第3話 ノート屋①

「そういう反応されるだろうと思ったから順を追って懇切こんせつ丁寧に説明してたんだ」

 永野氏はやや強い口調で吐き捨てる。

「急かすなよ」


「そうは言っても」こっちにだって言いたいことはある。「いきなり電話がかかってきて、なにかと思えば親友が困ってるそうで、電話じゃらちがあかないからこうして池袋まで飛び出してきて、その、なんだ、童貞廃品回収? 冗談にしてはちょっとひどくないかい?」


 永野氏の口振りに、売り言葉に買い言葉で軽率な反応をしてしまったか、口にしてすぐ後悔した。ちょっと配慮が足りなかった。


 突如としてふたりの間に降りた沈黙のとばりは、雄弁に僕のノミの心臓を煽った。卓ごとの話し声が混ざり合い溶けた雑音が店内に満ちている。その音が夜の波のごとく、どこか遠くで鳴っているように聞こえた。見えない静寂の皮膜ひまくに覆われたようなとかなんとか、つまるところ気まずかった。


 たかだか十数秒ほどのはずの沈黙がとても長く感じられた。




 先に口を開いたのは永野氏だった。

「話が飛躍しすぎているのは認めるところだ。でも、これは本当に俺の身に起こったことだ。信じろとは言わない。ただお前には聞いて欲しい。あわよくば信じて欲しい」


「――分かった。最後まで聞くよ。聞いて、それから判断する」


 僕は永野氏の空いたグラスを見やり、追加でアイスコーヒーを注文してやった。「悪いよ」と言う永野氏をいいってことよと手で制す。


 新しいアイスコーヒーはすぐに到着した。これで長くなるであろう話を心置きなく聞く準備は整った。

 アイスコーヒーに付属のミルクを阿呆ほど流し込んで容量を増やし満足した永野氏は、「ふう」と一呼吸しながら天井の方を見た。頭の中で話を整理しているらしい。それも終わったらしく、思考を言葉に結ぶことで自身に起こった一大事を自らもまた追体験していくかのように、ゆっくりと話し始めた。


つたない話になるだろうが、精一杯伝えられるように努める。それじゃあ聞いてくれ」






 あれは大学に行って講義に出た帰りだった。


「珍しい」って? 俺も大学生なんだから大学にも行けば講義にだって出るさ。

 俺だって社会にこそ出たくはない、だが留年したいわけでもない。これまで何人か留年した先輩も見てきた。外の世界へ出たくともキャンパスに繋ぎ止められ学費をちゅうちゅう吸い取られながら社会経験に重要な若き日の一年を棒に振る。さながらゾンビのように講師連中に媚びへつらい単位を求めて大学構内をうつろな目で歩き、赤い頬を希望でぷうぷうふくらませた一年生を見付けては噛み付いてT-virus(怠惰ウイルス)を流し込んで「明日は我が身」などと訳の分からないことをわめき散らす。


 若干誇大したが真っ当な学生から見た留年生の姿なんてこんなもんだぞ。なりたいわけがない。

 俺はみんなが思ってるよりはずっと真面目な学生なんだ、勘違いするな。




 また話が逸れたな。

 まあその日の講義ってのが通年の必修科目でな、去年一年かけて予習してから臨んだっていうのに講師がなにを言ってるのかあんまし分からなかった。

 いや、そうだな再履修だよ。

 去年一年かけてなにを学んだんだろう俺は暗澹たる気分になってな。それが分かってないから単位を落としたんだろうという簡単な話なんだがそれは認めたくなかった。

 そしてこれはまずいと帰り道に駆け込んだのがノート屋だった。


 小汚い雑居ビルの階段を上がってところ狭しと並ぶノートを死にそうな顔でかき分けてお目当てのブツを見付けレジに持ってった。

 会計する間にノート屋のおっさんが世間話を振ってきて、「どう、大学は?」なんてこっちも見ずにレジを打ちながらのあってないような空気みたいな会話だ。




 常連だし慣れたもんでなあなあに答えてたら、急に「永野君は彼女いるのかい?」と訊かれた。俺はなんだか違和感を覚えたんだ。


 今までそんなことを訊かれたことは一度もなかったからだ。




 俺が知らないだけで健全な普通の大学生には彼女がいるのは当たり前で、実はこんな会話も一般的には世間話にカテゴライズされているのかもしれない。オードブルならアペタイザー、ボクシングなら間を取るためのジャブ、講義なら第一回目の三十分で終わるガイダンス。そういう軽い話題なのかもしれない。


