其の貳 鬼無 太伽羅は涙を滲ませ笑う


 店の奥の上りかまちから続く板の間の私室に、子供を運び入れたまでは良かったが、あまりの臭いの酷さに太伽羅たからは閉口していた。

 自身の身体を見下ろせば、子供を抱き上げた時にでもついたのだろう白いシャツも汚れが目立つ。羽織りの袖を、そっと顔の前へと持ってくれば、その臭さに堪らず羽織りを脱ぎ捨てた。


「……やれやれ、まずは風呂だな」


 太伽羅たからは自分一人でおよそのことは出来たが『鬼灯』には先代から引き継いだ口の悪い年老いた下男がいる。その下男を呼びつけ、風呂の湯を沸かすよう伝えると「そんな汚ねえ子供なんて、捨ておいとけば良いのに馬鹿なんだか、お人好しなんだか」と、太伽羅たからの顔をちらとも見ずに、いつもの如くわざと聞こえるような独り言を呟きながら姿を消した。

 これがこの下男の、承知しましたという返事である。

 この下男の扱いに慣れない頃の太伽羅たからは、口答えされるその都度、鷹揚に相手をしていたのであるが「新しい主人は、下男の独り言にまで返事をする馬鹿とはね」と言われる始末。用事を頼めば、ぶつくさと独り言は五月蝿いし、かといって用事を頼まなければ、これ見よがしにウロウロと目の前を通り過ぎたり落ち葉ひとつない庭を何時迄いつまでも掃いていたりと、何かと面倒な下男なのであった。


 風呂の支度が整ったと知らされ――実際に下男が言ったのは「もたもたしてりゃあ、せっかくの湯も冷めちまう」という大きな独り言だったが――太伽羅たからは気を失ったままの子供を抱え、風呂場でその汚い着物を剥いだ。首の後ろにある、醜く皮膚が盛り上がった火傷の痕に思わず目を見開き、指先でなぞる。

 それは見紛うことのない、烙印であった。


「成る程……商品とは、そういうことか」


 何はともあれ、この酷い臭いと汚れを落としてからだと、洗い石鹸を片手に着物を全て剥ぎ取り露わになった身体に太伽羅たからは一寸戸惑い手を止める。

 痩せた背中、肋骨が薄く浮いた身体にそぐわない、ふっくらと小さな柔らかい胸。視線を下の方に向ければ、無論……。

 目の前にあるのは未熟な少女であったと知ったものの、女性の身体を見たのは初めてでも無いし、相手は気を失っているのだからその内に、と束の間の躊躇いを押しやり太伽羅たからは、洗い石鹸で少女の身体を擦り始めた。

 

「……で、あんたは何がしたいの?」


 素肌の上に、太伽羅たからの詰襟シャツを着ただけの少女は、台所と隣り合う奥の間の畳の上で胡座を組み、用意された粥を掻き込みながら尋ねた。

 それまで気を失っていた少女は、食事の支度の音と匂いで目を覚ましたかと思うと、飢えた獣のように目の前に用意された膳にかぶりつき、暫く脇目も振らずに口の中へと粥を流し込んでいたが、ひと息ついたところでその言葉を口にした後は、また途切れなく粥を啜るのだった。向かい合う太伽羅たからはといえば、その様子を半ば唖然としながら見ている。

 粥を啜る音の合間に漬物を噛み砕く音が部屋に高らかに響き、太伽羅たからは、はっと我に返った。


 湯浴みを終え、太伽羅たからの詰襟シャツで着る物を間に合わせた少女は、行儀の悪さを除けば見違えたように綺麗だった。

 ざんばらに切られた髪は絹糸のようで、長かった頃はさぞやと思われ残念なものの、その色は茶褐色の日に透けると更に明るい色に見え、不思議な灰みがかった青い瞳と良く似合っている。

 泥がついた牛蒡のようだった手足も、その泥や皮をこそげて見れば何とも白く透き通るようで、太伽羅たからのシャツから剥き出しになっている滑らかな太腿は艶かしく照り、本人は何も気にしている素振りは無いが、目のやり場に困って仕方がない。

 少女の身体を洗っている時には、こびりついた汚れを落とすのに必死で何も思わなかったのだが、こうして太伽羅たからのシャツ一枚だけを素肌に着ている姿で向かい合い、改めて見ていると奇妙な高鳴りを感じてしまうのだから「何と言われても……困ったな」と目を泳がせた。


「ハハッ。知っていて聞くなって? 分かってるよ。誰がしたか知らないけど手間をかけて汚れを落としたんだから、することは一つだよね。あんたみたいのは、汚い女は抱かないもんな。こっちだって食いもんの礼くらいは、してやるよ。ホラ食べ終えたから、さっさと始めてくれる? それと終わって放り出す前に、もう少し目立たない着る物をくれたら、良いんだけど。あんたの前に食いもん貰った人が寄越したのは、小さくて」


 箸を置いた少女は言いながら膳を退かすと、ずいっと太伽羅たからの方へ身体を寄せる。

 吸い込まれるような灰みがかった青、その舛花色ますはないろの瞳に捉われた太伽羅たからは、自身の膝に置かれたその手が脚を這い内側を撫でられるまでにじり寄る少女に気づかなかった。


「え? な、なにって……何? いや、ちょっと待った。そんなつもりで汚れを落としたんじゃないし。それに其方そっちは」


 そっと手を払い退けてみれば、されたことが信じられないという、顎まで外れそうに、ぽかんと口を開けた間抜けな少女の顔に太伽羅たからは思わず吹き出してしまった。

「ふはっ……ふふ、ふくくくッ」

 同時に、それまでの少女の日常は身体を差し出すことが当たり前であったのだと、少し前に見た幼さの残る身体に刻まれた傷や、烙印のある背中を思い出すと、言い知れぬ何かが胸のうちに込み上げて来るのだった。


 そんなことを思い涙を滲ませ笑う太伽羅たからを、何を思ってか気の毒そうに見た少女が「若いのに、不能か」と呟くものだから、ますます笑い声はくぐもる。


「……どうせ行く当てもなく逃げているんだろう? 探しに来る者も居ないのなら君を、この店で雇うってのは、どうかな? もう少し人手が欲しいと思っていたんだよ。……私は、この古道具屋『鬼灯』の店主、鬼無きなし 太伽羅たから。そうだな。そうとなれば、まずは君の着る物を何とかしないとね」


 ひとしきり笑った風の太伽羅たからが目尻の涙を拭い、にっこりと笑顔を浮かべつつ少女に向かって言えば「……なんだか、気味が悪いや」と、おぞましいモノを見たような目つきで少女は後退あとずさりする。

 それを目にした太伽羅たからは、少女がこれまでの誰にも見たこともないような顔で、ふっと優しく笑ったのだった。






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