第9話 法学生
「というわけなんだ」
「というわけ、と言われても……」
喫茶「伯爵」の店内は相変わらず静かな喧騒に満ちていた。先ほどまでその喧騒を構成する一部だった永野氏の夢物語を聞き終わった僕は大きく深呼吸した。
終始
まとめるとこうだ。童貞を心に病んでいたものの童貞を捨てるための唯一の行為に嫌悪を覚えるという
「これは、ちょうど一週間前のことなんだ」永野氏は言った。「だから、明日までならまだ間に合うんだ」
不意の一言によく意味の理解ができなかった僕は、一度頭で言葉を
「え、どゆこと……?」
童貞は家出した子供ではない。一週間くらいならひょこっと帰ってくるだろう、などというものでは断じて無い。
それに、永野氏は「明日までならまだ間に合う」と言った。8日間ならまだ望みがあって、それを過ぎると駄目になるという理屈が僕には分からなかった。
疑問符に頭を支配されている僕に対して永野氏はまた訳の分からないことを言うのだった。
「クーリングオフできると思うんだよ」
「は?」
「ああ、すまんすまん、く・う・り・ん・ぐ・お――」
「いや、聞き取れてはいるし、言葉の意味自体も分かるんだけど、どうしていまその単語が出てくるのかがちょっとというかだいぶ分からないんですが……」
永野氏はうんざりしたのち、「お前頭悪いな」とでも言わんばかりに言った。
「お前頭悪いな」
「こいつ表情だけじゃなく口にも出したよ!」
「やれやれ、じゃあ一から説明するぞ」
断じて僕の頭が悪いのではなくこいつの頭がおかしいのであると譲れぬ思いはあったが埒が明かないので
「特定商取引法は公正な特定商取引の実現と購入者等の保護を行うことで国民経済の健全な発展に寄与することを目的とした法律だ」
「はい」
「当該法律の第9条において売買契約もしくは役務提供契約の申込者は一定期間内であればいつでもその売買契約もしくは役務提供契約の申込みの撤回またはその売買契約もしくは役務提供契約の解除を行えると規定されている」
「はい」
「これがいわゆるクーリングオフというやつだ」
「はい」
「そのクーリングオフができる一定期間というのが申込みから8日間と定められているわけだ」
「はい」
一応は法学部に所属している永野氏はそう僕に講義してくれた。
法律を学ぶ学部に所属しているはずなのに
ただ悲しいかな永野氏が法学部に籍を置いているだけの阿呆であることが今回の
「で、その特定商取引法というのは、
「……たぶん」
「相手は
「……裁判所」
「
「……」
閉口した永野氏であったが僕は彼の話に乗ってやろうという気になっていた。
おもしろがってというわけではない。
童貞を不本意な形で喪失してしまった悲しみが――僕にも分かるからだった。
童貞論 宮崎 翔吾 @kojiharunyan
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