第8話 失ったもの

 夢を見ていた。


 その夢で俺は、小学・中学・高校で友達だった男たちと遊んでいた。俺の友人という共通項を持つのみで、相互に交友関係はなかったはずの者たちもが仲睦なかむつまじくたわむれており、それは俺を喜ばせるためだけにしつらえた明色めいしょくの虚構だった。


 そのうち誰かが「そろそろ行くわ」と言った。

 それを合図にしたかのように、彼らは三々五々さんさんごご「じゃ」や「おれも」といとまを告げ始めた。俺はヘラヘラと「まだいいだろ」と声をかけるが彼らはばつが悪そうに俺を眺め、そのうち1人が居た堪れなくなったのか、「さすがにもう行かなきゃいけないだろ」と渋面じゅうめんを作って返してきた。


 友人たちは一人、また一人と立ち去っていた。彼らはなぜか皆笑顔だった。

 皆、女と歩き俺の元を離れていった。女たちはどこから湧いてきたのか分からない。俺の知っている者もいれば、知らない者もいた。


 友人たちと女たち、そこに俺を入れた人数は奇数だった。いつまで経っても奇数のまま、俺は割り切れない感情とともに一人、取り残された。




 肌寒さに目を覚まされた。ゴーっという音とともにエアコンから吐き出される冷風が体にもろに直撃していた。

 一瞬、自分がどこで寝ているのか分からなかった。まだぼやける視界に安っぽいラブホテルの室内を認めた俺はガバッと跳ね起きた。


 室内を見回し巫女の姿を探すがすでにどこにもいなかった。俺は貞操帯ていそうたい一丁いっちょうでベッドに横たわったまま寝入ってしまっていたようだった。


 不安になり腰に手を回したが、貞操帯ていそうたいはガッチリと愚息ぐそくを拘束したままその役目をきちんと果たし続けていた。

 安心したような、裏切られたような、なんともつかない感情が胸に去来きょらいした。


 もしかして巫女は一仕事終えてシャワーでも浴びているんじゃないかと浴室を覗いたが、俺が出てきた時のまま使用した痕跡はないようだった。

 玄関も確認してみたが、もちろんエナメルの靴はなく、俺のヘタったスニーカーが少々広い空間にひとつだけ徒然とぜんと揃えられていた。


 俺は貞操帯ていそうたいのダイヤル錠に手をかけ、先ほど自分で設定した番号に解錠キーを合わせた。


 0・7・2・1オナニー


 あっけなくその任を解かれた貞操帯ていそうたいは情けなさそうに床に落ちた。


 全裸になった俺はソファにきれいに畳まれていた服を身につけた。

 念のため確認した財布の中身がそのままでホッとすると同時に、それは、自分の身に起こったことが詐欺などではなく、本当に過程を経ずに童貞喪失してしまったことの証左しょうさなのだと慄然りつぜんとした。


 俺は自分がどこか変わったのだろうかと内省ないせいした。童貞か童貞じゃないかなんて外形的に判断のつくものではない。

 俺は心的な変化が起きているのだろうかと自分で自分の胸の内を探ってみたのだった。

 なにか、いつからか心に通奏低音つうそうていおんのように響いていたホワイトノイズのような雑音がなくなっているような、そうでないような……。

 しかしそれが、今自分の身に起きたらしい事象を解き明かすために脳がリソースを割いて考えているために一時的に忘れ去られているだけなのかも知れず、詰まるところよく分からないのだった。


 俺が日々思い悩んでいたことは、こんなもの──こんな、くだらないものだったのかもしれない。

 ふと、ラブホテルに自分がいるという高揚感こうようかんは消え果てていることに気づく。なんだかこれまでになかったくらい妙に冷めていた。




 ラブホテルというのはどうやって退室すればいいのだろう。これまで大学受験のためにビジネスホテルに宿泊した経験があったが、その時のようにフロントまで行って料金を支払ってチェックアウトすればいいのだろうか。ビジネスホテルではルームキーがあったがそういえばここではもらっていないなと今さら気づく。

 扉は遠隔操作リモートでロックされているものではないようですんなりと開いた。

 後ろを振り返って俺の初ラブホテルとなった室内を今一度見回したがなんとチープな部屋だろうか。

 目に映った映像を振り払うかのように俺は一歩足を進め扉を閉めた。


 フロントでは部屋番号と精算の意を告げるよりも早く、俺の顔をチラと見ただけで「お代は結構ですので」と伝えられた。

「え、でも」と俺が声を結ぶより前に「お帰りはあちらです」と二の句を継がせず出口を指し示された。腑に落ちなかったが、ノート屋の裏事業と提携しているということなのだろうと理解した気になって、「あ、どうも」と言い残し俺はラブホテルを後にした。

 お金を支払わなくてもよかったのだからまあよしとしよう。




「ホテル 勉強部屋」を出て俺は猥雑わいざつな北池袋を歩いた。

 街は夕暮れ時の薄暮はくぼに染まっていた。けっこうな時間あの部屋で寝てしまっていたことになる。

 居酒屋やいかがわしい店々の軽薄けいはくな明かりが目にやかましかった。


 東京の人間は、夕日そのものをありがたがることはあっても、山に隠れた夕日が店じまいとばかりに景色から色を奪っていくあの奇跡的な美しさを知らないだろう。

 唐突にそんなことを考えた。

「ふるさとは遠きにありて思うもの」などとは言うが、上京してきてホームシックにもならずに入学までの短い期間中三大副都心を遊歩しまくったこの俺が、故郷のことを想っていた。

