其の參 鬼無 太伽羅は手を伸ばす


 「太伽羅たからさんったら近頃は、ちっとも遊びに来て下さらないんですもの」


 粋筋の女性が、太伽羅の羽織りにそっと手を掛け、しなをつくりながら笑うのを少女は店の片隅に立ち、手拭い片手に無表情のまま見ている。

「最近になって飼い始めた猫が、白粉おしろいの匂いを嫌がりましてね」

 太伽羅たからが少女の方を見ながらそう答えると、その視線の行方を追って初めて「あら……」と、その存在に気付いたその粋筋の女性は「そんなことおっしゃらずに、そちらのも、ぜひご一緒にいらしてね。悋気りんき持ちの猫ちゃんには内緒で」と笑いながら店を後にするのだった。


「……誰が、猫だよ」


 二人きりになった店の中で、じろりと太伽羅たからを睨めば「君はまったく猫のようなものじゃないか」と少しも意に介さない。

 着物の中に重ねた詰襟のシャツを覗かせ、袴を着けたその書生姿は、中性的な容貌も相まって誰もそれが少女とは気づかなかった。

 少女とて、ゆくゆくは大層な美人になりそうであったが、何しろ太伽羅たからの方が恐ろしいほど並外れて人目を引く所為もあってか、二人で居れば上手く雲隠れ出来るという偶然である。


 あの日、少女の返事も待たずに、そうと決まれば先ずは着る物を、と用意しようとして立ち上がった太伽羅たからは頭を悩ませた。

 長さも区々まちまちな、ざんばら頭では髪も結えず着物は似合わない。そうかといって洋装では目立ち過ぎる。いっそ、髪をもっと切って男装させたら如何どうだろう?

 探しに来る者は居ないとしたが、果たしてそうなのかどうか。尋ねても何も語らない少女には、不明なことが多過ぎた。

 明るい髪色に不思議な目の色。

 特徴が有り過ぎるのも問題だった。

 探す方は容易たやすく、隠すほうは難しい。

 中性的な容貌も薄い身体も、男装ならば少女を隠すには使えると思った太伽羅たからは、では試しにと、されるがままの少女を良いことに書生の格好をさせてみたのである。明るい髪もひと思いに切り短く切り、そこに目の色を誤魔化す為に硝子の入った小さな眼鏡を加える。すると、どうだろう。何とも人心ひとごころくすぐる可愛らしい書生さんの出来上がりだった。

 翌る日、通いの手代に遠い親戚の男の子を預かったことにして紹介してみれば、突然のことに不信と驚きを隠せないでいたものの、目の前の可愛らしい男の子がよもや少女であるとは疑ってはいない様子で、太伽羅たからがほっと胸を撫で下ろしたのは云うまでもない。


「それにしても、この店はばかりだな」


 少女が手拭いでもって等閑なおざりに辺りを掃除しながら太伽羅たからを窺い見るようにそう問えば、本人は何も気づかぬ様子で、ぐるりと金彩の施された美しい湖水風景が描かれた平皿を木箱から出してめつすがめつ見ながら答えた。


「ああ、貿易に力を入れるため店を退いた叔父のおかげで、舶来品の古道具が多いからね。これらの品物は実のところ華族さまに好評なんだよ。把理斯パリス製の子供服なんてのが今は特に人気があってね。ウチの手代の仁七が忙しくしてるのは……」

「おれが言いたいのは……そう云うことじゃないんだよね。あんた、この店に居て何にも感じないわけ?」

「あんた、じゃなくてって呼ばれたいな。君のその喋り方……あ、いや、やっぱり良いや。で、何を感じるって?」

 太伽羅たからは平皿を仕舞うと少女に向き直った。

「……この店ン中、屍人しびとだらけだって言ったら、あんたどうする?」

「さて、ね。どうしようもしないかな」

「信じるのか? いきなりこんなこと聞かされて? それに……怖くないのかよ」

「君が視えると云うなら、居るんだろう。初めてこの店に抱えられながら入った時も譫言うわごとで、そんなことを言っていたしね。……怖い? 何が。屍人しびとなんて、悪さをしなければ怖い筈がない」

「視えない癖に知った口で、何を。だったら、おれは? 気味の悪いこの色の目で、そんなモノが視えると知っても怖くないのかよ」

「怖い? 気味が悪い? 君のことが? その目の色が? 馬鹿だな。こんなに綺麗なものを私は、知らない。そう……この目を初めて見たときから」


 睨みつけるように太伽羅たからを見る少女は、頭ひとつ分小さい。

 すっと距離を詰めた太伽羅たからの、真っ直ぐに向けられる視線に少し怯えた仕草で少女は後退りするも、飾り棚に腰が当たり逃げ場を失った。後ろ手で退路を探るも、あるのは滑らかな木肌の感触だけ。少女が挑むように今一度顔を上げたその時、太伽羅たからの長い指が少女の目元にそっと触れる。


「……吸い込まれそうだ」


 絡み合う視線のその一方で、迷いなく距離を縮める太伽羅たからと、逃れようと仰反のけぞる少女は、いつしか太伽羅たからが棚の上に少女を組み敷き、覆い被さる格好となっていた。

 ゆっくりと眼鏡が外される。

 

「何時迄も、見飽きることはないな」


 吐息が混じる優しいその声を、少女が初めて耳にした途端に、何かが胸の中で跳ねた。

 泣きたくなるような知らない痛みに、顔を背けようとした少女の顎を太伽羅たからの指が柔らかく、だが有無を言わさず封じる。

 

「……ッあ」


 美しい化けモノだ。

 この店の中には、化けモノしか居ない。

 太伽羅たからを目の前に少女は思う。

 

 その時――。

 ガタン、と大きな音に二人同時に我に返る。音のした方へと仲良くこうべめぐらせば、そこには店の中で書生を組み敷く主人の姿に腰を抜かしそうな手代の姿があった。























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