一章・舌の上で快楽を転がす⑦

 パン。

 僕は二の腕を平手打ちされ、呆気にとられてルダを見下ろした。

「血、出てないですね」

 僕が、え、怒った方がいいのかな、とようやく回路が繋がり始めたころ、彼女は掌を僕に向かって見せた。蚊がつぶれて死んでいる。掌の皺に蚊の脚が挟まっていた。

「……ありがとう」

 微笑んだ方がいいんだろうか。

 あ、もう二の腕が痒い。かゆいかゆい。忌まわしい、蚊の羽ばたく音が頭にこだまする。

「ねぇ、さっきの話ですけど」

「ん?」

「刺されると痒くなるのは、センパイの仰る通り蚊に唾液を入れられるからで――。どうして蚊は、唾液なんか体内に入れるのか、って話です」

 ルダは蚊が好きなんだろうか?

 僕とルダは知り合ってから、まだ蚊の話しかしていない。

「麻酔じゃないって言ってたよね? じゃあ、わからないな」

 蚊についての俗説はいくつも聞いたことがある。

 刺されやすいのはO型だとか、体温が高い人間は刺されやすいのだとか、刺されたあとを爪で「×」にするのは実は科学的な根拠がある、という非科学的な話とか。

 どれもこれもいい加減だけど、蚊が僕らの生活に密接だから俗説が生まれる。僕も蚊が嫌いな分、普通の人よりは興味がある。

 そのくせ、「なぜ唾液を入れてくるのか?」なんて、核にもなりそうなことの答えはまだ知らないのだ。

「それは、ですね」

 彼女は、潰れた蚊がへばりついた掌を僕に向けた。

「?」

 彼女はパッと僕の腕を掴み。

「ってぇぇ!」

 僕の汗ばんだ腕に、噛みついた。かわいい甘噛みじゃない。マジのやつ、マジで悲鳴出るやつ。

「蚊はね、好きになった人を刺すんです」

 僕はくっきりついた歯形から薄く血がにじむのを見ながら、頬が悦びでぴくぴくとするのを堪えた。ルダの唾液がべっとりとついている。

 好意?

 すべて脚本家だという嘘が生み出したものだと思うと、自分の何もなさが辛い。

 よく考えろ。

 ルダは僕よりも一〇歳も下の、初対面の女の子。

 僕の肩書につられてアプローチしてきているのだ。あわよくば、映画の配給会社やテレビ局のお偉いさんに紹介してもらえないか、とか企んで。

 本当の僕のことを知ったら、見向きもされない。

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