわせられるはアルスタット王国の王子、サミュエルジーク・エカード様です。今度から貴方の婚約者となる方ですよ」
「……婚約者?」
婚約者って、こんな私に婚約者? 私より年上そうな彼が?
いけない、彼に自然体で話しかけている。ちゃんと礼儀正しくしないと。
「失礼しました、サミュエルジーク様」
「気にしなくていいよ。名前は長いから、ジークでいいよ」
「……お父様は許可しているの? サルマン」
「詐夜子様、それは――」
「確認なんて必要ないよ、僕は君の婚約者なんだから。好きに呼んで?」
サミュエルジークは、当然のことのように言う。
耀昴お兄様と晩兎兄様に日奈とサルマンだけしか、名前を呼ばせてくれなかった。
婚約者という義務を果たそうとしているだけかもしれないけれど、でも、そう言ってくれることがじんわりと胸に熱が広がっていくのを感じた。
「婚約者なら、愛称で呼んでも許されるのですか?」
「そういうものだと、僕は思うよ。口調も、公式の場以外は素でいいんじゃないかな」
「わかったわ、じゃあよろしくね。ジーク」
「うん」
私は胸にわずかに沸いた熱が、喜びだと気づくのはそう遠くない未来の自分が気づくことになる。
◇ ◇ ◇
あの頃は、いじめっこ姉妹の姉である遊砂に地味な嫌がらせを受けていたな。
可愛らしい物ばかりだったけど、今は笑えないものまで段々と増えてきているな。
そういえば、いつからあの姉妹は私をいじめるようになったんだっけ?
……でも、彼との出会いは今でも私にとって大切な思い出だ。
『まるで御伽噺の王子様とお姫様って出会いだなあ』
にやにやとサイラスは私のベットの上で笑っている。
私は鏡越しでサイラスを睨む。
――うるさいわよ。サイラス。
確かに、潔一だった時の記憶で言うなら、少女漫画的な出会いともいえるかもしれないけれど、私と彼の出会いは別に……!!
『でも、女の子にとってはロマンチックな出会いじゃね?』
にやにやと不思議の国のアリスのチェシャ猫よりも傲慢な笑みを浮かべる従僕が腹立たしい。
――だとしてもよ。
潔一の記憶の中に、私が悪役令嬢なる展開が待っていないという可能性がないわけじゃないわ。思い出される彼の知識の中にある彼の好みだったジャンルの作品の知識が余分に多いせいでどうも頭が痛くなる。
ラノベ作家であったのも事実だし、アニメと呼ばれる媒体や作品の中で、私の存在はとある役柄が浮かぶ――――悪役令嬢だ。
王子との婚約相手がいる、学校に通うことになる可能性もある。
つまり、私が何かしらの破滅を経験する可能性は少なからず否定できないわけで。
『それを言うなら、悪役令嬢じゃなくて悪役王女だな?』
――そんなことはどうでもいいの!
ああ、想像しただけでも鳥肌が立ってくる。
私は悪役になることがあっても、別に恋なんてする気もないもの。
少なくともこの世界は地球とは違う異世界なんだから。今までの前世の記憶がどこまで通用できるかもわからないんだし。
少なくとも、女は政治の駒扱いなのは中世の時代なら当然だったのだのは中世よりも前の貴方なら想像に難くないんじゃないの? サイラス。
『……なんのことかわからないねぇ、まあ? お嬢さんの恋愛小説並みの人生は拝見する契約になってるのは変わらないけど』
……殺すわよ?
『あっはっは! ガチでキレてるっ! こっわぁ!! 可愛いねぇ可愛いねぇっ、ったっはっはっは!!』
けらけらと笑っていたサイラスは私を笑うのをやめて後ろ首に腕を組みながら彼はベットの天幕を眺める。
『でも無冠之檻、だったか? まるで牢獄みたいな名前だよな。窮屈で自由を感じない。世界の名前はもっと奔放な名前にすればいいのにな』
私はサイラスの言葉を聞いて髪を梳かしてくれている日奈の手を見る。
無冠之檻……どういう意図で名づけられた言葉なのか理解できない。
地球の中世以前の頃からあった魔法が使えるのはありがたいことだが、これから私の復讐劇を始めるためにも、情報は最大の武器だ。
そして、仲間も集めないといけない。
やることはたくさんある。
――復讐に果たすためなら、私はお父様だって殺すわ。
詐夜子が鏡の前でドロドロした黒い感情が渦巻いている銀色の月の瞳にサイラスはわざと茶化す。
『おお、こわっ。でもさすがは俺のサヨ様だ。それでいいさ。今のところはな』
「……改めて考えておかないとね」
ぽそっと呟いた言葉を拾った日奈はぴたり、と髪を梳かす手を止める。
「……日奈?」
「詐夜子様、それってジーク様が来る日までに徹底的におめかしをするってことですね!?」
「……ちょっと待って、日奈」
日奈の方に振り向くとキラキラとした目で私を見つめる。やる気に満ちている目だ。メイドとしての、意地のようなやる気の目。
……私は、何か変なことを言ってしまった?
『今のは俺の会話がなければ、お嬢が婚約者様のために服とか化粧を頑張る、ってことの意味にしかなってないだろ』
しまった、全然気づいてなかった。
脳内でサイラスと会話するのに集中していたから、気が付いてなかった。
私は再度日奈を見ると、彼女は私のことなど視野になく全力で拳を掲げている。
「詐夜子様のためにも、当日までに頑張りますよー!!」
「え? い、いや……その、」
『自業自得だなぁ、ご主人様?』
――どうしてこうなった。
107回目の私である白崎潔一のネットスラングの言葉が頭に過った瞬間だった。
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