第4話 ノート屋②

 場面は戻って現在、再び喫茶伯爵である。


 休むことなく喋り続けた永野氏はここでアイスコーヒーのグラスを傾け喉を湿らせた。

 僕もそれを見て思い出したようにアイスコーヒーを手に取る。彼の話に耳を傾けている間は飲むことをすっかり忘れていた。氷が解け出て味は薄まってしまったが、流れ落ちる液体が久し振りの冷たさを喉にもたらし心地よかった。


 それにしても奇怪な話だ。どう処理すべきなのか、この薄いアイスコーヒーのようにそのまま飲み込んでしまっていいものか?


 信じたい。僕はきちんとそう思っている。

 嘘ではない。

 だが、永野氏の浅からぬ理解者であると自任しているからこそ、壮大なホラ話の中に誘い込まれているのではと疑ってしまうし、何より彼のしたり顔が今から目に浮かぶようでもある。

 つまり僕は騙されることに対する保険を現段階では捨てられていない。それはつまり、検討材料が十分に提示されていないからであり、現時点では僕は同意も否定もできない。


 彼以外がこんな話をすればはなから聞く耳を持たなかったであろう半面、彼だからこそ鵜呑みにすることははばかられる。


 反目はんもくすることも多いが、僕と永野氏は刎頚ふんけいの友である。

 僕はそう思っているし、強固な友人関係というものは、そういった根拠の乏しい確信の折り重なりから編まれるものではないだろうか。だが、そこでできあがるのは清らかで美しいだけの友情ではない。少なくとも上等な反物などでは決してない。僕らの間にあるのはツギハギだらけで目の荒いぼろきれか何かだ。しかしそのぼろきれは他ならぬ唯一無二の一点物であり断じてイミテーションなどではない。そこにあるのは相互的信頼関係などではなく、清濁併せ呑む太平洋がごときおおらかさだ。

 いや、太平洋は大言し過ぎか。ここでは瀬戸内海ほどの寛容な関係、とでも言っておこう。太平洋と比喩するほど広い了見は持ち合わせていないが、太平洋よりずっと狭い瀬戸内海は太平洋よりずっと水面穏やかなのである。


 どんな話でも最後まで聞いてから判断すべき、とまでは言わないが、友人の話くらいは最後まで聞くべきだろう。

 怒るなら最後まで聞いてから。


 学生生活最後の徒花あだばな――大学生には無駄にするにも惜しくないほどに時間ならある。




 俺はおっさんの手招きのままにノート屋の奥へと連れられて行った。ノート屋の表側からは仕切り一枚隔てただけで扉もない。

 いつもは見えない仕切りの向こう側へ一歩足を踏み入れると途端に印刷機の稼働音が一段とやかましくなった。その部屋、というかノート屋のバックヤードに並んだ幾台もの印刷機を掻き分けるかのようにして、小さなガラステーブルを挟んでソファが向かい合わせに置かれていた。

 印刷機を並べて生じたデッドスペースを余らせておくのももったいないからと、最も安かったからくらいの理由でリサイクルショップで選ばれたソファとテーブルをその隙間にはめ込んでみました、という感じだ。


「ささ、掛けて掛けて」

 言うなりおっさんはとっととソファに腰をうずめている。


 どうしてこんなところまで着いてきてしまったのか? おそらく南米とかだったらもう二回は身ぐるみ剥がされて野良犬のエサになっているだろう。

 俺はいまさらながらそんなことを思った。


 何だか最近少しおかしい。変に大胆になったり、嫌に自暴自棄におちいってしまう。

 正気じゃない。


 つい、顔に笑いが漏れた。


 ――そう、正気じゃないのだ。留年寸前の大学生も、童貞も常に正気じゃないのだから。


 どうせここまで来てしまったのだし、もう乗りかかった舟である。いくところまで付き合ってやろうじゃないか。泥舟だったら水面に飛び込めばいい。幸いにも泳ぎは得意だ。


 俺もところどころガムテープで補修されたソファに体を沈めると、ぎゅむとスプリングの軋む音がした。


「こんなところまで付いてきてなんですけど、あなたの言っていることはよく分からない」

「でも、心惹かれるものがあった。だから君はここにいる。違うかい?」

「……その通りです。でも真に受けているわけではなく、面白そうかもという好奇心加えて怖いもの見たさもあったということきちんとお伝えしておきます」


「別にいいよ、そうやって自分に保身を掛けなくても。こっちも騙そうっていう腹じゃないんだ。良心半分商売半分、うちの店をご贔屓ひいきにいつもノートを買ってってくれる他ならぬ永野君のために! フレンドシップとビジネスシップ基づいた関係だ」