 だが百歩譲っても相手を選ぶべきだろう、だって俺だぞ? ただでさえ青白い顔を、必修の再履修で死にそうな表情した俺に振るかよ。

 こっちはただでさえ竹馬の友の抜け駆け童貞喪失に心を痛めてたってのにだ。


 だがしかし、おっさんも何百何千人もの学生を相手にしてるんだから、レジが終わるまでの時間を潰すための会話として存在しているいくつかの定型文を適当に選んでるだけかもしれない。

 だから嫌な顔ひとつせず答えてやった。


「今はいないです」と。


「今も昔もだ」って? お前は『童貞食わねど高楊枝たかようじ』という故事を知らないのか。童貞紳士たるもの誇り高くあれと昔の偉い童貞もおっしゃられておる。なに「童貞食われねどの間違い」だと? やかましいわ。いちいち横槍を入れるな。ついさっき最後まで聞くと言ってたのはお前だろ。


 ……ん、今になって気が付いたんだが、おっさんはどうして俺を「永野君」だと知ってたんだろう? ああいう場所にいると後ろめたさもあってなるべく自分のことなんかはしゃべらないようにしてるんだがな。




 まあいい。それでだ、おっさんが変なことを言い出すんだ。

「本当のことを言いなさい。君、女を知らないね?」


 わざわざレジを打つ手を止めて、顔をこっちに近付けてそう言うんだ。店内には俺とおっさんしかいないってのに声をワントーン落とし、俺の目を見据えて秘密の呪文でも唱えるようにして。

 おっさんの目はなんだか不気味だった。魚か、爬虫類はちゅうるいのような底知れない目で、俺の目を捉えているようで実はその奥の方まで見据えられている気がした。


 俺はとっさのことでしばらく思考停止してしまって、部屋の奥で稼働する輪転機りんてんきの低い唸り声にはっとさせられて我に返った。


 女を知らない、とは? 文芸部の知り合いで幾人か女の知人はいるにはいるがそういうことじゃないよな。

 つまり「女という字が書けますか?」とか「動物界脊索動物門哺乳網霊長目どうぶつかいせきさくどうぶつもんほにゅうこうれいちょうもくヒト科ヒト属ヒト種において大きく分けて二種類が対になって存在しているのだがあなたは見たところその一対の男であるようにしか見えないがこのふたつのうちもう一対が何であるか知っているか? ヒント、他の生物ではメスに当たります」とか「男子校卒なわけでなく現在男女比がほぼ半々の大学に通っているのにあなたはあなたをあなたであると認識するというだけの至極しごく単純な人間関係の第一歩以下のなんか見たことあるなこの人くらいに思ってくれるような女性すらいないのですか?」などという問いなのではなくて、なんだ、その、あれだ、「女性とアダルティーな関係になったことがありますか?」と訊かれていたわけだ。

 俺はずば抜けて頭が良いわけではないが悪くもないからこれくらいのことは五秒そこらで判別できたぜ。


 理解できたらさすがに俺も質問の無礼さにカチンときて「大きなお世話だ。俺が女を知っているかなんてあなたにはどうだっていいことのはずだ。俺は黙秘するぞ。黙秘権を行使する」と言ってやった。

