はなれ
斉木 京
はなれ
記憶というのは時を経るとともに書き変わってしまう場合がある、という話を聞いたことがある。
特に幼い頃の記憶なんかは曖昧で、家族や幼なじみと昔の話をすると細部が食い違う、なんてことはきっとありふれているのだろう。
だからこれも、そんな類の話なんだと思う。
そう考えないと、どうにも落ち着かない。
あんな異様な出来事が本当にあるはずがないから━━。
十年前のこと。
私は二つ年上の兄とともに母方の祖父母の家に預けられたことがある。
すでに両親は離婚していたが、その年は母が急遽仕事で海外に出張しなければならなくなった。
私が小学校にあがる前だったので兄弟二人では心許ないと思った母が実家に頼んで、一週間ばかりの間、身を寄せることになったのだ。
ちょうど六月の終わりごろ、しとしとと霧のような雨が降る日の夕方に、私と兄は祖父母の家に着いた。
周囲には一面田んぼが広がっていて、隣の家がだいぶ離れた所にあるのが辛うじて見える。
玄関で小柄な祖母が出迎えてくれたが、母は車から私たちの荷物を運び込むと早々に東京へと帰っていった。
母の車が霧雨のけぶる中に消えていくのを、ひどく心細く思いながら見送ったのを覚えている。
初めて来たわけではないのだが、正直私は祖父母の家に馴染めなかった。
江戸時代に建てられたということで、ずいぶん広いが昼間でも薄暗い。
それに祖母から、”はなれ”には絶対に近づかないようにと言い含められていた。
”はなれ”というのは普段私たちが寝起きする母屋から短い渡り廊下で繋がっている建物のことだ。
もちろん私は立ち入ったことはないが、庭から眺めた感じでは一部屋分の広さしかないように思える。
窓も板戸で塞がれていて中に何があるかなんて見当もつかなかった。
祖母が言うには建物自体が傷んでいて危ないから行かないように、とだけ言われていたが、そもそも渡り廊下の入り口の所に重量感のある古めかしい水屋箪笥が、来る者を拒むように置かれているので、通れるはずがないのだ。
それからこの家には嫌だな、と感じることがもう一つある。
それは、気難しい無口な祖父だ。
気さくで世話好きの祖母とは対照的で、いつも奥の書斎に閉じ籠もって古い本や何かを読み耽っている。
私が何か話しかけても横目でちら、と一瞥したきり返事もしない。
色褪せた着流しを身に付けて、眼鏡をかけた眉間に皺を寄せて難しい顔をしているのが常だった。
時々廊下ですれ違う時も何となく近寄り難い空気を発していて、兎角私は苦手だった。
祖父母の家に身を寄せてから三日ほどは寝床に入ってもなかなか寝付けなかった。
兄はそんな私の心情も知らずに自分だけ鼾をかいているのだった。
長い一週間の最後の日、祖母が村の寄合に出ると言うので午後から出かけていった。
祖母が出た後、兄までが家を出ると言い出した。
この村で友人が出来たとかで、遊びにいくという。
私も行きたい、と兄に頼んだが邪魔になるから、と袖にして一人で飛び出していった。
その直後からしとしとと、六月にしては冷たい雨がそぼ降りだした。
たった一人で、陰鬱な広い家に残された私の気持ちは重く沈んだ。
いや正確には一人ではない。
祖父はあの書斎の扉の奥にいるに違いないのだ。
そう考えるだけで、余計に気が重い。
時刻は夕方に差し掛かり、辺りも次第に薄暗くなってくる。
ふと尿意を覚えて、手洗いに行こうと廊下を歩いていたら急に横から、とん、と物音がした。
廊下の暗がりから、小さな何かが弾みながらこちらに向かって来る。
よく見れば、華やかな幾何学模様が編み込まれた小さなボールの様な物だった。
後々それが手毬というものだと知った。
やがて毱はころころと転がり、私の足元で止まった。
それを拾い上げて、ふと"はなれ"の方を見やると、いつも鎮座している水屋箪笥が消えている。
渡り廊下のよく磨き込まれた床板を上を、髪を結った小さな女の子がひたひたと小走りにこちらにやって来る。
ああ、一人ではなかった──。
私は安堵したのを覚えている。
今思えば不思議だ。
あれほど祖母からはなれには近づくな、と言われていたことも、その時はすっかり頭から消えていた。
女の子は私と同じくらいの年頃で、嬉しそうに私の手を取ると、しきりにはなれの方を指差した。
「一緒に、遊ぼう」
私は急に嬉しくなって頷き返した。
見れば渡り廊下の突き当たりの板戸が、すすっ、すすっ、と少しずつ開いて、その昏い部屋の奥から冷気が這うように染み出し、やがて私の足元を包んだ。
板戸の奥の闇に目を凝らすと、誰かが半身だけ覗かせて、こちらを窺っているのが分かった。
白い細面の女が、目を細くして笑んでいる。
「母さま」
女の子が振り返って言った。
どうやら女の子の母親らしい。
女の子は私の腕をぐいぐいと引っ張ってはなれの方へと誘う。
私も夢の中のようなふわりふわりとした心持ちで、はなれへと寄っていく。
板戸の前まで来ると、暗い座敷の中がぼんやりと見えたが、それよりも異様なまでに白い女の顔に引き寄せられた。
「あんたも一緒に行くかい」
女は屈んで、ずず、と顔を近づけてくる。
女の子は私の腕に固く抱きついて、冷たい頬を寄せた。
何の疑念もなく頷こうとすると──。
ぎしり、と背後の床板が鳴った。
我に返って振り返ると、祖父が立っていた。
眼鏡の奥の射るような目が、女に向けられている。
女はにたり、と笑いしばらく祖父と睨み合っていたようだが、やがて座敷の奥へと後退りする様に姿を消した。
突然、私の腕を掴んでいた童女の口の両端が亀裂が走るように裂け出して、金切声をあげた。
そこからの記憶はもう無い。
気がついたときには、祖母が私を抱き起こし、兄が心配そうに覗き込んでいたのを覚えている。
私は渡り廊下の前で気を失っていたらしい。
見上げれば、渡り廊下の前にはいつものように黒い大きな箪笥が聳えている。
さっきのあれは夢だったのか。
その翌日には母が迎えに来て、私と兄は東京へと帰った。
帰りの車中、私が見たことを母や兄に話したが、夢を見てたのよ、と取り合っては貰えなかった。
次に私が祖父母の家を訪れたのは、祖母が亡くなった時だった。
高校生になったばかりの私は、忘れていた当時の事をふと思い出した。
かつてと変わらず、はなれに続く廊下は大きな箪笥で塞がれだままだ。
祖父が気落ちしているだろうと思い、姿を探すがどこにもない。
「ねえ母さん、お祖父ちゃんは?」
私が尋ねると母は怪訝な顔をした。
「お祖父ちゃんなんて、あんたが生まれる前に亡くなってるでしょ」
「お前、何言ってんだ」
隣にいた兄も呆れたような声で言った。
ふと仏間の長押を見上げると白黒の祖父の写真が掲げられている。
あの幼き日の一週間に会っていた祖父は何者だったのか。
葬儀の合間に母に"はなれ"についても尋ねてみた。
もうあんたにも話してもいい頃ね、と前置きしてから母は語った。
「昔ご先祖の頃は、あのはなれには全国を旅する商人なんかを泊めてたらしいよ。でもある時、子供連れの芸者さんが心中してから、はなれは開けずの間にしたそうだよ」
それを聞いている時、暗い廊下の方から、とん、と毱が弾む音が聞こえた様な気がした。
はなれ 斉木 京 @fox0407
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