第八章

 ★


 静かに泣き始めた俺を見て、詩衣奈はそっと後ろから指で涙を拭った。

「それからは――私と椎那は中学の因縁を断ち切る為、とにかく勉強した。ご近所とはいえ、難関校。しかも私立。どうせうちの中学からは誰も行かないだろうと思っていたのね。そうしたらこの二人がいた。よりによって」

 二人を詩衣奈は忌々しそうに睨んだ。

 田中良子、彗星絵里。中学卒業前、二人がこの学校を受け、しかも合格していることをだいぶ後になってから俺は知った。

「不登校になってから絵里とは一切絡みは無かった。家に親が乗り込んできた時に、親と悶着があったくらいで……まさか、まだ引き摺っているなんて」

「ち、違うよ! わ、わたしは……勉強……したから……。だから、本当に、椎那君とは関係なくて……今でも、本当に、びっくりしてて……」

「そうなの? じゃあ、べつにこいつを追い掛けてきたわけじゃないの?」

「わたし、学校行ってなかったから。今の事情も初めて聞いた。本当、びっくり……わたし、ずっと……どうしてなんだろうって。思ってて。あれもこれも全部嘘だったのかなって……。全部、わたしの勘違いだったのかなって……。でも聞けて……ほんとによかった……」

「……良子は? 私、椎那からはっきりと別れたって聞いてたんだけど」

 ぽつぽつと紡がれていく絵里の言葉に不穏な空気を感じ取ったのか、詩衣奈は良子に話を振った。良子が相変わらずのぶっきらぼうな口調で答える。

「あたしは納得してない。まだ別れてない」

「そうなの?」

 上から詩衣奈に覗き込まれる。俺は涙を拭いながらも、ぶんぶんと首を振った。

「別れ話はしたよ。『俺もこんな状態だし、迷惑掛けて仕方ないから、今後はもうお互い話さないようにしよう』とか。たしかこんな感じ。中三の夏頃かな? 俺も勉強に集中したかったし、その頃はもうマスク付けてたから、マジで一切口利かなかったはずだけど……泣かれたっけ? ガン無視してマスク付けてたよな? あの頃の俺にはもう人のこと気にする余裕なんて無かったし。うん? てかあれ、付き合ってったっけ? ねーよな? お互い間違い犯した的な雰囲気になってなかったっけ? え?」

 うん。たしかそうだった。良子もそんな感じで納得してるように見えた。

「って、本人は言ってるみたいだけど? 前から聞きたかったんだけど、幼馴染への配慮とかあんたにはないわけ?」

「あたしのこと可愛いって言ってくれた。他にもいっぱい言ってくれた。椎那の言ってることは嘘じゃないでしょ。本音なの。分かんないの?」

「いやだから、それは――思わずっていうか、こいつの場合は特殊でしょう? 事情が。普通は秘めてる言葉なの。それをわかんないあんたじゃないでしょうに」

「椎那があたしたちにやったこと、あたしはもう納得してる。病気なら仕方ないって納得してる。あたしも当時酷いこと言ったし。だからもう許せる」

「……言葉通じてんのかな。昔から思ってたけど」

 詩衣奈が俺にしか聞こえない声で呟く。

「てっきり絵里の方が追い掛けてて、……良子はただ付いていっただけかと思ってたのにな」

「俺もそうだな。てっきり……ただ思い返してみれば、確かに絵里は成績こそ中の下だったけど、勉強には熱心に取り組んでいたんだよなあ。やり方が悪かっただけで。今どきいるんだよな、教科書の太字に全部マーカー引いちゃう要領悪い奴って。あはは。そう考えるとよくやったよな? いやあ、あの頃を知ってる身からするとさあ。いや、なに偉そうに言ってんだ俺っていう。あっ、じゃあこの学校を選んだって、もしかしたら、俺と同じ、自分たちのことを誰も知らない学校へ行きたかったとかそんな理由? 良子がこの学校に来た理由は――まあ薄々感づいていちゃいたけどなー……。改めて聞いても正直どうしていいんだか……うーん。なあ、どう思う? なあ? なあ?」

 ぶつぶつ言い出した俺をみんなが黙って見ている。

 そんな俺を無視し、いくぶん落ち着きを取り戻した良子が、羽伊奈と詩衣奈に向かって尋ねた。

「で? あんた達はなんでここに来たの?」

「この男に、未無生さんとのここでのやりとりは聞いていましたわ。それから、中学であったアレコレも詩衣奈さんから聞かせて頂きました。良子さん。あなたが中学と変わらず未だに学校をサボりがちで、ここに出入りしていることは絵里さんから聞きましたわ」

「ああ、あのペットボトルと菓子袋ってアレ良子のだったのか。なるほどなー……ここに出入りしてたのは上級生じゃなかったんだな。今まで鉢合わせ無かった理由はじゃあ、昼休みじゃなくて授業中に出入りしていたから? 良子、お前大丈夫なのか? こんな序盤から。中学と違って留年だってあるんだぜ?」

「ここ最近のあなたの不穏な行動に、絵里さんは心配されていたみたいでした」

 俺を無視し、羽伊奈が話し出した。

「いや、人がまだ喋ってんのに」

「うららさんがバイト先での椎那さんとのやり取りをあなた達に話した。――相談されたのは事実のようですけれど、この男へ忠告をしてやる、そう言い出したのは、良子さん、あなたからなんですってね? もう一度話す為ための口実でも探していたのでしょうか?」

