第3話 胸騒ぎ


 段柳祐介( たんやなぎ ゆうすけ )。

 その名前を思い出すのも久しぶりだ。だが、僕は忘れたわけではない。何一つ忘れてしまったという気がしない。

 もう十年ほども前だというのに、ありありと思い出せる。眼前に君の表情や声色、話し方や、背格好。そして、君の暮らしていたあの豪奢な屋敷。そのどれもを詳細に描き出せるというくらいの自信がある。


 僕は断言しておく。それは君だからこそ、そこまで鮮明に記憶しているのだ。


 段柳祐介。


 いや、頭のどこか隅に君との三年ほどの交流の記憶がこびりついて離れないのだ。

 他の友人ではあり得ない。それほどの衝撃と意外さ、異様さがあった。

 ただ、これはあくまで僕の勝手な自信であり、きっと歳月の経過が僕の記憶の細部をぼやかしたり、脚色したりした部分は充分にあるだろう。


 時計を見ると十一時を過ぎている。


 僕は冷蔵庫に入っていたバナナを口に押し込むようにして食べると、家を出た。


 男一人暮らしの六畳間に玄関扉が閉まる音が乾いて響く。


 僕は不穏を感じながらも、高校時代の旧友に会いに行く。

 果たして、それで良かったのかと考えると、本当は行かない方がよかったのだという気もする。ただ、それはコトがすべて終わったあとになってから思うことだが。

 自分の正直な気持ちに従って、止せば良かったのだ。

 あれほどの悪夢を見ないで済んだのだ。いまだにそれが現実だったのか、踏み入れてしまった地獄の情景なのだか、いったいどちらだったか、よく分からなくなる日さえある。

 すべてはあとになって後悔するしか無い。


 その時の僕は、荒天を告げる空の色にも関わらず傘を持つのを忘れていた。それほどに内心が混乱していたのだ。正常でなかった。心の余裕はこれっぽっちもなかったのだ。


 友人の段柳祐介の電話から聞こえたのは女の声。その女の声は、自分を祐介の母だと称していた。


 僕は自分の身に、この先死ぬまで尾を引くことになるであろう体験をするなんて、そこまでの覚悟はなかった。それほどの覚悟はなかったのだ。


 胸騒ぎ。

 喉に突っかかった魚の骨のようなすぐには吐き出せない違和感。 



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