第10話 乗客・中

「あれ? ヴァイオリンがおらへん」

 レストランに集まった人々を眺めていた紫苑が、キノコのテリーヌを嚥下して僅かに首を傾げた。その言葉に、櫻子と篠原は彼らに視線を向けた。

 女優の沖田とその付き人の東海林は、テラス席に座っている。その横には、グルメ評論家のぽっちゃりとした松下が一人で座った。カメラマンの田中とフリージャーナリストの松崎は、二人揃って沖田より奥の席に座った。指揮者の遠野とチェロの一村は、一度はテラス席に向かおうとして、しかし日差しがきつかったのか櫻子達の方に戻ってきた。

「隣、よろしいですか?」

「ええ、是非」

 一村が櫻子に尋ねる。櫻子が笑顔でそう返すと遠野が黙ったまま三人に小さく頷き、二人は向かい合って櫻子達の隣の席に着いた。レストランのスタッフたちが、忙しそうに動き始める。

 豊島クルーズ会社スタッフと部屋にいると言っていた凛良と高畠以外、ヴァイオリンの牧村以外の乗客がここに揃っていた。

「あの、牧村さんはいらっしゃらないんですか?」

 櫻子が一村にそう声をかけると、彼は困った顔をして頭を掻いた。

「ええ、声はかけたんですが返事がなくて……仮眠してるのかもしれません」

「そうですか」

 そこにウエイターがやってきて、会話は終わった。

 

 最後のデザートの、「ティラミス乗せコーヒーゼリー」を食べ終えてレストランを後にしようとしたとき、ようやく牧村が姿を見せた。彼は遠野に軽く頭を下げて、離れた席に腰を下ろした。

「お先に失礼します」

 櫻子が隣の遠野達にそう声をかけて、篠原と紫苑を連れてレストランを出た。遠野達は、ようやくメインの鯛が乗った皿を前にしていた。


「どうだった? 紫苑」

 部屋に向かって歩きながら、櫻子は紫苑にそう話しかけた。

「んー、まず沖田。イアリングが片方なかった。東海林は、服が僅かに乱れてて、首筋が赤かった。あれは、キスマークやろうか? 記者は特別変わったところはないけど、カメラマンが沖田をじっと見てた……? 沖田やろうか? 東海林かもしれへん。あと、ヴァイオリンは酒飲んでたみたい。酔ってる感じに見えた」

 紫苑が、思い出すように先ほどのレストランにいた人物の様子を口にした。篠原は、驚いたように紫苑を見た。

「あ、篠原は知らんかったか。うち、後天的サヴァン症候群かハイパーサイメシア超記憶症候群みたいな症状があるねん。一度見たもんは、忘れへん。病院は嫌いやから、正式な診断貰ってへんけど」

「それって、過去のこと忘れたくても忘れられないって感じ……?」

 ドラマや漫画で聞いた事がある病名だが、篠原はあまり深くは知らなかった。尋ねる篠原に、紫苑は「そう」とだけ返した。

「十五時から演奏会があるのに……酔ってる、ね。沖田さんや東海林さんの事もあるし……気になるわね」

「うちは、あのカメラマンも気になるわ」

 立ち止まり首を傾げる櫻子に、紫苑はそう声を上げた。

「私達は他の乗客の様子を見ておくから、篠原君は凛良さんに気をつけて。彼女自身も心配だし、彼女が所有するヴァイオリンも高価だし……妙な乗客たちね」

「了解しました。一条課長たちは、これからどうされます?」

 そう篠原が尋ねた時、不意に誰かが篠原にぶつかった。

「きゃ! すみません!」

 黒いヴァイオリンケースのようなものを抱えた、女性だった。彼女は転びそうになりながらも、しっかりとヴァイオリンケースを抱きかかえていた。その彼女をよく見ると、豊島クルーズ会社の丹羽だった。

「えっと、豊島さんの会社の丹羽さんよね? それ、ヴァイオリンケース?」

 木崎と同じ、紺のジャケットに水色のブラウス姿。しっかり化粧をした木崎より、あまり化粧っ気のない彼女は小さく頷いた。

「はい、丹羽です。これは、凛良お嬢様のヴァイオリンです。もうすぐ今日の演奏会の音合わせをホールで行われるので、運ぶように言われました」

 櫻子達の事を知っている彼女は、聞かれた事を素直に返した。

「変ね、大事なものなのに……よくあるの? 楽器を人に預ける事は」

「はい。大抵は高畠さんが運んでいます。高畠さんは少し具合が悪いと部屋で横になっているので、私が代わりに……」

 丹羽は、自分が悪いと言うように申し訳なさそうに言った。

「いいのよ、あなたのせいじゃないの。それより、持って行かなきゃいけないんじゃない?」

「あ! すみません、失礼します!」

 櫻子に促され、丹羽は大きく頭を下げると慌てて足早に三人の元から立ち去った。

「女の人は、篠原にぶつかるように出来てるんやろか?」

 紫苑の言葉に、篠原は複雑そうな顔になった。

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