 これでも俺は法学部の学生だからな。権利にはうるさいぞ。まあ買いに来てたのはその法学部で落とした必修科目のノートなんだが。


 俺がそう言ってもおっさんは先刻せんこくと変わらずじっとめつけ、ともするとおっさんの瞳の中にしまわれるような気がしてくる。

 俺は元来、人と面と向かって話すのが苦手なんだ。歩きながら、飯食いながらとか酒を飲みながらだったらそこまで気にならないのに、会話するためだけに顔を突き合わせるってのがどうも駄目なようだ。

 二人きりってのも嫌なもんだ。三人なら俺は相槌あいづちを打ったり、話の流れに乗って適当にしゃべってればいい。

 ああ、お前くらいの仲ならこうして喫茶店の狭い席で膝と膝を突き合わせるようにしてても苦ではないな。むさくるしくて気持ちは悪いが。


 それでだ、さっきも言ったように店内には俺とおっさんだけ。輪転機は愚痴もこぼさず、駄目大学生を救うための尊いノートを吐き出し続けている。気まずくないわけがない。

 まな板の上の鯉の心境が分かった気がした。童貞と言うのは嘘発見器にかけるまでもなく、まとったその独特の雰囲気が童貞であることを雄弁に語り、その説得力は無慈悲にも年齢と比例して増していく。




「言って楽になっちゃいなよ」


 おっさんのその言葉に俺の心は動きつつあった。素直に童貞であることを認めることで許されるんじゃないかという気がしてきた。何に許されるのかは分からないが、魂の救済なんてものは自分が救われたと感じればそれだけでいいもんさ。


 ただ、おっさんに対して劣等感を白状するってのはどうなんだ? そう考える自分もいた。

 相手がうれいをたたえた目で俺を見つめてくるお姉さんで、場所が閉店間際のバーなんかだったら俺は素直に自分の劣等感も何も洗いざらい包み隠さず時には脚色を織り交ぜ壮大な悲劇のストーリとして語ってあわよくば同情を誘っただろう。

 だが相手はおっさんであり、ここは駄目大学生の吹き溜まりで、俺は落とした必修のノートを買いにここへ来てる。


 そのまま立ち去りたいのもやまやまだが、肝心のノートはいまやおっさんの手に渡っている。金だけ払ってノートを残して立ち去るのももったいなけりゃ情けない。

 それにそんなことをしてしまえば、俺の薄顔過剰恥厚顔無恥の逆な性格上二度とノート屋には立ち寄れないだろう。

 それ則ち俺の落単留年無間地獄らくたんりゅうねんむけんじごくを意味する。




 だから答えちまったんだ。


「は、はひ……。広義には女を知ってますけど、世間一般で使われる狭義の意味では、知らないです」


 するとおっさんは得心のいったという顔でにっこり微笑んだ。

「やっぱりね。永野君からはそういうにおいがしてるよ」


 そういうにおいとは何だそういうにおいとは、童貞フレグランス? 俺の体からそんな罪深すぎるにおいがしているというのか。もしもどこぞの研究所で童貞臭の合成に成功したとして誰も得をしない、まだ飛ぶことを知らぬか弱き童貞がその翼を痛め空からさらに遠ざかるだけだ。


 その香りの香水があったとして、恩恵に与るのはきっと女の警戒心を解きたい小憎らしいチャラ男だけだ。


 スカンクの屁のように外敵を寄せ付けないようにするためのにおいではなく、きっと童貞にとってのその香りは求めてやまない相手を遠ざける類のものだろう。抱きしめられたかったハリネズミは結局誰にも抱きしめられることのないまま死んでしまいましたとさ。




 相手の何気ない発言を深く真に受けるのが俺の悪いところだ。だがそうやって自らに向けられた発言を曲解して悪い方へ悪い方へ持っていくことで、現状打破の努力もせず矮小わいしょうな自分のままでいるということを肯定しているのかもしれない。


