第6話 巫女

「こんにちは。君が永野さん?」


 巫女──正確には巫女服に身を包んだ二十そこらの女──は面食らう俺にそう言った。


「あ、はい」生返事をする俺はとりあえず彼女を部屋の中に招き入れた。「立ち話もなんですので……どうぞ」


「失礼しまーす」

 巫女は玄関に履き物を脱ぎ、しゃがんで片方の手で白衣びゃくえたもとを手繰ってうやうやしくそれを揃えている。耳にかけたショートカットの黒髪がつるりと耳から落ちて垂れた。


 巫女服にばかり気を取られていて気づかなかったが靴はヒールが八センチはある厚底の黒のエナメルローファー──まったくもって白衣びゃくえ緋袴ひばかまには不釣り合いだろう。サンダル履きでスーツを着ているようなもので、こういう服には足袋と草履なんじゃないだろうか。


 何がなんだか分からない。脳の処理が追いつかない。これは、なんだ? コスプレオプションというやつか? しかしそれでは本当に風俗店である。俺がノート屋のおっさんから聞いたのは、エロスを経ずに童貞という劣等感だけを取り除くという話であるのだ。やはり騙された? いやしかし、何を、どう騙すのだ? 騙してなんになるというのだ?


「うわっ、この部屋暑くない? クーラー入れてもいいかな?」


 訳のわからない状況で初ラブホに挑んでクーラーをつけることすら忘れていた。

 指摘されてようやく室温の高さに気づいた俺が「どうぞ」と言うより早く、巫女は慣れた手つきで入口そばの壁に設置された空調の操作盤をいじっていた。

「この部屋、クーラーの効き悪いんだ。とりあえず風速最強にしといたから寒かったら言ってね」


 天井に設置された業務用エアコンから、まだなま暖かさの残った冷風が出始めた。

 ……この巫女、何度もこの部屋に来てるんだ。


 エアコンから吐き出されるカビ臭い冷風に「うえー」としかめっ面を作っていた巫女だったが、諦めたのかソファに座ってバッグをガサゴゾやり始めた。バッグも靴と同じく黒のエナメル合皮ごうひでテカテカ光っている。A4サイズの厚い書類楽に入りそうなサイズだ。


 俺もソファの近くまで行くが座らない。

 座れないのだ。

 女性の横への座り方など大学の必修科目で習っていない。習っていたとしても単位を落として再履修になっているだろうが。

 「立ってないで横どうぞ」と巫女に言われなければ、俺はそのまま次の寒冷期が地球を覆うまで突っ立っていただろう。


「失礼します」と声をかけてから巫女の横に座る。

 まず声をかけることは重要だ。

 教室で女子の横の席しか空いておらず、そこにコソッと座ったら友達とキンキン高い声で話していた女子が振り向きあげた「うおっ」というあの低い声と表情を俺は忘れられないのだった。


「そんなかしこまらずに、どぞー」

 巫女はまだバックの中身を探りながらこっちを見ずに言う。だめだ、これだけで好きになりそうになっている。近くで見るとけっこう若い子であることに気づく。ひょっとしたらギリギリ十代後半なのかもしれない。そばで見ると女子の肌ってこうなってるんだな、髪の毛と眉毛以外の、一般的に毛が無い方がいいとされている場所にことごとく毛が生えていない。メイクした眉毛って横から見ると刺さりそうなほどに長く尖っているものなのか……。

 香水なのか、フッと香気が鼻をくすぐった。……くらくらしてきた。


「私って忘れ物多いタイプじゃないですか」


 知らんが、「そうなんですね」と反射的に生返事を返す。


「……あった! よかったー」

「あ、よかったですね」

「これがないと本当に巫女だって信じてもらえないんですよね」

 バックから出てきたのはあの、神社で神主や巫女が祝詞のりとを唱えつつ振るう白いふさふさのついた棒──御幣ごへいだった。

 巫女はいたずらっぽく御幣ごへいを振るって俺に微笑みかけた。


 いや、そんなもの振るってもあなたが巫女だとは信じていないが……。


「あの、いろいろ訊いてもいいですか?」


 俺は、御幣ごへいを持ってますますコスプレっぽさの増した巫女(?)に尋ねた。


「あなたがノート屋の言っていた、その、なんだ……交接こうせつをせずに我々に春を届けるという……」

「あは、ちょっとどんな話聞いたのよそれ。でもそうだねー」巫女は笑いながら言う。「私がセックス抜きであなたの童貞を奪える女だよ」


 偏見に満ちた一説によればコスプレイヤーにはメンがヘラってる御仁ごじんが多いという。

 彼女は正気なのだろうか?


 いや、そもそも俺も正気なのか?


「んじゃ、とりあえずシャワー浴びてきてね」

「えっ、シャワーですか。そういうのではないって……」

「え? あー……そういう期待してるではないから安心してくださいね」


 期待ではなく不安なのだが……。


「よく言うじゃないですか。はらいたまえー、清めたまえー、って。アハハ。こう言うのって色々手順が決まってて、そこでなにをするかっていうか順序を踏むのこと自体が大事なんだよね。私は行かないから安心してね。はいはい、じゃあシャワーでお体、清めましょー」




 まずいことになった。これ、普通にエロいやつだろ。


 温度調節が冷水か激熱しかないのではないかというシャワーで、なんとかその間の冷暖の境界一ミリに適温を探りあて汗を流しつつ考えた。頭が沸騰しそうだ。冷水を浴びて文字どおり頭を冷やした方がいいのかもしれない。