 良子が羽伊奈を睨む。

「さらに、椎那さんの部屋への不法侵入の件も聞きましたわ」

「は? あんたそんなことされてたの? なんで私に言わないで羽伊奈に言うの!」

 背後から詩衣奈が両手で顔を挟んでくる。ぐい、と強制的に顔を上を向けられた。

「痛い痛い! 首はそんな方向曲がらないから!」

 そんな俺たちを無視し、羽伊奈が続ける。

「その後、停学が解け、久し振りに登校を果たしたこの男が不用意にも、そこの黒板にあからさまに他の女へのメッセージを残していった。ご丁寧に日時と時間まで指定して。

 絵里さんにあなたの行方を尋ねたら、いつもは一緒にお昼を食べるはずなのに、今日は断られてしまったと仰っていましてね。不法侵入の件も聞いていましたし、停学が解けたタイミングということもあって、警戒していたんですの。そしたら案の定。覗いてみたら大変なことになっていて、我慢出来ずに飛び出した、といったところですか?」

「……書かれていたのは知らない女の名前だった。また懲りずに馬鹿やってるって思った。あんたと付き合い出したことも本人から聞いてた。それなのに、書かれていたのはあんたじゃなくて知らない女の名前。深みに嵌る前に止めさせようとした。だけど、あたしが来た時には、そこの馬鹿は、そこの馬鹿に襲われてた。止めようとして飛び出した。それだけ」

 羽伊奈の指摘に、良子は肩を竦めた。言い訳めいた雰囲気は一切ない。

「なに? 良子、お前俺のことずっと付けてたわけ? 止めろよなー。おっかないんだから。ていうかどうせなら声掛けろよー。話すくらいならするし。な?」

「それで? 未無生さん。あなたは何故、許可も得ずにわたくしの彼氏を襲っていたのですか?」

 ……なあ。さっきから。なあ。

「許可取っとけば良いってもんじゃ……。あとみなさん? 俺、さっきからガン無視されてて少し悲しいんですけど」

「あ。椎那さん? もうさっきから本当にうるさくてうるさくて仕方ないからずっとマスク付けてて下さる?」

「彼氏に対する扱いが酷い! あ、ところでみなさん、そろそろ時間まずくない? ね? 授業さぼっちゃメーよ? そこにいる誰かさんみたいに思われちゃうよ?」

「詩衣奈さん」

「はーい。お口チャックしましょうね~」

「もがっ!」

 無理やりマクスを嵌められた。なんだそのコンビネーションは。いつの間にそんな仲良くなってんだ。ちくしょう。……俺の場合、停学明けで目付けられてるだろうし、さっさと戻りたいんだが……当事者だしな。

「……椎那くんが……もう来ないって言うから……」

 井ノ瀬さんは涙混じりにそう呟いた。

 意識が引き戻される。

「はあ。あなたもよくよく女性を泣かせるのが好きですわね。そして、面倒な女によく好かれること。しかしなるほど。そういうわけですか。なんだってこんな事態になってるのかと思っておりましたが、その身体で引き留めようとしたわけですか。見た目に似合わずとんだ変態だこと……けれど、これで分かったでしょう? 椎那さんがどういう人間で、何を抱えていて、それによって周囲の人々が何を強いられてきたのか。

 率直に聞きます。未無生さん、あなたは今のお話を聞いて、それでもなお、椎那さんと今まで通り、これまで通りに付き合っていきたいのですか?」

「…………」

 数秒の沈黙の後、井ノ瀬さんははっきりと頷いた。

 マジか……。言葉が出ないぜ。いや、口にしたくとも出せないんだが。

「正気ですか? あなたとの秘密のやり取りも誰彼構わず言い触らしますわよ、この男は」

「べつにいい」

「そんなに、この男が好きなのですか?」

「好き」

 その言葉は真っ直ぐ俺へと向けられた。瞳と瞳が合う。羞恥に染まった頬。ここに通っていて、今まで見せてくれたことのなかった表情にドキッとする。マスクをしていて良かった。危うく彼女の前で、いらんこと口にするところだった。

 しかし、そうは言われたところで俺には応える術を持っていないのだ。

 物理的にも、信条的な意味でも。

 俺には今、羽伊奈がいる。その羽伊奈が、今度は良子へと向いた。

「良子さん。あなたは?」

「言ったでしょ。まだ付き合ってるって。椎那はまだあたしのもの。あんたなんか知らない」

 そもそもお前のもんになった覚えはないが。最後に絵里へと向いた。

「絵里さん。あなたは? まだ彼のことを根に持っているのですか?」

「わ、わたしは……わかんないよ」

「まだ椎那さんのことを想っていらっしゃる?」

「わかんないよ。そんなの」

「彼があなたとのことをまた今後も一切口にしない、とは限りません。そのことについてはどう思っていらっしゃるのですか?」

「それは……嫌だけど……でも……やっぱりわかんない」

 わかんないって言う場面じゃないだろうに。怒っとけよ。ずっとマスク付けて口閉ざしとけって。自分のされたこと忘れたのか?

 俺の方がわからん。良子も絵里も。井ノ瀬さんも。なんだってみんな、こんなによくしてくれるんだろう。

 羽伊奈もそうだ。一体この女、どうしたいんだ。俺の彼女は。何か考えがあるようなこと言ってたが、ここまで聞いててさっぱり見えてこない。等分に切って分けようとでも言うつもりか? んな馬鹿な。

 羽伊奈と目が合った。思い悩む俺に対して反対に羽伊奈の表情はどこか企みに満ちている。楽しんでいるようさえ見えた。背中に一筋汗が伝ったのが自分でも分かった。

「さて。そこで、みなさんにわたくしから提案があるのです」

 羽伊奈が言う。

「提案?」

 俺以外のみんなが訊き返した。


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