 今年の夏休みにはコミケにも行かずにすぐ帰ろうか、そんなことを考えていた。




「ホテル 勉強部屋」に向かっていた頃にはまだまばらだった怪しげなお姉さんたちはこれからが稼ぎ時なのだろう、その数を増やし肩で風切ってラブホ街へと消えていっている。

 俺は彼女たちを特段目で追うこともせず一瞥いちべつだけしてコンビニを目指した。

 ノート屋に支払う5万円をATMで引き出すためである。銀行口座には多くもないが俺にとっては少ないとは言えない額が入っていたので5万円用意できないということはなかった。

 先月の日雇いバイトの軽作業の分と、あとおそらくこの残高ということは実家からの仕送りが折りよく振り込まれていたようだった。


 今の自分なら「池袋秘密倶楽部」にだって行けるんじゃないか、ふとそんなことを思い立って3万円多く、計8万円を口座から引き出した。口座は、今月生きていく上での最低限度の生活費を残してほぼ空になった。


「池袋秘密倶楽部」とは俺がよくホームページを閲覧したり、時には前を通ってみたりして楽しんでいた池袋北のドスケベソープランドである。

 今の自分なら、あの黒くて重そうな扉を開いて入店してしまえるのではないかと思ったのである。


 そう考えると足はすぐに店へ向かった。

 ドスケベ風俗店は基本的に北口歓楽街の大きな筋から一本入った小路こうじに立地しており、「池袋秘密倶楽部」も例外ではなくパチンコ屋とラーメン屋の間から入る小さな通りにある。


 大学のある池袋に通うようになってからそこが日本有数の風俗街でもあると知った俺はまずインターネットでその概要を掴もうとした。そうすると淫猥いんわいなホームページが出るわ出るわ別府の温泉よりも湧き出てきたのであった。


 その中で見つけたひとつが「池袋秘密倶楽部」だった。

 とにかく童貞を気に病んでいた俺は数多ある風俗形態の中でもやはりソープランドに惹かれるものがあった。池袋にソープランドはいくつもあったが、その中でも在籍嬢のナチュラルな感じに好感を覚え、俺は「いつかここに行くぞ」と決意していたのだった。

 しかしながら、やはり初めてはプロではなくアマチュアでなくてはと現実的なのか非現実的なのか分からないみさおを立てた俺は、定期的にホームページを覗いたり前を通ったりしては、黒くて重そうな扉の向こうに確かにあるはずの密室内での自由恋愛本番行為について憧れを抱いていたのだった。


 いつもはチラチラと目線をくれながら足早にその前を通り過ぎるだけだった「池袋秘密倶楽部」の黒くて重そうな扉は、今日はなんだかそんなに黒くて重そうではなかった。


 今の俺にはその前で立ち止まって眺めてみる余裕まであった。


 ノート屋のおっさんは別にいつまでに来いとも言っていなかったし明日でもいいだろう。

「入るか」と黒いがそこまでは重そうでもなくなった扉を開けようと手をかけた時、扉の方から開いてきた。

 店を出るおっさんが開いたのだった。


 四十がらみのおっさんは扉の前に立っていた俺に気づくとギョッとして、ニヤニヤと笑みを浮かべた顔を改めて口を一文字に結んでなぜか俺に軽く一礼をしてそそくさと駅の方へ駆けて行った。


「なんだ簡単に開くじゃん」


 俺はきょうを削がれてきびすを返しノート屋へと向かった。




 ノート屋はまだ営業していた。

 5限終わりの駄学生だがくせい向けの需要があるのだろう(惰学生だがくせいは午前中の1,2限を避ける習性があるため必然的に遅い5限にコマを入れがちになる。同じく堕学生だがくせいである俺もそうだった)。


 おっさんは入店した者に向けての「らっしゃーぃ」という気の抜けたあいさつをした後で俺の顔を見ると張り付いたような笑顔で俺を奥に手招きした。


「帰ってきてくれたってことは……童貞喪失おめでとう!」


 わざとらしく手を叩いて喜ぶおっさんに俺は財布から5万円を抜いて差し出した。

「これ、料金の5万円です。約束でしたから」


「うんうん、無信全疑だったけど理解してくれたようで嬉しいよ。それで、どうだった!」

 俺は居た堪れなくなってソファから立ち上がった。


「まあ、こんなもんかって感じです」




 店を出る俺におっさんは「またどうぞー!」とこれまで聞いたことのないほど威勢よく声をかけてきた。


 また、はないのだ。もう二度と。




 俺は何も考えずに池袋駅まで歩いていつもの西武池袋線に乗ってアパートのある大泉学園駅まで帰った。車窓からは明かりの漏れる家々が見え、いつもであれば何かそこに温かさを感じたものだったが、今日に限ってはよそよそしさだけを覚えた。

 俺はアパートの自室に帰ってのち、寝た。

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