「永野さんってモテそうですよね」と言われればもちろん嬉しいが、ただのお世辞だろ、もしくはそう言って馬鹿にしてんだろ、そんなふうに思う。

「モテなさそう」と素直に言われれば、「そうなんですよ昔からもう全然」なんておどけてやり過ごす。本当は「モテなさそう」とネガティブな言葉を受けた方が楽なんだ。

 言葉の裏を邪推じゃすいする必要もなく、何より自分がこうして駄目なままでいることの理由を得られるから。「そうなんです俺はもう駄目駄目なんです。だからこれからも駄目駄目なんですよ」


 それじゃ駄目だ。駄目なままでは駄目なのだ。だがもう自分はその沼に下半身全部突っ込んでしまっていて、駄目じゃなくなった自分なんてもはや自分ではないんじゃないか、なんて怖がってる。


 童貞は捨てたい。でもあまりに俺は童貞であった期間が長過ぎて、童貞でない自分になることが怖い。こんなこと言いたくないが、俺は──俺は童貞であるということが自らのアイデンティティであると感じてしまっていたんだ。




 だからおっさんの次の提案には閉口してしまった。




「童貞、捨ててみない?」


 俺はたっぷり十秒はぽかんとした後、唐突に面食らった事態の飲み込めなさ、ああ馬鹿にされているのかなという安堵、すでに湧き始めた疑念、ここを立ち去りたい焦燥が一挙にない混ぜになって瞬間沸騰し、ようやく形を結んで出てきたのが「はあ」という一言だった。ため息をつくときのように、肩から抜けた力が肺でやるせなさを気化させて体外に放出するときに喉が自然と共鳴して出る「はあ」だった。


 ここはノート屋だ。社会の陰に隠れて営む事業ではあるが、風俗店ではない。風俗街は池袋駅の北口である。俺も大学入学して上京以来何度か興味本位で北口の風俗街をふらついてみたことはあったが、実際に店に入る勇気はなかった。ソープの入口の看板に書かれてた料金1万3,000円を財布に入れて、俺はいつでも童貞を捨てられるんだ、だがただ捨てないだけさ、と強がりながら風俗店を横目に足早に通り抜けたこともあった。




「すいません、おっしゃってる意味が分かんないんですけど」


 努めて冷静に俺が言うとおっさんは「だから、君の童貞を回収してあげようと言ってるんだよ」と言う。「捨てないか」が「回収する」に置き換わっただけだ。


「本来10万円のところを、今なら特別半額の5万円でいいよ」


「え、いや高すぎるでしょう!」そんなの吉原の最高級ソープ並みの値段である。これも調べたことがあるから知っている。「池袋のお店なら1万いくらとかですが……。それに意味が分からない、ここはノート屋であって闇風俗店じゃないでしょう。そういう紹介割引か何かを始めたんですか?」


 同じ日陰の仕事同士の悪どい斡旋あっせん事業か何かに違いないと決め付けた。俺のような騙されやすいとおぼしきチェリーボーイを見付けては毒牙にかけているのだろう、くだらない。


「俺はそういうところに行くような人間じゃないんで、いいっす。あと」すでに俺の頭は瞬間的に煮たっていた。「人のこと安く見ないでください、心外だ」




 捨て台詞も吐いたところで気まずさもあり、一刻も早くノートを手に入れて帰ろうと決めた。支払いは終わっているのだから後はおっさんにノートを渡してもらうだけなのだが、おっさんは依然としてそれを持ったまま渡そうとしない。

 こうなれば強硬手段だ、とおっさんの手からノートをひったくる。

 だが向こうも俺の動きに呼応して力を入れ渡すまいと頑張るので、結果として俺とおっさんはノートを挟んでにらみ合う形になった。


 また、あの目だ。だがおくすれば負ける。負けとは5万も払って予想するに妖怪のような女と枕をともにすることを意味する。


 俺のチェリーは図書館で俺の借りたい図書をことごとく前もって借りてしまっている(もちろん、俺の気を引くために先回りしているのだ)、銀フレームの眼鏡がよく似合う文学少女と決めている。

