第10話 気なんてとっくの昔に狂っていた。
「お姉様っ!」
「スフィアっ!」
お父様の横領の件、ヘルディン男爵が我が家に負っている借金の件、アリエスの養女の件、解決すべきとは山のようにある。
さっさと執務室に戻ろうとヴァイス殿下を見送ってすぐに邸に入るとアリエスとお父様が待ち構えていた。
「どうかなさいました?」
「お姉様、私がまだ公爵家の人間ではないってどういうことですか?」
「スフィア、お前はまだ書類にサインをしていなかったのか。アリエスはワーグナー殿下に見初められた。何れは王子妃になるんだ。お前とは違ってな。分かったらさっさと書類にサインをしろ」
うるさい。
「ワーグナー殿下は第三王子です。ヴィトセルク殿下は王太子なので彼の奥方は王妃になれます。ヴァイス殿下は騎士団長職に就き、功績を残している為公爵の地位を与えられています。けれどワーグナー殿下はまだ学生で何の功績もなく地位もありません。そんな彼と結婚するあなたに一体どのような権力があるというの?」
「アリエスはワーグナー殿下と結婚して何れは公爵夫人になるんだ。だからさっさと書類にサインをしろ」
この男は何を言っているのだろう。
ここまで愚かだったとは。そんな男にむざむざと公爵家を乗っ取られ、殺された自分の情けなさが腹立たしい。
「そうよ、お姉様。婚約破棄されたお姉様の嫁ぎ先ならお父様がすぐに見つけてくださるわ。婚約破棄されたあなたに相応しい嫁ぎ先をね」
くすりとアリエスは笑う。
そんな二人に私の方が笑いだしてしまった。
つかつかと私の前に来たお父様はバシンッと私の頬を叩く。
暴力でしか人を従わせることができないのね。
「何がおかしい?」
「何もかもがよ」
前の私なら泣いて謝っただろう。
でもね、こんな暴力に臆することはもう二度とないのよ。だって何年も、何度も、数えきれないほどの暴力を浴びたもの。暴力を振るわれ続けてね、感覚が麻痺して痛みさえ感じなくなったの。
せっかく妊娠したのに子供は流れてしまった。暴力とストレスで子供が生めない体になった。
「アリエス、あなたは公爵家を継げないわよ」
「それは」
「私があなたを養女として迎え入れる書類にサインをしないから?いいえ、関係ないわ。家を継ぐのは公爵家直系の者。いない場合は分家から養子をもらうことになるけど、あなたよりも格上の分家からになるわ。そもそも両親のいない孤児同然のあなたが公爵家を継げるわけないでしょう」
「ひどいわ」
ぽろぽろと涙を流すアリエス。
可哀そうなヘルディン男爵夫妻。あなたの豪遊のせいで借金は膨れ上がり、無理な事業に手を出して失敗。膨れ上がった負債にどうすることもできず死んでいったのよ。はたしてあれは事故だったのかしら。ねぇ、アリエス。
「お前には人としての情はないのかっ!」
涙を流すアリエスをお父様は抱きしめる。まるで彼らの方が血の繋がった本当の親子のようだわ。
「仕方がありませんわ。子は親の背を見て育つもの。その親から情をかけられずに育てば情のない子供ができるのは当然のこと。子育てに失敗したのはあなたです。ご自分の失敗を私のせいにしないでくださいまし」
「親に向かって何だその態度は」
お父様は私を殴り続けた。使用人の前で。
馬鹿な男。
殴り続けて気がすんだのかお父様は私の血で赤くなった拳を握り締めながら床に横たわる私を睨みつける。
「お姉様、お父様はお姉様の為に言っているんですよ。どうして逆らったりするんですか?」
「私の為?自分とアリエス、あなたの為でしょう。アリエス、あなたって見かけによらず図々しい女ね。あなたの両親が我が家に負った借金を返そうともせず、我が家で豪遊三昧」
「そんなことしていませんわ。毎日、ドレスや宝石を買って贅沢をしているのはお姉様の方ではないですか」
そう言って泣くアリエスの首に下げられている宝石を私は引っ張った。
「このネックレスは何?あなたの着ているドレスは?髪につけている装飾品は?全て高級品よね。お父様に買っていただいたの?それとも殿下?少しでも負い目があるのならお父様からのプレゼントは断るはずよね、殿下からの贈り物だって売って借金返済の足しにすればいいじゃない。そうとはせず、毎日私に見せびらかしに来たじゃない」
その光景を見たことのない使用人はいない。
「私が贅沢ですって?お母様のドレスを直して着ている私が?小ぶりの宝石がついたネックレスをつけている私が?今の私の服装とあなたの服装、どちらが贅沢をしていたかなんて子供でも分かるわよ」
お金がない訳じゃない。
ただ贅沢品を少しでも持っているとアリエスに盗られてしまうから持たないようにしていただけ。
「ア、アリエスは両親を亡くして可哀そうな子なんだ!少しぐらい贅沢をさせてやりたいと思うのは当然じゃないか。お前はそんなことも許せないほど狭量なのかっ!」
「だから全て譲って来たではありませんか。ドレスも宝石も。ああ、そういえば最近では婚約者もお譲りしましたわね。あなたっていつも私の物ばかり欲しがるわよね。そんなに私の真似がしたかったの?言ってくださればおさがりですもの。喜んで差し上げたのに。こんな奪うようなことをしなくっても。ごめんなさいね、あなたの気持ちに気づいてあげられなくって。今度からは何でも言ってね。おさがりぐらいあげるわよ。だって、もう要らないもの」
アリエスは屈辱と怒りで顔を真っ赤にして体をふるふると震わせている。
「気でも狂ったのか」
いつもの私と違う。まるで別人のような私を見てお父様がそう零してしまったのは仕方のないことだ。
「気なんてとっくの昔に狂っていましたよ」
あなたに見捨てられた時、誰からも顧みられず過ごしてきた日々、あの悪魔のような男に嫁がされた時、地獄のような日々を喰っていた時、そして一人孤独に死んでいった時。
どうして狂えずにいられようか。
「もし正気を保てていたのならそれこそ狂気だわ」
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