【大暴食】
14
黒狗の命じるままに杖錠は奔る。
斜めに左の壁へ飛び、反動でさらにその向かいの壁へ、左右に振ってそのまま……盾で形成された敵陣の真ん中に降り立った。
「な、なんっ!?」
前線を剣鍵に激しく攪乱されていた彼らは誰ひとりとして女の襲来に気付けなかった。
しかし気付いた時にはもう遅い。密集した味方の中心に上空から降り立った女に向けて銃弾を放てば、その華奢な体を貫通して同士討ちは避けられない。
そもそも彼女はここまで一条の掠り傷すら受けてはいないのだ。目の前にいる彼女に対して弾を当てるイメージを浮かべられる者は誰ひとりとしていなかった。
「撃つな! 所詮女だ、殴れ!!」
指揮官がその判断を下す一瞬の間隙に、杖錠は盾代わりに立てられて銃弾を受け続けていた鉄板のような剣めがけてほぼ水平に滑空し、テーブルの上にあった五合の酒甕と盃を掻っ攫うとそのまま剣を踏み台にくるりと宙を舞って定位置へと戻って来た。
「お待たせえ致しましたあ」
「お帰り杖錠、さあ酒を早く。もう待ちきれない」
黒狗はただひたすらに酒を分捕って来た杖錠の手元を注視していた。そうしている間にも剣鍵が敵を蹴散らしているがもはや心は酒の虜だ。
盃にゆっくりと満たされていく淡い琥珀色の液体。立ち昇る爽やかな、しかし深みのある香り。
「さあどうぞ主様あ」
杖錠から慎重に盃を受け取ると顔を近付けてゆっくりと香りを吸い込む。
数多の酒を嗜んで来た黒狗の脳裏にいくつかの候補が上がり絞り込まれていく。
「これは…くくっ、この香りはやはり」
この過程、香りと味から酒を読み解くのは彼にとって最高の娯楽のひとつに他ならない。
「あらあご存知ですのお? わたしにはあ、ただの黄酒にしかあ見えませんけれどお」
「まあこれも黄酒には違いないがね。こいつは老酒の中でも熟成の度合いが違う。圧倒的に違うのさ」
黄酒の中でも長期熟成されたものを老酒と呼ぶが、悲しいかな杖錠にはわかっていない。
しかし彼女は愛想よく相槌を打つ。詳しいことはあとで剣鍵にでも聞けばよい。彼女にとっては主様に気持ちよく吞んで語っていただけば今はそれで良いのだ。
黒狗は酒をひと口含んで、舌の上で転がすように味わい、飲み干す。
「はああ……」
恍惚とした表情で息を吐き、目を閉じる。
「黄酒でありながら酸味は少なく、まろやかな舌触りと軽やかな風味、しかしこの後味の深淵はどこまでも底が見えない。ふふ、間違いない。これは会稽の程酒家で扱ってる五十年物だ。本物中の本物、まさに別格だよ。くふ、なんてこった」
笑いが込み上げてくる。歯を剥き出すように口角が吊り上がり、全身を震わせて笑い出す。
「ふ、くく、は、くははははははははっ! こいつはいいぞ! 【大奥様】の誕生会くらいでしかお目に掛からないやつだ! ははははは!」
一方、ひとり飛び出して来た剣鍵にまったく歯が立たず鼻白んでいた鼈甲の部下たちは、あまりにも場違いな呵々大笑のためかすっかり静まり返ってしまった。
「よぉし杖錠、その酒甕は命の次に大事に持っておけ! 落とすんじゃあないぞ!!」
黒狗は上機嫌で命じると剣の陰から悠々と部屋の中央へ出てくる。
彼は少しばかり悔いていた。こんなことならもっと早く来るんだった。今日の獲物は極上じゃないか。
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