第5話 池袋駅北口

 東京の街はどこもだいたいそうだが、池袋もご多分に漏れず駅を中心として街が形成されている。


 多くの場合において人は街というものを駅から東西南北四つの方角に便宜上分割し、それぞれの特色をもって色分けしてカテゴライズを行うものだ。

 その論法でいくと、池袋という街は東西南北にどういった色分けができるか?


 まず東は池袋の顔と言えるだろう。

 少々古くはなってきたが池袋の象徴であるサンシャイン60とそのお膝元ひざもとのサンシャイン60通りを核として、にぎやかな目抜きが形成されている。


 次に西だが、こちらは東に比べて落ち着いており、芸術やアカデミックな、といった言葉が当てはまるブロックだ。

 芸術要素は西口公園の東京芸術劇場で、アカデミック要素は我々の通っている大学があるというただそれだけなのだが、街というのはそういう象徴的な存在を呼び水として自らの色を規定するものなのである。


 次は南だが、池袋で最も影が薄いのがこの方角である。

 基本的には住宅街くらいしかなく、少し歩き「街に色が付いてきたかな」と思えばもうそこは目白駅の管轄かんかつになってしまう。

 そもそも池袋駅に南口は存在しない。東口、西口、北口はあるのに、だ。南に位置するメトロポリタン口というのがあるにはあるが、このメトロポリタン口、池袋駅ユーザーに聞くに「案内板等で見たりはするが実際に行ったことはない」、「どこにあるのか。どこに出るのか知らない」、「うわさではメトロポリタン口は裏世界の猫の支配する猫袋とつながっているらしい」などなど存在も眉唾ものであるマイナーな出入り口だ。

 強いて南にあるものをあげるならば、ジュンク堂や鬼子母神は南と言えなくもないか……。総括するに、池袋の脇役。それが南である。


 最後に北である。

 池袋の北は新宿歌舞伎町にこそ劣るものの、日本有数の規模を誇る大歓楽街だ。大衆居酒屋から喫茶店、ゲームセンター、ボウリング場、映画館に落語の寄席よせまで、ところ狭しと肩を寄せひしめきあっている。


 そして、北といえばなによりも、風俗店とラブホテルである。


 北は池袋の恥部──まさしく性器そのものである。健全なる街の発展のために人の欲望を押しやった方角が、この街では北だったのだ。


 喫茶伯爵もこの北にあり、駅の北口を出て目と鼻の先にある。そのまま線路沿いに進んでいくと線路を渡って街の西側と接続する高架橋があり、その橋のたもとからラブホテル街が始まる。

 あまりにもラブホテルが建ち並びすぎているのを見るに、この地はラブホテル以外が生きていける環境ではなくなってしまっていると考えられている。

 唯一の例外としてラブホテルの間に病院が建っている。性病の専門医である。


 建ち並ぶラブホテルの一軒が「ホテル 勉強部屋」だった。4階建てのビルの外観は相応に古く、料金表示を確認せずとも一瞥で低価格帯のホテルであろうと利用者に分からせるものだ。

 日焼けしすすけた看板に、先刻ここへ行けと伝えられたホテル名が書かれていなければ、とてもではないが入ろうとは思わなかっただろう。

 まあ、入ろうとする目的など普段の俺にはないのだが。もちろんこれまでの人生においてラブホテルなるものに入った経験は皆無であった。

 「ホテル 勉強部屋」の前でどうしたものかと右往左往していた俺だったが、こんな昼からひっきりなしに往来するカップルやどう見てもモテなさそうなおっさんやマスクで口元を隠したお姉さんたちの奇異きいの視線についに耐えかね、「これではまるで大人の階段の登り口へ一歩踏み出す踏ん切りのつかない童貞のようではないか!」と、まさしく踏ん切りのつかない童貞は、月に踏み出すアームストロングよろしくその偉大なる一歩を踏み出したのだった。


 通りから目隠しされたエントランスは薄暗く、反応の悪い自動ドアの先には10メートルほど安っぽいウレタン素材の廊下が延びていた。廊下の突き当たりには「業務員以外立入禁止」と書かれた鉄の扉がある、その鉄扉の手前がエレベーターホールになっており、向かって左側の壁にエレベーターの入口がある。

 そんなふうにこの未知の伏魔殿ふくまでんの状況把握を行なっていたところ、不意に「ご休憩ですか?」とすぐ側で声がした。その声は壁に開いた小窓から発せられたもので、俺は数歩進んで中を覗き込む。

