第九節:狼狽

 体育用具室も学園の中で独特のにおいを持つ場所の一つと言えるだろう。


 このにおいは何だろう、汗…石灰…土…それが良い具合に混ざって行って、独特のにおいを構成して居るのだろう。

 あたしはクラスの用具当番数人と一緒に授業後の後片付けをしていた。バットやらソフトボールやらグラブやらをいっぱいに抱えて体育用具室に片づける。あたしは荷物をいちいち下に降ろすのが面倒になって足でドアを蹴飛ばして、出来るだけ効率よく作業を進めようとしたのだが、他の当番達は、その様子を眉をしかめて見て居た。

 行儀が悪いのは百も承知だ。だが、効率を上げるには、これが一番手っ取り早い。立ってる物は親でも使うのがあたしの流儀だ。しかし籠一杯のソフトボールは、丸いだけあって、あまり収まりが良くない様だった。詰め込まれた籠の中から一個のボールが転げ落ちグラウンド横の通路に向かって転がって行った。

 それを見た当番の一人が追いかけようとしたのだが落っこちたのは、あたしの扱いが悪かったからだろう「あ、あたし拾って来るから」と皆に行って、一旦道具を用具室にしまい、ボールに向かって走り出した。やはり、行儀は良い方が効率が良いのだろうか、これでは二度手間だ…

 ボールは点々と通路を転がって行く。そして、手が届きそうな距離に近づいたので、あたしはそれに向かって手を伸ばした。

 しかし、あたしはそれに触れる事は出来なかった。何者かが、そのボールを拾い上げたのだ。そしてそれの動きを視線が追いかける。


「はい、どうぞ」


 視線の先に有ったのは生徒会長の顔だった。


「あ…ありがとうございます」


 差し出されたボールを受け取りながらあたしは反射的に、そう返した。うん、我ながら素直だ。


「じゃぁ、又、今度…」


 生徒会長はそれだけ言うと踵を返し校舎の方に向かって遠ざかって行く。


「さぼり?」


 体育の後片付けをしては居るが、今は授業中だ。生徒会長は授業の免除もされるのだろうか…あたしは生徒会長が出て来た通路を覗きこむ。袋小路の通路の先には花壇が有った。赤い『スミレ』が風に揺れている。分らん…生徒会長はここで何をしていたのだろう。花壇当番は早朝だ。もしかしたら、この花壇は生徒会長の個人的な趣味だろうか…受け取ったボールを見詰めて首をかしげて見たが、理由は思いつかなかった。


「ニーナ、ボールはぁ?」


 あたしの後ろで声が聞こえた。クラスメートの呼ぶ声だった。


「あ、大丈夫、今、行くから」


 そう叫んでからあたしは体育用具室に向かって走り出していた。


★★★


「今日は、一年の部屋の見周りが有るの」


 ユキはそう言って、ちょっと狼狽して居た。自分が持ち込んだ携帯端末を何処かに隠さないといけなかったからだ。もし見つかれば、ユキも生徒会室行きの運命から逃れる事は出来ない。


「ユキ、良いチャンスだから見つかって生徒会室送りになって、何が有るのか調べて来てよ」


 あたしは冗談半分でユキに向かってそう言ったのだが、ユキは本気でそれを拒んだ。何時も優しいユキが、これ程の反応を示すのだから生徒会室送りになるのは心底嫌なのであろう。しかし、隠し場所に関しては、真剣に考えないと、あたしが生徒会室送りだ。


 虎穴に入らんば虎児を得ず…


 だめだ、そんな犠牲的精神はあたしには無い。先ずは隠し場所を確保せねば。


「防水パックに入れてトイレの水タンクに入れておこう」


 ユキは防水パックをあたしに見せながら、いたずらっぽい笑顔でそう提案した。流石だよユキ。あんたも意外と隅に置けないのね。悪の限り計画の一員に任命しようかなと、本気で思った。

 そして、携帯を隠し終えたとほぼ同時にドアがノックされる音。それを聞いてユキが「はぁい」と返事をして部屋のドアを開けた。ドアの向こうに立って居たのは寮長のハル寮長と生徒会長のクリス。それに何時もの取り巻きが二人だった。