 商売という言葉がチクリと俺の警戒心に刺さった。

 たしかにおっさんは当初5万円を提示してきた。本来なら10万円であるらしいその商品を一気に半額でいいと言ってきたのだ。

 ここで「半額でいいんですかやった!」と飛びつくほどの大阿呆ではない。阿呆ではあるが……。

 タラバガニだって脚がもげてなきゃ安くはならない。「なんと今だけ半額!」と声高に喧伝するために最初から定価を倍に設定する商品もあると聞く。

 とにかく半額なんて破格の提示はこちらをさらに身構えさせるだけだ。


 そもそも半額にされた商品が何なのかということすらこちらは教えられていない。

 にも関わらず、のこのこ付いてきた俺も俺だった。


「だから、あなたが僕に――そのフレンドシップと商売半々で売ろうとしているものとは、いったい何なんですか? それを聞かないことには僕だって判断できないですよ。説明によれば、その、交接こうせつをせずに、童貞だけ喪失できるという話ですけど。失礼ですがそんなこと非現実的だ」

「永野くん、君は現実なんて安い言葉でつまらない常識を妄信的もうしんてきに絶対のものと思い込んで生きていて楽しいかい? 私に言わせればそんな生き方は窮屈だよ。田舎から出てきた君には分からないかもしれないがね、世界はもっとおもしろいものに満ちている。まだ童貞の……失礼、大学生の君には知らない世界が山ほど常識の裏に隠れているんだよ」


 何を馬鹿なとお思いだろうがこのときのおっさんは謎の説得感に満ちていた。荒唐無稽こうとうむけいな話を否応いやおうなしに飲み込ませるような、そう、威光のようなものを感じさせた。いま思うとおっさんが窓側に座ったものだから窓をバックに斜光が阿弥陀如来あみだにょらいの後光よろしく見えていたことも関係していたのかもしれない。


「君は結果を得たいがそのための過程を怖がっている。では過程をすっ飛ばして、結果だけ得られるとしたら、どうかね? 怖い思いをせずに結果だけを手に入れられる、こんなすばらしいことはない」

「でも、過程なき結果はありえないでしょう」

「普通ならね。さっきも少し話したが、現実には確かに常識の埒外らちがいが存在する。『性行』を経ずに、『童貞喪失』する、という埒外がね」


 俺はじっとりと汗ばんでいることにその時気づいた。ノート屋の事務スペースはフル稼働する印刷機の排熱でさながらサウナのようだった。


 おっさんの話もそろそろ核心部分のようである。俺は下手に口を挟まずじっと傾聴けいちょうすることに決めた。

 どうせ暇だし、こんな訳の分からない話を大の大人から聞ける機会などそうそうありはしないだろう。


「説明するのは難しいんだが、例えば鍵のかかった金庫があるとする。中身を取り出すには、もちろん鍵穴に鍵を差し込んで――」おっさんがこの鍵と鍵穴の話を意図的に持ち出したのかは分からない。この話をする時は決まって持ち出す例えなのかもしれないが、少なくともこの暗喩部分(俺はそう受け取った)を話す時に一瞬ニタリと笑ったように見えた。「金庫を開けて取り出す、これが普通だ。でも別にそうしなくたって中身を取り出すことはできるよね。壊したり、くり抜いたり……ああ、君から童貞を抜きとる時にはそんな手荒なマネはしないよ。魔法みたいなもんだ。安心してくれていい」


 魔法……ねえ。俺は喉まで出かかったアレやコレを飲みこんだ。ここで追及をしたって話の腰を折るだけで一向前に進まない。


「童貞というのは心のありようだ。外科手術のように切って剥がして取って、とはいかないがね。飲み込めないのはよく分かる。本当は私だって説明できるほど理解できていない。とにかく論より証拠。今からここに行ってみてくれないか? 料金はことが終わった後で、君が性行を経ずに童貞でなくなったという効果を実感していれば、ここに戻ってきてくれればそれでいいから」


 おっさんから差し出された紙には簡略化されすぎた地図らしき図が書かれており、目的地らしき丸に囲まれた四角形にこう書かれていた。


『大人の補習授業 ホテル・勉強部屋 400号室』


「賭けてもいい。君はきっと戻ってくるよ」

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