一章・舌の上で快楽を転がす②
「ダラダラ喋ってないでちゃっちゃと終わらせてくださいよぉ、青加さん」
背後からかけられた声でハッと我にかえる。ルダは不思議だ。彼女と話していると、周りの世界なんか存在しないような気がしてしまう。
振り返ると、僕の後ろに一〇人程度の列ができていた。全員、虫よけスプレー待ちだ。僕が大学時代に所属していた、映研の現役生たち。
卒業して八年もたつから、知った顔は一人を除いていなかった。
「青加さんってば」
唯一の知り合いは、僕を誘った渕上裕だ。僕の背中を冗談めかして小突く。年齢は二つ下の二八歳だが、現役の大学生。入学に四浪、成績不良で三留でも平気で花火大会に参加する、恐ろしい神経の持ち主。
僕を追って(とは本人の弁だが)澄郷から上京してきた、ただひとりの昔なじみだった。
「夜は雨らしいんで、早く花火始めましょうよぉ」
「知らん」
僕は渕上がせっつくのを無視しようとしたが、「ほら、どいて」と半ば物扱いされる。
渕上や、他の映研の部員が次々とスプレーをかけられていく。戦時中の、子どもの消毒作業のようだ。半裸の子供たちが一列に並び、虱を殺す粉を、流れ作業的に順々に頭にかけられていく。
誰かが特別というわけではなく、ルダが映画研究部の全員にスプレーするのはわかっている。それでも、さも僕だけでも蚊に刺されぬよう慮って、隅々までスプレーをしてくれたように思えた。スプレーの匂いに酔っていたのだ。
オーガニックだ無添加だと商品の欄が埋まってしまうくらいに表示されることをよしとする時代に、こんなツンとして科学的で有毒な匂いは、虫よけスプレーくらいしかない。
匂いは記憶と直結している。このにおいを嗅ぐたび、今日のことがリフレインするはずだ。
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