 中はマンションの管理人室のようになっていて、そこには年増の女が座っていた。

「それとも、ご宿泊?」小窓は低く、顔を合わせずに入退館が行えるように作られているようだ。

 俺はノート屋でもらったメモどおり、「400号室を、使えますでしょうか?」と年増に告げる。

 怪訝な声をかけられるかと心配したのも束の間、「ああ、ノート屋さんの……。でしたら奥のエレベーターで4階にどうぞ」といかにも事務的な声が返ってきた。

「エレベーターを降りたらお部屋番号が点滅して光っている部屋がありますからそちらへどうぞ。入室したら少々おくつろぎになってお待ちください」

 その言葉に従って奥へ進み、エレベーターへと乗り込む。2人乗れば精一杯といった広さの鉄の箱に、「そうか2人でしか乗らないものな」となぜかせずともよい納得をする。


 それにしても、と考える。部屋番号を伝えただけで、ノート屋の案件だと察するあたり、俺と同じような童貞の先例がこれまで幾人いくにんもいたということなのだろう。

 少なくともノート屋は他者を巻き込んでまでこの事業を行なっているということだ。

 「組織犯罪」というワードが浮かんだ頭を、4階への到着を告げるチンッという音が現実に引き戻した。


 400号室の部屋番号は俺を深淵に手招きするかのように薄暗い廊下で先に怪しく明滅していた。

 このフロアには他に401から404まで部屋があったが、そのどれもが扉に使用禁止を告げる貼り紙がされており物音ひとつ聞こえない。現在、このフロアは400号室一室のためだけに存在しているようだ。

 フロア自体の使用頻度が低いのだろう、埃っぽい空気が重く沈澱している。


 俺は誘い込まれるように400の明滅へ向かって歩を進めた。

 意を決して扉を開くとカビ臭いえた匂いが鼻腔にまとわりついた。

 扉を開けると部屋の電気が自動でオンになった。久方ぶりに明かりに照らされたといった感じの室内は、ほつれて毛羽だったペラペラの赤い掛け布団のベッドに、数箇所ガムテープで穴を塞いだ合皮のソファが置かれ、調度品といえば光量不足の古風なルームランプと今どきブラウン管のテレビくらいで、ラブホテルというより少し良い昭和の連れ込み宿と表現した方が的確なのではないかといった感じだった。


 俺はとりあえずソファに腰を下ろす。スプリングが馬鹿になっているのだろう、柔らかすぎて腰が落ち着かない。


 初めてのラブホテルがこんなボロっちいところだなんて……。


 しかし、とすでに入室してしまって気づいたのだが、通常、部屋番号というのは百の位に階数を、一と十の位に1から順番に番号を振っていくものではないだろうか? ところが俺が今いるこの部屋は400号室──そんなナンバリングが存在するのだろうか……。


 いやしかし、すでに俺はもう文字どおりこの400号室に足を突っ込んでしまっているのだ。今さらどうこう言っても仕様がない。

 財布の中には2万円弱しか入っていない。学生たる俺には大金だか騙されすべてむしられたとしても食うに困って死ぬわけでもない。


 つまるところ俺にはここで誰かしらがこの部屋を訪ねてくることを待っていることしかできないのだ。

 そう結論づけてしまってテレビをつける。ブラウン管に地デジチューナーを通した荒い映像が映し出される。画面上では高校球児たちが夢の球場で青春をかけて白球を追っていた。高校野球は嫌いじゃないが、こんな状況で見るのは目に毒だ。

 ひとつチャンネルを進めて幼児向け教育番組を流す。ちょうど始まったところらしい。着ぐるみが元気にちびっ子に向けて自己紹介をしているところだった。

 俺は小さい頃はこんなもの子供騙しだと背伸びしてこういった番組を見ることを避けていたのだが、むしろこの歳になってからなんとはなしにこの局へチャンネルを合わせるようになった。

 それは、番組を見たいわけではなく、見ていれば何も考えずにいられるからだ。幼児向けの、子守りの代替物として存在している教育番組というのは本当によくできていて、無心で見ていればよこしまな気持ちは微塵みじんも湧かず、棘のないやわらかい映像がそのまま脳に流れては溜まることなく出ていってくれる。

 こんな状況には不釣り合いだろうが、俺はもう何も考えたくなかった。なるようになれ。ここへきて俺はすべてに身を任せるという気分になっていたのだった。




 そのまま十数分ほど経った頃だっただろうか。ノックの音で俺は現実に引き戻された。

 テレビでは着ぐるみが手を振ってサヨナラの挨拶をしていたところだった。俺はしばし状況が飲み込めず固まった。

 そこに、もう一度たしかにノックの音が聞こえた。

 俺は「は、はい。今開けます」とテレビを切ってから立ち上がり扉を開ける。


 扉の向こうには、巫女がいた。

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