一章・舌の上で快楽を転がす④
『舌味のキャラメル』。
大学時代に生まれて初めて書いた脚本。
自己と他者の繋がりのおかしみを巡る話だ。
舌の味は、舌にとって無味ではない。自分自身に似通った誰かに会っても、僕らはちょうど、舌で舌の味のキャラメルを味わうように、違和感を口の中で転がす。その得体のしれないかたまりは、不思議と拒むこともできない。
一方通行なのだ。キャラメルに舌を味わうことはできない。
舐め終わる頃には、わからなくなっている。
舌に残った味が僕自身の味なのか、そのキャラメルの味なのか?
もう、口の中をいくら舐めつくしてもわかりようがない。
生きていることは、自分の口内を味わい続けることなのだ。
映画の本編では、そんな内容が主人公のモノローグ(僕が音声をあてていた)として常に流れている。カメラは主人公(僕)のうしろにあり、顔を映さない。というか、僕はほぼ演技をしていない。登場人物同士の会話はOFF。物語らしき背景はありながら、それはBGMでしかない。じゃあ、主題はモノローグにあるのか?
いや、そういうのともちょっと違う。独白には意味があるけど意味がない。
哲学者・ラカンが言う「ララング」のような、赤子が話す言語未満の言語としてのモノローグなのだ。
赤子は、自分と世界の境界を知らない。鏡を見ることでようやく「自分」という存在を知り、他者を知ることで、欲望が生まれ、伝達したいという欲動が生まれる。
「ララング」は、欲望という種が発生する以前、未分化の言語だ。赤子はそれを、伝達の意味で使うのではない。
もっと純粋な快楽。いわば「喋ってると口が気持ちいい」という感じだろう。
舌の上でララングを転がし、思うがままに吐き出し、唇の震えに陶酔する。
僕があてたモノローグは、一見何かの意味を成しているようで、「ララング」でしかない。誰しもが欲望を(言語を)獲得する前にある「ララング」を目の前にしたとき、まさしく、舌の味のキャラメルを舐めているような違和感を得るだろう。
幼い頃の忘れてしまった思い出を突き付けられているのと同じなのだ。
自分の舌の味を知りもしないで、舐めつづけている。
タイトルを踏襲しているだけの、無意味な「非・物語」。
いや、物語以下の異物を、観客の口に放り込む緩やかなテロ。
僕の企み自体が、快楽主義的なララングなのかもしれない。
むしろ『舌味のキャラメル』は、実は音にしか意味がないという、自我の芽生え以前を象徴する映像だ。
大学の映画研究会を対象としたコンペに出したこの脚本は、一瞬の称賛と、「よく考えたら、無意味なおしゃべりを聞かされるのは不快でしかないし、これは映画なのか?」というある意味どこまでも「正しい」バッシングを受けることになった。
どうしたってこの世界には、きちんとした物語が求められている。それを受け入れられない僕には、脚本を書くことなど土台無理な話だったのさ。
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