 貸出はすでに完全デジタル化されているので手書きの貸出カードなどないし、文学少女にもまだ出会ってすらいないが、諦めてしまえば素敵な理想は哀れな妄想へとなり下がってしまう。

 いくら大学生活の定石をことごとく踏み外し自分の行く末はもはやこの手から離れても、自分の純潔の行方くらいは自分で決める。いざとなればこの気高き童貞と心中する覚悟はできている。




「でも、君はよく北口の風俗店の前を行ったり来たりしてるじゃないか」

 予想だにしない事実の指摘に虚を突かれ、手の力が緩みおっさんに再びノートを奪われてしまった。

 ついでに口も滑った。

「どうしてそれを?」

 語るに落ちる童貞かな。


 見られていたのか、あんな恥ずかしい場面を。




「胸の内は、早く童貞の呪いから解放されたがってるんじゃあないのかな。自尊心を守るためのくだらない理論武装でかえって自分をがんじがらめにしてないかい? 着込んだのは鉄のよろいなんかじゃない、棘を内に向けたアイアンメイデンだよ。君のは鉄の処女ならぬ鉄の童貞とでも言おうかね。周りの楽しげな同級生を見てみなさい、君が気にしているような些末事さまつごとなどにさいなまれてるかい? どうしてゴールが分かっている一本道を自分の中で迷路にしなきゃならないのかね? 特効薬のある病気に罹患りかんしたまま、治療を拒んで学校を欠席するのは仮病と何が違うのか、私には分からないな」


 おっさんの言葉は落ちてきた金だらいのように見事脳天に直撃し、俺は閉口してしまった。薄々勘付いてはいたが見ないようにしてきた、自らの自尊心が招いた現状について、あまりにも的確に述べられてしまったからだった。




 だが動揺を見せては駄目だ、相手のペースに乗せられればそのまま飲み込まれてしまう。俺は、おっさんの話をコンパクトに要約してまず冷静であることを示しつつ、次に反駁はんばくするという作戦を取った。


 おっさんの言い分はこうだ。

「長々とどうも。つまりだ、俺は強がっているだけで、そのやせ我慢は俺に不利益を与えている、とこう言いたいわけですね」


 的確だった指摘をさらに的確に要約することで少なくとも動揺しているふうには見えなかったはずだ。概ね計算通りである。

 ただ、元々的確すぎた指摘をだ、自らの手で、小さく、シンプルに抽象化して凝縮したその言葉の矢尻は、とてもとても鋭かった。

 その鋭利な刃物を自らの手で研ぎあげて自らの胸に突き刺したわけだからとんだドMである。皮肉にも、強がりのために自分を傷付けてしまうという、指摘されたばかりのやせ我慢をまた演じてしまった形になった。

 どうやら俺の負け犬根性はよく染みた金目鯛の煮付けのように奥の方まで浸透してしまっているらしい。さらに折り悪く、親友の童貞喪失がそれに落とし蓋をしてそれはもう浸みっ浸みに煮付け極まっているところだった。

 それにしても自らの矜恃を「やせ我慢」の四文字で斬り捨てるとは我ながら酷い。




 ――だがしかし。


「そんなこと自分でも分かってるんだ。でも、それでも俺は、見栄や意地といった一見無駄にしか思えないところにこそ、その人間の本質があると思うんです。曲げれば生きやすくなる意地だとしても、曲げてしまえば大切なモノを失うんだったらそんな生きやすさなんか、俺は欲しくないです。一度曲げてしまった意地は二度と真っ直ぐには戻らない」


 俺は一気呵成いっきかせいにまくし立てた。今までに幾度も悩んでは思考の迷路を迷走してきたのだ、自らのやせ我慢が引き起こす重篤じゅうとくな人生の疾患しっかんに対してこれまでに思い当たらなかった訳はない。




