夜の気持ち

「……五時半か」


 ボソッと夜が時計を見てそう言った。

 明日が休みならもっと遅くいてもいいし、何なら泊まっても……ふとそれはいいのかって思ったけど、まあそれはともかくそろそろ帰る時間なのは確かだ。


「送ってくよ」

「は? 全然いいよ」

「だって今お前女だし――」


 その言葉に悪気はなかった。

 ただ何も考えずに口にしてしまったのは俺の注意力のなさだった。今日のやり取りで夜が女扱いされることに少しばかりの抵抗があるのは分かっていたはずだ。俺は咄嗟に謝ろうとしたのだが……夜の反応は俺が思ったのとは違った。


「……それじゃあお願いしようかな。強姦に襲われでもしたら困るし」

「お、おう……」


 髪をくりくりと弄りながら夜にそう言われた。

 取り合えず不快に思われていないようで安心した。というか強姦なんかはたぶんこの辺りには出ないだろうし、男の時と同じように体が動かせるなら簡単に撃退も出来そうだけど。


「さっき普通に俺を組み伏せたし大丈夫じゃね?」

「うるせえ。これでも出来るだけ安心したいんだよ……」

「……そうだな。分かった」


 一人でも大丈夫だろ、そう言って何かあった時に自分を許せなさそうだし……何より夜に不安な顔はしてほしくなかった。女になってか弱く見えるからなのか、それとも別の理由があるのかは分からない。


 夜と一緒に家を出た。

 その頃には少し暗くなっており、確かに夜道に女が一人で歩くには不安になってしまうのも分かる。隣を見ると夜に不安そうな様子は見られず、何かを考えていたのかクスッと笑っていた。


「どうした?」

「何が?」

「今笑ってたじゃん」

「……あぁ」


 そう言うと夜は立ち止まった。


「……女って思われるのは嫌だ。でも、女だからこそ勇樹がそんな風に優しくなってくれるのならそれもありかなって……って何言ってんだオレって」


 夕焼けに染まる空をバックにそう口にした夜はとても綺麗だった。

 その頬が赤くなっているのは照れからか、それとも夕日のせいなのかは分からなかった。……まあでも、今の言葉に俺は少し言いたいことがあった。


「その言い方だと前の俺は優しくないって聞こえるが?」

「はは、そんなつもりはないさ。いつだって勇樹は最高の親友だよ♪」

「……っ」


 だからその綺麗な微笑みをやめろってんだ!!

 熱くなった頬を誤魔化すように、俺は夜より先に前に出て歩いていく。


「ちょっと待てよ~」


 追いかけてくる夜のその声はとても弾んでいて、隣に立った彼女は俺の顔を覗き込んでまた笑うのだった。


「人の顔を見て笑うのは失礼だぞ?」

「すまん。でもなんか嬉しくてさ」

「……なんか調子狂うんだけど」

「そうかぁ? オレはめっちゃ楽しいぜ?」


 そりゃ俺の反応を見て楽しんでるんだから楽しいだろうなぁ?

 とはいえやっぱりこんな風に夜が楽しくしてくれているのなら俺としても嬉しい限りだ。もうあの時のような死にたいと思わせる顔だけはしないでくれよ。


「なあ勇樹」

「なんだ?」

「前に彼女なんて作らずに一人でいる方が気楽とか言ってただろ?」

「言ってたな。彼女居たことない童貞の戯言だぞ?」


 彼女が居たことはないから欲しいと思ったことは当然ある。でも彼女に色々と気を遣うより一人の方が楽なんじゃないかって思ったのだ。まあ彼女が出来たら心境の変化はあるかもしれないけど……でも、それがどうしたんだろうか?


「今オレって女だろ?」

「あぁ」

「オレは勇樹と居れて楽しい、勇樹は今のオレと居れてどうだ?」

「何だかんだ楽しいぞ。それは何も変わんねえ」

「だろ? だからさ」


 俺の方へ一歩踏み込み、至近距離で夜は俺を見上げた。

 女になった影響で頭一つ分くらいは背が低くなったからこそ、こうして彼女は俺を見上げることになる。髪が揺れてふわっとした甘い香りを漂わせながら、夜は薄く微笑んでこう言葉を続けた。


「彼女欲しくなったら言えよ。オレがなってやるからさ♪」

「んなぁっ!?」


 これまた綺麗な笑顔でそう言いやがった。

 俺はつい大きな声を上げてしまって一歩後退してしまった。そんな俺を見て夜は肩を震わせて笑っていた。なるほど、どうやら俺は盛大に揶揄われたらしい。


「笑うんじゃねえよおおおおおおお!!」

「あははははは!! 悪かったって!」

「純情弄ぶんじゃねえよ……めっちゃドキッてしたわ」

「……したのか?」


 当り前だろうが、俺の言葉は止まらなかった。


「お前は正真正銘俺の親友の夜だけどさぁ、見た目はもうすんごい美少女なんだぞそりゃ少しはドキッてするだろうよ! 異性にドキドキしたのはまあ良いとして、その相手が夜ってことで複雑にも思う俺の心境を少しは理解しろよお前!」

「……………」


 こいつ悪い女の才能があるぞマジで。

 ……まあそれは冗談として、俺の言葉にボケっとしていた夜だが我に返ったようにあぁっと頷いた。


「悪かったな。いやぁ勇樹を揶揄うのは楽しいな♪」

「バーロー、俺は何も楽しくねえよ……」


 すまんすまんと笑って夜は俺の肩を叩いた。

 そんなこんなで色々あったがちゃんと夜を家に送り届けた。また明日学校で、そう言って俺たちは別れるのだった。






 勇樹と別れた後、家に入った夜は玄関の扉に背中を預ける形で息を吐いた。


「……くそ、めっちゃ心臓がうるさいな」


 彼女云々に関しては確かに冗談でもあり揶揄う意味合いがあった。

 だが、その後に勢いに任せて発せられた勇樹の言葉に夜は……正直ときめいた。女として見られるのは嫌だし、そんな風に扱われるのも嫌だ。でも何故か、勇樹に女扱いされた時に嫌な感情は出てこなかった。むしろ、女だからこそ勇樹が優しく傍に居てくれるのではないかと喜んでしまった。


「……オレはもう男に戻れない。女で生きるしかない……そんなオレの隣にあいつが居てくれたら……」


 それを想像し、更に胸が強く鼓動した。

 その心臓の鼓動を落ち着けるように豊かな胸の上から手で押さえる。すると手の平を通してドクンドクンと鮮明に鼓動を感じていた。


「夜? どうしたの?」

「あぁいや、何でもないよ」

「そう? あら、なんだか楽しそうじゃない」


 母にそう言われ、夜は首を傾げたがその理由にはすぐ思い至った。

 さっきまで勇樹と一緒に居たからなのもあるし、彼の家で同じ時間を過ごしたのもあるのだろう。親友と遊ぶことは楽しい、だからこそ楽しいのは当然だろと言いたくなったが、それならこの激しい心臓の鼓動はどう説明すればいい?


「……風呂空いてる?」

「えぇ。いってらっしゃい」

「うん」


 部屋に戻り、着替えを手に風呂に向かった。

 シャワーを浴びる中、鏡に映る自分を見て夜は吐息を零す。


「……勇樹ぃ」


 壊れかけた心を救ってくれた大切な親友、そんな彼の名前を出した意味にまだ夜は気づけない。勇樹のことを思い、無意識に手が胸に伸びた。

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