第120話 日本

 吉川利子、事故当時二十歳。道で女性と接触し、落とした物を拾っている時、居眠り運転の車が歩道に突っ込み事故に巻き込まれた。現在も昏睡状態が続き、入院生活を送っている。

 運転していたのは都内でインターネット関連事業を展開している一部上場企業の創業者で、運転する数時間前に副作用に眠気を引き起こすと注意書きのあった薬を飲んでいた事と、被害者が一名死亡、一名回復が困難な状態にあることも連日センセーショナルに報道されていた。


「若いからな…難しいな。」


 弁護士の高田悟はバインダーを閉じて、コーヒーを一口飲んだ。




「金のムダだ。今すぐ延命治療などやめろ。慰謝料も随分と入ったと聞いたぞ。こう言う人間の治療費にいくらかかると思ってる。そんなムダなことはもうやめろ。金がもったいない。」

「数年音信不通だったのに急に病室へ入ってきて、さっきからムダムダってなんだよ。利子はまだ生きてんだよ。命のために使う金にムダなんてあるかよ。とにかく、ここではそんな話はするな。利子が聞いてる。」


 男はハッと鼻で笑う。


「病院の前に喫茶店がある。そこへ行くぞ。」


 切れ長の目が魅力的な青年は、顔の似たその男の袖口を引っ張るように病室を出た。

 青年は先日、弁護士と話していた日のことを思い出していた。



「実は、同じ事故で亡くなった早崎さんのご遺族が、自分たちに支払らわれる慰謝料全額を利子さんの治療費として寄付したいと申し出てくれてね。」


 柔和な表情を崩さないままコーヒーを一口飲んだ。


「利子さんの治療を続けると聞いた早崎さんのご遺族が君の判断を応援したいと仰っていて。昏睡状態の人への治療には色々な意見があると思うけれど、君の判断を僕たちは見守るから。これから先、大変な事もあるだろうし、家族にしか分からない苦悩もあるかも知れない。でも、どんな時でも僕は君の判断を応援する。そして弁護士として出来ることを手伝わせて貰うよ。」


 それだけ言うと高田は一段と柔らかい表情を作った。


 時に優しさは肉親よりも他人からの方が貰えることがある。他人の方が強く支えてくれる事がある。俺の人生はそちらばかりだけど。

 喫茶店に入り、ホットコーヒーを二つ頼む。


「親父、俺は利子の治療をやめないよ。」

「やっぱり金が入ったんだな。慰謝料か?相手の奴はなんとかって言う、ソーシャル何チャラの偉い奴なんだろう?たんまり金が取れるって話じゃねぇか。悪いことは言わねぇから、治療なんてやめて、二人で金分けよう。なっ?」


 届いたコーヒーの香りが少しだけ精神を和らげてくれる。


「その金が入ったら今度こそ、スーツを買って、ビシッと決めて働くからさ。」


 その言葉にこの男の誠意など微塵も入っていないことくらい、二十年ちょっとの人生で嫌というほど味わってきた。“必ず返す”“今度はちゃんと働く”そう言われて、たまに自分の胸に残る肉親としての情が顔を出す。しかし、裏切られて、失望して、信用した自分を嫌いになる。


「親父覚えてるか?利子が高三の時、あいつが貯めてた金、だまし取ったよな?」

「うん?あーそんなこともあったか?あぁ。アイツ結構貯め込んでたな。入った金を倍にして上等なスーツ着たら良い仕事見つかると思ってな、舟で一稼ぎしようと思ったら全部スッちまった。オレもあの女も金にだらしなかったのに、アイツ誰に似たのか、貯めてたなホントッ。」

「ばーちゃんだよ。」

「はっあのクソババアか。」

「今なら分かるよ。」


 静かにコーヒーを飲む。


「だろっ?うっせーババアだった・・」

「ばーちゃんは正しいこと言っていたから、親父は耳が痛かったんだろ?それで何も言わせない様にいつも大声でばーちゃんを怒鳴ってた。親父は男にしては小柄だよな。学があるわけでもない。だから大声で怒鳴ってた。声だけはでかいから。虚勢って言葉を知ったとき一番最初に浮かんだのは親父の顔だったよ。」

「なんだとてめぇ。」

「ここでやるの?人も沢山いるし、それに老齢に足を突っ込んでる親父と俺、どっちが優位だと思ってるの。利子はね、看護師になるのが夢だった。ばーちゃんみたいなね。そのために中学生の時から新聞配りやって、高校に入ったら他のバイトもして、勉強も頑張ってたんだ。親父がボートでスッた金はあいつがそうやって一生懸命貯めた金なんだよ。だから、あいつの命を繋げるための金をあんたに一銭も渡すつもりはないよ。あいつの命のための金だから。」


 一万円を店員に渡し、その釣りを残った男に渡してくれと頼んで店を出た。

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