 人を人たらしめている人格というのは詰まるところ一貫性である。

 一貫性を失った人間は差こそあれ分裂症と言えるかもしれない。一貫性を有することは良いこととされており、「一本筋の通った」や「自分を持った」などの賞賛を受ける。

 この一貫性、一見するとどうでもいいようなつまらない拘りにこそ最も色濃く表れる。

 少なくとも俺はそう考えている。


 そしてたまたま俺の強い拘りのひとつが童貞に関することで、そのことでにっちもさっちもいかなくなっているだけのことなのだ。この痛みはきっと自らを高めている最中の、ちょうど成長期の成長痛のような歓迎すべき類のものであるはずだ。

 そう考えることで誰にも攻められない牙城がじょうを築いてきたのだった。ただその難攻不落を謳った城は、元より誰も攻めようとなどしてはいないという厳然たる事実から帰納法的に成り立っているのだが。




「ご高説どうも」おっさんはぞんざいな拍手とともにそう言った。「たしかに一貫性は重要だけどね、でも君はまたそうやって話をややこしくしてるだけなんだよ」

 やけに優しい口調だったのが気に触った。

「一貫性の根源たるこだわり。その拘りの根源に、君の場合『恐れ』があるように感じられる」


 おっさんはズバリと言った。

「永野君、君は性交を恐れている。嫌悪している」


 俺は黙ったままその言葉を吟味するような振りをした。本当は考えなくても分かっていた。




「恋愛に憧れる余り余裕をなくしてしまった君は恋愛から遠ざけられた。それでも恋愛への憧れを強めた君は恋愛を勘違いしたんだね。愛とは恋とはこうあるべきだ、そんな理想とどこかで聞きかじってきたような甘い話だけで作られた君の恋愛観は次第にひとつの極論を導き出す。セックスフレンドなんてやつの対局になるのかな、君は恋愛と性交を切り離そうとした。性交を汚らしい物として嫌悪することにした。しかしそれでも君も人間だ、生き物だ。どれだけ嫌悪しようとも本能から逃れることはできない。嫌悪すればするほど気になってしかたがない。蔵の中に堅く閉ざして隔離したはずの本能が暴れて扉を破りそうになっている。恋愛があってしかる後きちんと手順を踏んで愛の果実としての性交がありその結果としての童貞喪失でなくてはならない。そうなってほしいと願う反面で性交を嫌悪している。面倒くさいなあ、そんなのじゃいつまでたっても何も変わりゃしないって」




「……どうして、分かるんですか?」


 図星だ、心を透かされたかのように言い当てられた。この考えに至れる自分は特別なのだ、そういった優越感すら覚えた浅見せんけん看破かんぱされたのだった。

 親友のめでたい童貞喪失に口を出す気はないが、少なくとも口に出さない俺の持論はそういうものだった。


「これまでにも見てきたからね、永野君みたいな人を。君ほど考え込むのも稀だけどさ」

 過去の人間と同じてつを踏んでいただけに過ぎない。その先人たちはどうなったのだろうか、幸せになれたのだろうか。返ってくる答えが分かる気がして訊くのはやめておいた。


「ショートカットしてみないかい? 君は性交はしたくない、でも童貞は捨てたい。そして君が女性から遠ざけられる原因となっているのが、その歳で童貞だってとこから出てくる余裕のなさだったり雰囲気なんだとしたら。童貞でなくなれば恋愛するチャンスは広がるはずだよね、問題はつまり『童貞である自分』であって、『童貞でなくなるための唯一のプロセスを嫌悪している』ことが最大の障壁しょうへきとなっているんだよね?」


 言っていることはよく理解できなかったが、とにかく問題はハッキリしているはずだ。それは何度もおっさんに示唆された通りだ。


「はい、たぶん悪いのは俺が、――童貞だから、ですよね。でも待ってください、童貞を捨てるにはつまりはそういうことをしなきゃいけない訳で、俺は好きでもない人とそういうことをする気は……」




「分かってる」

 おっさんは俺の言葉を遮った。


「永野君、もしもだよ。もしも性交を抜きにして童貞を捨てられるとしたら、どうする?」

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