「こんばんはユキさん。定期チェックよ、部屋の中を見せて貰うわね」


 ハルは優しい微笑みを浮かべてそう言うと生徒会長達と共に部屋の中に入って来た。その面々が部屋の中を物色する。ベッドの下やクローゼットの中、机の引き出しにサイドバッグの中。かなり念入りに調べて居たが、流石にトイレの水タンクの中までは思いつかなかった様だった。


「うん、大丈夫ね」


 ハル寮長は持っていたクリップボードに何事かを書き込んでからあたし達に「おやすみなさい」と一言言って部屋の中から出て行った。


 「ふう…誤魔化し切れたぁ…」


 ユキはそう言って安堵の表情を浮かべると、ぼすんとベッドに倒れ込んだ。やっぱり生徒会長が絡んで来るんだ。彼女達は、一体何をこそこそやって居るのだろうか。

 ユキがトイレのタンクから携帯を回収してあたしにそれを返してくれた。あたしは電源を入れてメールの着信が無いかどうかを確認したが残念ながら着信は無かった。それにしても地球の友人達は冷たいな。いくら遠いとは言え、メールの一つでもくれれば良いのに。皆、都会の夜を楽しんで居るのだろうなと思うと、地球が無性に恋しくなる。あたしは窓の外の月を見詰めながら、地球の夜に思いを馳せた。これは所謂、ホームシックと言う奴だろうか…


★★★


 又、何時もの夢だった。あたしは、ピンスポットに照らされて地面にぺたりと座り込んでいる。意思を持つ紙吹雪はあたしの体を取り巻いて輝きながら舞い踊る。そしてそれらはあたしの体の中に入り込んで来る。夢だと言うのに、このリアルさは何だろうか。皮膚を通り越してあたしの血に溶け込んで来る感覚…不快では無い。体はそれを受け入れようとしていたが、思考がそれを拒絶する。


「入って来るな!」


 そう叫ぶと同時に目が覚めた。あたしはベッドの上に起き上がって居た。意識がゆっくりと覚醒する。部屋の様子がぼんやりと月明かりに浮かぶ。そして、心配そうに見詰めるユキの姿。あたしを見詰めるユキは、意外な事を語り始めた。


「ニーナ…ひょっとして…紙吹雪の夢?」


 少し躊躇いながら言ったユキの言葉が聞き間違いに感じられたが彼女は確かに「紙吹雪の夢」と言ったのだ。


 あたしは顔を上げて、ユキを見た。彼女は優しく微笑むと自分の体験を語り始めた。


「ニーナが見た夢、この学園に入学した人の大半が見てるらしいの。シチュエーションは微妙に違うんだけど『花』と『紙吹雪』って言うキーワードは一致するみたい」


 成程、確かに花と紙吹雪は良く出て来る光景だ。なんだか気分が悪い、喉が渇く…


 彼女の話によると、その夢は入学して一週間位で見なくなるらしいのだが、百数十人が一斉に同じ夢をみると言うのは尋常ではない。何か特別な力でも働いて居るのだろうか。


「黄色い花…赤い花…紙吹雪…携帯狩り…生徒会…」


 あたしはぼんやりと、そう呟いた。思考が働かない。これの関連性は何処に有るのだろうか。いや、それ以前に何が問題なのか分らない。行方不明者が出た訳でも無ければ、殺人事件が起きた訳でもない。正直な感想を言ってしまえば、この学園は平和その物だ。全寮制の学園と言う外界から隔離された環境で有る事意外を除けば過ごしやすい事この上無い。地球の夜の様な高揚感は無いが長い人生、こんな時期が有っても良いのではないかと思う位、平和な環境だ。


「あたしは…喧騒を愛する派だ…」


 そう口に出して、自分の心の変化が気になった。慣れて来ているのだろうか…この、のどかな環境に。朝は起きる物、夜は眠る物、規則正しい健康的な生活…あたしは、この星の、この学園の環境に飲み込まれようとしているのではないか。都会のごちゃごちゃが好きだった筈だ、ひりひりする感じを求めて居た筈だ、しかしこの…この星はそんな冒険心を打ち砕く。


「ニーナ…」


 あたしは何故か泣いていた。両方の目から熱い涙が頬を伝わり流れ落ちる感触をはっきりと感じ取る事が出来た。その涙をユキのしなやかな指が拭い取る。


「ユキ…」


 そう呟いたあたしの頭を彼女が抱き寄せてくれた。心臓の音がする…快いリズムがあたしの耳に届いた。

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