1922年 東京駅近くの 喫茶店

 ……真新しい扉を開けると、チリンと鈴の音がした。彼は洋風の椅子に腰掛けて、熱心に手元の本をめくっている。

「如月」

 遠野が声を掛けると、彼は癖のついた髪を上げ、天使のように微笑んだ。黒の学生服に、黒のマント。彼は遠野と同じ格好をした、至って普通の大学生だ。しかし、決して気取った性格ではないのに、彼の雰囲気は非常に煌びやかだった。

「君の方から、僕を呼び出すなんて、珍しいね。しかも、随分と洒落たところじゃないか」

 如月はそう言いながら、遠野に席に座るように促した。白い布の掛かったテーブルに、二人は向かい合わせになる。

「僕は、ハヤシライスにしよう。……君は?」

「ああ……。俺も、それにしよう……」

 如月の言葉に合わせながら、遠野はぼうっと彼の横顔を見つめた。おしとやかな女給を呼び寄せ、穏やかな手つきで注文を通す姿を。

「最近は、派手な格好をした女給も多いが……。僕はこれぐらいの方が、性に合って落ち着くよ。馴れ馴れしい接客は、あまりしてほしくない」

「ここはカフェーじゃないからな。おまえが嫌がると思って、別の場所にしたんだ」

 巷では、「カフェー」と呼ばれる喫茶が増え、可愛い女給が接待してくれる。しかし如月は、そういう場所を好まない。ゆっくりと本を読める空間が、彼のお気に入りなのだ。

「それよりも、研究の方は順調か? 毎晩毎晩、教授の下につきっきりだと聞いたが」

 遠野が聞くと、彼はニコニコと笑みを浮かべた。三度の飯より研究が好き。……この手の人間は、いつの時代にもいるのだった。

「なに、心配には及ばない。次から次へと、新しい発見ばかりだよ」

 如月は使い古した鞄から、びっしりと文字の書かれた紙を取りだした。つい先日、教授との共同研究で、とある歴史的な文献を発見したらしい。

「この論文は、室町時代に書かれた恋文に関するものなんだ。庶民の生活を知る上で、非常に重要なものだ」

 彼は滑らかな白い指で、紙の中央を差した。ここに書かれた言葉が、今の「恋文」に相当する文言らしい。

「教授が言うには、この恋文は、何らかの文面を参考にしたものらしい。これが解明されたら、きっと素晴らしいことになるよ――」

 ――如月の美しい瞳が、遠野の顔を捉える。遠野は思わず顔を伏せ、頬を赤く染めた。……まさか、恋文の話をされるとは、思ってもみなかったのだ。

「……どうしたんだい、遠野? 何だか、様子がおかしいが」

 如月が不審がると同時に、ハヤシライスが二人分、上品なプレートに載って運ばれてくる。遠野は挙動を誤魔化すように、ハヤシライスを口にした。

 ……言えるわけがない。遠野は鼓動を抑えながら、折りたたまれた紙を取り出した。先に恋文の話をされて恥ずかしかったなど、到底言えるわけもない。

「……ふむ、中々美味しいね。今度からは、この店に通おう」

 如月の淡いつぶやきは、遠野の耳には入ってこない。彼はただ、紙を渡すか渡さないか、それだけを考えていた。――渡さなければ、せっかくここに誘った理由が、全くと言って良いほどなくなってしまう。やはり、渡さなければ。

「如月」

「ん? 何だい?」

 遠野は深く呼吸をすると、四つ折りの紙を差し出した。……恋文を研究する彼に、自分の書いた恋文を渡すのは、なんと緊張することだろう。

「どうか、これを受け取ってほしい。そして、答えを聞かせてほしい」

 如月は小さく首をかしげたが、ゆっくりと彼の紙を受け取った。……しばらくののち、彼が耳の先まで赤くしたことは、最早言うまでもない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る