第12話 不明・上

「牧村君、遅すぎないか?」

 指揮者の遠野が、僅かに苛立った声を上げた。チェロの一村も頷き、凛良は首を傾げた。

「弦が見つからないなら、私の予備を差し上げたのに」

「あの、私見てきます。もうしばらくお待ちください!」

 凛良のヴァイオリンを運び、様子を見る為に同じ部屋にいた丹羽が慌てたように声を上げた。

「すまんが、よろしく頼む。練習にならん」

 遠野の言葉に頭を下げると、彼女は慌ててホールを出て行った。入れ替わりに、高畠が部屋に姿を見せた。

「あれ? お嬢様、練習はまだ……?」

 ヴァイオリンケースも開いていない凛良と、部屋の様子に怪訝そうな顔になった。

「牧村さんが、部屋に戻ったまま来ないの。またお酒かしら?」

 凛良のその言葉に、篠原は怪訝そうな顔になった。彼は、日頃から酒を飲んでいるのだろうか? それは、アル中の様な……?

 そう考えていた時、篠原のスマホが揺れた。邪魔にならない様に、音を消していたのだ。「すみません」と一言断り、ホールのすぐ外に出でた。

「篠原! 牧村が消えた! 部屋に居らへん」

 紫苑からの電話だった。篠原の表情が硬くなり、口元を手で隠した。

「消えたって、どういう事? 今、部屋に丹羽さんが行ってるけど」

「その丹羽さんから、連絡が来たんや。なんか、部屋で争った跡があって血痕が残ってるそうや。いま、うちと櫻子ねぇもそっちに向かっている。まだ死体も出てへんし、篠原には取り合えずお嬢さん任せたで。ほな!」

 それだけ言って、紫苑からの電話が切れた。篠原は困った顔で部屋に戻ると、遠野の傍に向かう。

「すみません、どうも牧村さんは部屋にもいらっしゃらないみたいで……どうしましょう」

「なら、高畠さん。貴女が第二ヴァイオリンに入って」

 遠野が返事をする前に、凛良が篠原から高畠に視線を向けた。

「え!? いえ、私は……!」

 動揺するように顔を青くする高畠に、遠野も深々と溜息を零した。

「そうだな、仕方ない。豊島さん、確か予備の楽器は……」

「あります。ここのホールには、大抵の楽器も置いてあります。あ、鍵を開けないといけないわね……あら?」

 凛良が何処かに続く部屋の入口の横にある暗証番号式のボタンを解除しようとして、僅かに眉を寄せた。

「壊されてるわ。警報は鳴らなかったのかしら?」

 そう言いながら、ドアを押すと鍵は確かに壊されているようで簡単に開いた。篠原も凛良の傍に走り寄り、部屋を確認した。中は、十畳ほどの部屋で色々な楽器が並べられていた。しかしドアを壊されていたので、その関係か電気が点かず、室内は薄暗かった。

「……ヴァイオリンは、確か二本置いてあった筈……」

 凛良がヴァイオリンのケースらしい前に立つと、確認する様にケースを下ろそうと背伸びをする。

「俺が取ります」

 その様子を見ていた篠原が、後ろから腕を伸ばしてそのケースを取った。しかし、軽い様な感じがした。

「凛良さん、軽いですよ。これ」

 その言葉に、凛良は篠原から受け取ったヴァイオリンケースを開いた――中に、ヴァイオリン本体はなかった。

「中身だけない……おかしいわ。鍵を壊したのは、これが狙い……? 大雅君、その横のも下ろして貰える?」

 もう一本のケースも下ろして中を確認したが、こちらはちゃんと入っていた。

「凛良お嬢様……」

 丹羽と木崎がホールに来たようだ。楽器室にいる凛良と篠原の後ろから声をかけてきた。

「百万ほどの楽器だけど、盗まれているわね……他に盗まれているものがないか、確認してくれる?」

「はい、邪魔にならない様に演奏会の後でも構いませんか?」

「そうしてくれ。演奏会まで時間もない、高畠君には久し振りに弾いてもらう事だろうし、時間が勿体ない。今日の演奏曲の音合わせもして貰わないといかんしな」

 会話を聞いていたらしい遠野が、そう口を挟んだ。彼は、演奏会の事で頭が一杯に見える。

「はい、高畠さん。久し振りの演奏だと思うけど、よろしくね」

 凛良が、予備のヴァイオリンを高畠に差し出した。彼女は困惑して、僅かに震えながらその楽器を受け取った。


 それから高畠のヴァイオリンの調律を始め、音合わせが始まった。それを眺めながら、篠原はこの出来事を簡潔にまとめて、紫苑にメールを送った。

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