第9話 法学生

「というわけなんだ」

 一気呵成いっきかせいに話し続けた永野氏は飲み残したコーヒーをグイッと飲み干した。


「というわけ、と言われても……」

 

 喫茶「伯爵」の店内は相変わらず静かな喧騒に満ちていた。先ほどまでその喧騒を構成する一部だった永野氏の夢物語を聞き終わった僕は大きく深呼吸した。

 終始眉根まゆねを寄せ続けていた臨席のご婦人は、聞きたくなくても耳に入ってくる横の卓の話にあまりにも童貞だのといったワードが頻出したためか早々に席を立っていた。残されたケーキセットのミルクレープの半分がご婦人の不快感を端的たんてきに示していた。


 まとめるとこうだ。童貞を心に病んでいたものの童貞を捨てるための唯一の行為に嫌悪を覚えるという二律背反にりつはいはんの中にいた永野氏は、何故かノート屋にその心中を看破かんぱされ行為抜きで脱童だつどうするサービスの提供を受けることになったのだが、今さら行為を抜きにした童貞卒業に深く後悔をしており、どうにか一度失った童貞を取り戻せないか、と。



「これは、ちょうど一週間前のことなんだ」永野氏は言った。「だから、明日までならまだ間に合うんだ」


 不意の一言によく意味の理解ができなかった僕は、一度頭で言葉を反芻はんすうしてみてやはり意味が理解できないことを再確認したうえで理解できない方がおそらく正常であるとの判断を下したのち言った。

「え、どゆこと……?」


 童貞は家出した子供ではない。一週間くらいならひょこっと帰ってくるだろう、などというものでは断じて無い。

 それに、永野氏は「明日までならまだ間に合う」と言った。8日間ならまだ望みがあって、それを過ぎると駄目になるという理屈が僕には分からなかった。


 疑問符に頭を支配されている僕に対して永野氏はまた訳の分からないことを言うのだった。


「クーリングオフできると思うんだよ」


「は?」

「ああ、すまんすまん、く・う・り・ん・ぐ・お――」

「いや、聞き取れてはいるし、言葉の意味自体も分かるんだけど、どうしていまその単語が出てくるのかがちょっとというかだいぶ分からないんですが……」


 永野氏はうんざりしたのち、「お前頭悪いな」とでも言わんばかりに言った。

「お前頭悪いな」

「こいつ表情だけじゃなく口にも出したよ!」



「やれやれ、じゃあ一から説明するぞ」

 断じて僕の頭が悪いのではなくこいつの頭がおかしいのであると譲れぬ思いはあったが埒が明かないので不承不承ふしょうぶしょう「よろしくお願いします」と頭を下げ教えをうことにした。


「特定商取引法は公正な特定商取引の実現と購入者等の保護を行うことで国民経済の健全な発展に寄与することを目的とした法律だ」

「はい」

「当該法律の第9条において売買契約もしくは役務提供契約の申込者は一定期間内であればいつでもその売買契約もしくは役務提供契約の申込みの撤回またはその売買契約もしくは役務提供契約の解除を行えると規定されている」

「はい」

「これがいわゆるクーリングオフというやつだ」

「はい」

「そのクーリングオフができる一定期間というのが申込みから8日間と定められているわけだ」

「はい」


 一応は法学部に所属している永野氏はそう僕に講義してくれた。

 法律を学ぶ学部に所属しているはずなのに常日頃つねひごろ法律に関する勉学に一切の敬意を払っていないこの男がこういう時にだけ法学部ヅラして法律に助けを求めることに対して思うところが無いでは無いが、法律というのはあまねく人々を守りまた規制し罰するものである以上永野氏の法学に対する普段の態度は置いておこう。

 ただ悲しいかな永野氏が法学部に籍を置いているだけの阿呆であることが今回の御高説ごこうせつから知れてしまった。


「で、その特定商取引法というのは、摩訶不思議まかふしぎな力で童貞を行為抜きにして喪失させる契約に対しても有効なの?」

「……たぶん」

「相手は一笑いっしょうすだろうが、争いになった場合にどちらが正しいか判断してくれるのはどこ?」

「……裁判所」

係争けいそうとなった場合お前は裁判所に対してどう主張する?」

「……」


 閉口した永野氏であったが僕は彼の話に乗ってやろうという気になっていた。

 おもしろがってというわけではない。


 童貞を不本意な形で喪失してしまった悲しみが――僕にも分かるからだった。

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童貞論 宮崎 翔吾 @kojiharunyan

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