第9話

 渡辺は会社の屋上のベンチに座りながら頭を抱えていた。繁忙期である事もそうだが、最近体調が悪く感じていた。忙しさに加え体調不良が重なってすこぶる調子が悪かった。かといって仕事に穴を空けるのもどうだろうと思っていて、休みを取って病院に行く事も中々に出来ないでいた。

「渡辺、ここに居たのか」

 同僚の坂木に声を掛けられた。

「何だよ、休憩時間何だからどこに居たって自由だろ?」

「だからってケータイの電源を落とすなよ、連絡つかなくて探したんだぞ」

 渡辺は自分が無意識のうちにスマホの電源を落としていたのに気が付いた。最近は仕事の連絡がひっきりなしにかかってくる。それをいつの間にか煩わしく思っていたのだろうか、坂木に指摘されて電源を入れなおす。

「悪かった。まさか電源を落としてるとは思わなかったよ」

「おいおい、渡辺大丈夫か?お前顔色がえらく悪いぞ」

「ちょっと調子が悪くてな、まあ繁忙期さえ過ぎれば時間も取れるだろうから、そうしたら病院に行くよ」

 坂木はそれでも心配になって言った。

「そうは言うが、ちょっとその顔色尋常じゃないぞ、仕事は大丈夫だから病院に行けよ」

「しかしなあ、今この忙しさで一人減るわけにもいかないだろう?休みたいなんて言い出せないよ」

 坂木はそう言われて黙ってしまった。その自覚が坂木本人にもあるからだ。

「だけど心配してくれて嬉しいよ、ありがとうな坂木。きっと大したことないさ、何十連勤させられても死ななかったんだから、人間案外頑丈に出来てんだ」

「お前がそう言うなら、俺ももうそれ以上言わないよ」

 坂木はそう言うと、渡辺に伝える要件を伝えた。案の定仕事の話でうんざりしたが、渡辺は重い体を何とか持ち上げて、残った休憩時間も仕事で消費する事になった。


「渡辺!ちょっと来い!」

 渡辺は上司の呼び出しに応じてペコペコと頭を下げる。文句の一つ一つは大したことが無いし、この程度の指摘をするくらいなら仕事の手を止めない方がよほど効率がいい。

「聞いているか渡辺!?」

「はい、聞いております」

 しかしこの上司はこうして叩き上げられて来たという自負がある。要は他のやり方を知らないのだ、頭が固くて情報がアップデートされず、いつまでも同じやり方しかできない、自分も器用な方ではなかったが、この上司はどうやって仕事をしてきたのだろうかと疑問に思う程であった。

「渡辺、じゃあこれもやっておけよ」

 小言が終わって、仕事が増やされる。結局は何だかんだと言って自分の仕事を押し付けたかったのだ。ため息をつきながら渡辺は自分の席に戻る。

「先輩、大丈夫ですか?」

 隣の席の後輩である高田が声をかけてくる。

「ああ、大丈夫大丈夫、小言言いたいだけだから、適当に相槌打っとけば満足するから」

「そうですけど、仕事増やされたじゃないですか、しかもそれ本当はあの人の仕事でしょう?」

「そうだけど、自分もそうやって上司から仕事を押し付けられながら偉くなったって、そんな考え方してるから、何とも思わないんだよ。高田君は目を付けられないように気を付けろよ」

「先輩、何か具合悪そうですし無理しない方がいいですよ、僕にできる仕事があったら少し代わりますよ」

 高田はそう言って渡辺の仕事を少し肩代わりしてくれた。優しくて気が利く、責任感ある若者だ、こんな後輩が出来て渡辺は心強いと思った。

 残業を終えて職場から帰宅する。一人暮らしの寂しい部屋だ、何か大切な物が置いてある訳でもない、殺風景だし面白味もない、趣味を持とうかと考えた事もあったが、ろくに続かないまま仕事を言い訳に止めてしまった。

 簡単な食事を済ませて寝る。アラームに起こされてむくりと起き上がる、適当に準備をして、また会社へと向かう、朝食はろくに取らずに、コンビニで栄養ゼリーのようなものを買って飲んで済ませる。