 巫女は巫女ではなく、ただのコスプレオプション付き風俗嬢で、シャワーから出た俺は襲われるんじゃないか? エナメル厚底ヒールローファー巫女服風俗嬢なんて手練てだれを前にすれば、俺の童貞など脆弱なわらの家同然に吹き飛ばされてしまうことは三角形の面積の公式よりも自明である。

 そんな俺に唯一頼もしいのは、こんな通常の(?)意味での童貞喪失の瀬戸際にあってなお持ち前の柔らかさでいつでも俺のそばにいてくれた股間であった。

 その様は極寒に曝されたかのように小さく縮こまり、それは震えてさえいるように感じた。

 怖いのかい? 同じだね。僕も、なんだ。


 不意に洗面所兼脱衣所のドアが開く音が聞こえ飛び上がりそうになる。

「ここに置いとくんで出たら穿いてくださいね」


「ひゃい!」

 言われていることを理解する前に反射的に答えた。というか呻いた。ドアが閉まる音がする。

 俺はいま告げられた言葉を反芻する。オーケー、巫女はなにかを置いた。ここまではいい。


 では、問題は「穿くってなにを?」である。


 シャワーを止めて脱衣所の扉を開く。洗面台の横には見慣れない黒の革でできた何かが置かれていた。金具のような物も付いている。

 なんだこれ。

 あれっ、というか脱ぎ捨てといた俺の服がなくなってる! ズボンに入れてた財布を盗られ、そのうえ服まで奪うことで追いかけることもできなくされた? 一気に腑に落ちた気になると同時に、怒りが湧いてきた。


「お、おい!」

 俺はすでに意味が無いと思いつつもドアを少し開け声を張った。多少どもったのはご愛嬌あいきょうである。


「はーい」


 あれ、いた。作られた外行き用の猫撫ねこなで声が返ってきて驚く。


「あ、いや、すみません。ちょっと勘違いしちゃってですね……。あの、服はー」

「服着られるとやりづらいんだよね。だから預かっちゃった。置いてたらそのまま着ちゃうでしょ」


 服着られるとやりづらいって、なにがですか? 服を着ないですることなんて、入浴と、その、あの……。


「でも、なにも着る物がないと、困るんだけど……」

「だから置いといたから。穿いてね、それ」

 それ、とはどうやらこの黒革の物体を指しているらしい。シャワーを浴びたままだったので手だけを洗濯しすぎてゴワゴワのタオルで拭って触れてみる。


 なんだこりゃ?


 それは硬い革でできた立体的に盛り上がった二等辺三角形の面があり、三つの角からそれぞれ革紐が伸び曲線を描きながら一箇所で繋がっている。三本の革紐の交わる部分にはダイヤルじょうのようなものがありロックすることで留める構造のようだ。言うなれば際どいティーバックビキニを黒革で作ったようなものだった。違いといえば硬い革でできていることと、股間に当たる部分がファウルカップのように盛り上がっていることだった。


「これは、一体……」

 事態を飲み込めず、少し開けたドアから巫女に尋ねる。


貞操帯ていそうたいって知ってる? 本来はプレイで射精管理なんかするために使うものなんすけどね」


 射精管理て……。

「話に聞いたことはありますけど……」

「エロ漫画で読んだんでしょー。まあエロ漫画くらいでしか見ることないかもだけど実際にあるんだよ。君の目の前にあるのがソレ」


 たしかにエロ漫画で読んだんだけど……。


「なぜ貞操帯ていそうたいを付ける必要が?」

「どうせ君もこのままなし崩し的に物理的に童貞喪失するって思っちゃってるでしょ。みんなそうなんだよね。──いま会ったばっかりの男とするなんて私そこまで安い女じゃないし……。まあでも君はセックスせずに童貞を喪失したい。でもこの流れだと信じらんない。そりゃそうだよね。だから貞操帯ていそうたい付けてもらうことにしてるの」


「なる……ほど?」

 理にかなってるのか? そもそもこの状況がことわりが吹き飛んだ状態なので判断できない。


「それ後ろがダイヤルじょうになってるから。あ、開ける時は全部ゼロに合わせてね。そんで自分が決めた数字にダイヤル合わせて、横のボタンみたいなとこ押せばそれが解錠キーになるから。そうやって穿いとけばなにがあっても安心でしょ」


 つまりこれは俺の純潔を守るための器具ということだった。たしかに、貞操帯ていそうたいは元々、聖職者が間違いを犯さないように作られたものと何かで読んだことがある。巫女はさっき射精管理プレイとして使うためのものだと言ったがそうではない。つまりこれこそが、プレイとしてではなく、本来の使用法というわけだ。


 なにもいやらしいことはない。


 しかしどう見てもSMプレイの道具にしか見えないのはやはり素材に依る部分が大きいだろう。しかし、硬い革で作られているのは理にかなっていると説明が可能だ。仮にこれがやわらかい布であれば、屹立したソレを横からはみ出させたりできてしまい意味をなさないからだ。


 この状況は相変わらず訳が分からなかったが、ひとまずこの道具の意味には納得した俺は、言われたとおりそれを穿いた。

 説明を聞いたいまならこの二等辺三角形の盛り上がりの意味がよく分かった──これは女性用ではなく男性用ということだ。


 四桁の解錠キーはふっと頭に思い浮かんだ番号にする。たしかに巫女にはこの番号を知ることはできない。


 一万通り試行すればいつか開くだろうが、そんなことは、この俺がさせない。




 俺の純潔どうていは──なにがあっても俺が守る。

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