一章・快楽を舌の上で転がす①
「蚊に刺されるとなんで痒くなるのか知ってますか?」
彼女との最初の会話はこれだった。
ルダの薄くて幼さが残る唇。つまらなさそうな抑揚のない声。夢を見ているみたいな、視点の合わない瞳。
昨日の夜九時。僕は東京にいた。母校である大学近くの、隅田川の河川敷だ。
サークルの花火大会に、OBとして参加していた。
この瞬間はまだ、ルダの名前さえ知らない。
「ね、青加センパイ?」
「先輩」ではなくカタカナで「センパイ」と呼んでいる雰囲気がむずむずする。
どうして僕の名前を知っているんだろう。なんでいきなり下の名前で呼ぶんだろう。映画研究会の現役生の間でも、僕は脚本家ということで通っている。
それを知って、気に入られようと話しかけてきているのだろうか?
疑う気持ちももちろんあったが、ルダに直感的に惹かれていたのが正直なところだ。
こちらの目を見ることもなく、僕の右腕から肩、指先へと虫よけスプレーを噴射する。
湿った重たい雲が立ち込める熱帯夜に、一瞬の清涼感。涼やかさは隅田川に吹くどぶ臭い風によって、儚く立ち消えた。
「え、あれじゃないの、蚊が刺すとき、麻酔のための唾液をいれるから」
つまらない、当たり前の答えしかできない自分が情けない。
咄嗟に大喜利みたいな質問しないでくれ、時間をくれ。いや、時間をもらって気の利いた答えが出ないのが一番恥ずかしいからやっぱり時間はいらない。
常識がないと思われることがこんなにも恥ずかしく、そのことで悩んでいることを悟られるのはもっとみじめだ。
「違います」
ルダは距離を詰めてくる。ぼんやりとした視線から一転、睨み付けるように僕をじっと見つめた。無遠慮な振る舞いに、思わずたじろいでしまう。
僕ら、初対面ですよね?
「よく知らないけど、麻酔のためじゃないです」
ルダの目に僕はハッとする。
いい。その「よく知らないけど」が特にいい。
根拠のない自信。
彼女は決して美人ではない。ただ、すべてがどこまでも透き通っている。
僕はその瞳と、白い肌に吸い込まれていった。
最初から、彼女に対して抱いていた感想は変わらない。
ぼさぼさの髪。媚のない、危ういほどの純粋な瞳。
狼に育てられた少女のようだと思った。
彼女の細身の体に似合わない、肩の張った男物のジャケットからは、湿ったチャンダン香の匂いが漂った。
川のどぶ臭さとチャンダン香と虫よけスプレー、三種類の匂いが混ざり、僕の鼻の奥は、彼女の本当の匂いはどれか、判断できずにいた。彼女のにおいがわからくなると、ルダが何を言おうとしているのか、より掴めなくなった。
「麻酔のためじゃないなら、どうして?」
「それはですね――」
ルダの声は不思議だ。
土の下から聞こえる。声が土に埋められている。どういうことなのか説明しろと言われても難しいが。
背筋をかけ巡るのは、驚きと、ときめきと、戸惑いと焦り。
警告音だ。この子に夢中になってはいけない。何かがおかしくなる。
シグナルが響き続け、耳鳴りさえ聞こえてきた。
ルダ。
僕は間違えてもいいのか?
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