 会社について仕事を始める。今日もろくでもない一日が始まるんだなと思って椅子に座った。


 渡辺は気が付くと自分が職場で倒れているのを空中で見下ろしていた。何が起こっているのか分からずにいると、突然スーツ姿のピシッとした男が目の前に現れた。

「どうも初めまして、私死神の言霊と申します。辞世の句の聞き取りに参りました」

 言霊と名乗った死神は深々と頭を下げる。

「ちょっちょ、ちょっと待ってくれ、俺は死んだのか?」

「より正確に表現するなら、死の直前ですね。今際の際の隙間にお邪魔させていただいております」

 何てことだ、まさか職場で死んでしまうとは思わなかった。それに何故死んだんだ?そんな疑問が渡辺に浮かんだ。

「し、死因は何だ?何で俺は死んだ?」

「私はそちら門外漢なので、あまり意見する事はありませんが、今回の事例であれば以前にも経験があるので分かります。渡辺さまの死因は過労死です」

 過労死と言われて渡辺は最初ピンとこなかった。まさかそんなという思いもあったし、最近の体の不調がそれに起因するものなのかと頭が混乱していく、ぐるぐると目の前が回っているように感じられた。

「大丈夫ですか?」

 言霊は心配そうに渡辺の顔を覗き込む、何とか我に返った渡辺は、改めて自分の今の状況を言霊に聞いた。

「俺は職場で倒れたのか?」

「はい」

「仕事中にか?」

「そうです」

「同僚や先輩後輩たちの目の前で?」

「ええ、ばたっと」

 そうかと小さく呟いた。こんな時でも渡辺は、周りの人間や会社に迷惑をかけてしまったなとしか思えなかった。それが無性に悲しくて、自分が思っているより小さな体をしていた自分を見下ろした。

「それで、言霊さんは何をしに来たんだっけ?」

「はい、時世の句の聞き取りに参りました」

「辞世の句なんて、何か武将みたいだな」

 渡辺は馬鹿馬鹿しくて少し笑った。これから死ぬというのに、自分にできる事がこれしかないのかと思った。


 紙とペンを渡されて渡辺は考え込む、もう死ぬだけなのに言葉を残す意味なんてあるのだろうか、そんな事を考えて、ペンをくるくると手で回して弄ぶ。そうして考え込んでいると、たったの数文字でも自分から言葉が一切出てこない事に気が付いた。本当に何も言葉が出てこないのだ。言霊が言うには向き合ううちに自然と言葉は紡がれると言うが、どれだけ探しても自分から言葉が引き出される事がなかった。

 昔あった事もここ最近の事もさっぱり思い出す事ができない、自分が何が好きだったのか、どんな事に心動かされたか、いつの間にか自分の中身がとても大きな虚になっていたことにようやく気が付いた。

 悔しい、渡辺はその事が無性に悔しくなってきた。自分という存在は一体何だったのかと思うと悔しくて堪らない、もっと楽しい事がしたかった。素敵な恋人だって欲しかったし、好きな物を好きなだけ集めてみたかった。偉くなって自分がこの会社の体制を変えてやろうと思ってもいたし、自分が居なくなった所で、きっと何も変わる事がないと分かっていた。何事もなく世界は続いて、何事もなくすり潰される人も出てくるだろう、そうして死ぬ時に自分と同じ思いをするのかと考えると、とても暗い気持ちになる。

 どうか自分のような人がもう出ないようにと願いを込めて、渡辺は筆を走らせた。

「嬉しくも悲しくもない、そんな日々から救われますように」

 渡辺は句になってないがいいかと言霊に聞いたが、とても素晴らしい辞世の句でございますと言うので、そのまま渡してこの世に別れを告げた。


 会社内は大混乱に陥っていた。渡辺の死をきっかけにして、社内から内部告発が相次いだのだ、その中には坂木も高田もいた。会社が渡辺の過労死について隠蔽しようとしたからだ。真面目にただ職務に邁進していた渡辺の姿を、社内の人々は確かに見ていたのだ。

 悲しみは混乱を呼び、動乱を引き起こして渦巻いていく、しかしこの動乱も大きな社会から見れば小さな小さな渦にしかならないかも知れない、それでも声を上げずにはいられないのは、渡辺が残した遺書のような、祈り言葉が紡がれた紙をデスクの引き出しから見つけたからだった。

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