彼女と僕の終末の旅

春クジラ

あの夏のエンドロール

 そこらじゅうから聞こえる蝉の大合唱。道路のいたるところから生えた雑草が、風に揺れている。


 僕はタオルで汗を拭きながら、陽炎が立つアスファルトを睨んだ。日差しが照りつけて、肌をじりじりと焦がす。新しい拠点に着く頃には、パンみたいに僕がこんがり焼けているんじゃないかと思う。社会人になって数年。これほど運動したのは初めてだった。


 背中のリュックサックには、スーパーマーケットから拝借してきた生活用品が、ぎっしり詰まっている。疲労と荷物のせいで足取りは重い。まるで罪人になった気分だ。


 道に迷うのを避けるため最初は高速道路を歩いていたが、それが大失敗だった。高速道路は徒歩移動のために作られた訳ではない。それが何を意味しているのか。気づいたのは、既にしばらく歩いていた時だった。炎天下の中、必死の思いでインターチェンジに辿り着いてからは、一般道路を歩いている。ここでも、車は通らず人もいないのは同じだけれど。


 目の前の少女を除いては。


 彼女は両腕を飛行機のように広げ、縁石の上を歩いている。先ほどから、楽しそうな歌声がずっと聞こえていた。こんな状況なのに随分楽しそうだな。内心呆れていると、進行方向にある信号機に目が釘付けになった。


 標識には旧熊谷市という文字が並んでいる。こんなに歩いて、やっと埼玉県なのか!僕はショックで膝から崩れ落ちそうになった。


「なぁシノ、後どれくらいで着くんだ!?」


 たまらず声を上げれば、歌声がぴたっと止まる。


 彼女──シノが振り返って、僕を見つめた。


 彼女が着ている白いワンピースと、一つに束ねた長い黒髪が風にそよぐ。映画のワンシーンのように美しかった。


「うーん、もうすぐ着くと思うんだけど、ほらあれ!」


 シノは前方を指差した。その手には、こんなに猛暑日なのに薄い白手袋がはめられている。指差す先には、三階建ての四角い建物があった。





「ここ屋上もあるんだよ。一彦さんの言ってた家庭用燃料電池もあるし、良いよね?」


 シノは嬉しそうな顔をしていた。さっきのスーパーマーケットまでは少し歩いたが、今までで一番近い。僕が頷くと、早速玄関のドアを開けて中に入ろうとしたので慌てて制止した。


「待て待て待て! 初めにすることがあるだろう!?」


 シノが怪訝な表情をして見上げてきたので、幼い子供に言い聞かせるように、僕はもう一度説明した。


「いいか? 仮にも亡くなった方の家なんだ。入るときに、お邪魔させて頂きますと、無事に極楽に行きますようにとお祈りする必要があると言っただろう?」


 シノは不満そうに口を尖らせる。


「最初に、家の中確認する時にお邪魔しますって言ったよ」

「お祈りは?」

「してない」


 僕はため息をついた。


「なら、少しの間住まわせて頂くことになるんだから、お祈りもすべきだと僕は思う」


 シノは何か言いたげな顔をしていたが、渋々しゃがむと、掌を合わせた。それを見届けて、僕は表札を確認しに向かう。表札には「榊」とあった。


 本当ならば、涼しい夜に移動するのが一番良いのだが、街灯や建物の灯りもない今、夜の移動は困難だった。そうすると、朝方から昼間にかけて歩くしかない。


 相変わらず、日光が頭や首の後ろをじりじり焦がしていた。表札に両手を合わせて目を瞑り、祈りを捧げる。







 こうして僕らは、誰かの家を転々としながら、僕ら以外の生存者をずっと探している。












 二階に上がると、廊下に白い手袋が落ちていた。シノがいつも手にはめているものだ。辺りを見回すと、子ども部屋にシノがいた。机の前で絵日記を読んでいる。


 シノが何をしているのか、僕は一目で分かった。普段は元気で天真爛漫な彼女だが、唯一この時だけは、海の底にいるような、静かな雰囲気を身に纏うのだ。


 近づいても、シノは僕に気づかない。艶やかな黒髪を指ですくい、耳にかける姿が、まだ十代後半辺りのはずなのに何とも言えぬ色気を放っていた。一見、日記を読んでいるように見えるが、その目は、決して文字を追っているわけではない。睫毛の下の大きな瞳は、文字より奥深くにある、思い出を見ていることを僕は知っている。


 またんだな。僕は白い手袋を部屋のドアノブに引っかけて、再び間取りの確認に戻った。





 朝、起きたら世界から人が消えていた。それはいつ、どの瞬間に消えたのか。そもそも消えたのは、この地域だけなのか、国内だけなのか、世界中なのかすら分からない。



 そんな空っぽになった孤独の世界で、僕は、シノに出会った。



 水が張った桶で顔を洗う。この時間は、日中の暑さが嘘みたいに空気がひんやりしていて気持ちがいい。柔らかな光が差し込んで、思わず目を細める。開いている窓の向こう。遠くの空が淡いオレンジ色に染まり始めていた。


 洗面台の棚にあるのは、持参した卓上カレンダー。ずらりと並ぶバツ印。壁に寄りかかりながら、ぼんやりと見つめる。



 こんな世界になる前。自分の家に住んでいた頃を思い出していた。



 ランドセルを揺らしながら、楽しそうにアパートの前を駆けていく子ども達。バス停で夕日を背にし、手を叩いて笑い合う高校生。夜の駅の改札口で、名残惜しそうに何度も手を振り合うカップル。自分が何もしていなくても、周りの人間は生きていた。いつか自分が死んでも、続いていくと思っていた世界は唐突に終わり、今となっては過去のものでしかない。



 当たり前にあった日常は、永遠ではないのだ。




 あの日も、重い身体を引きずって仕事から帰った後、なんとか身体を動かして風呂に入り、気絶するように眠った。



 次に目覚めた時には、世界が一変していることも知らずに。



 人がいなくなった街を恐る恐る歩いているとき、スーパーマーケットでお菓子を貪り食っていた少女と出会ったのは、それから数日も経たないうちだった。


 少女はシノと名乗り、最初は警戒していたのか、歳を聞いても教えてくれなかったが、顔にあどけなさが残っていたので未成年だろうと思っていた。初めて出会った瞬間。ポテトチップスを口に咥えたまま、驚いたように僕を見つめていた彼女の顔を今でも覚えている。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 今日も日差しが強い。屋上で自分の分の洗濯物を干し終わって一息つく。青空の中に、巨大な入道雲が悠然と浮かんでいた。


 手で傘をつくり、日差しを避けながら辺りを見渡す。道を塞ぐように車が止まり、アパートのベランダには干しっぱなしの洗濯物がぶら下がっていた。目を閉じて耳を澄ましても、やはり僕達以外の人間の存在を感じることはなかった。


 本当に誰もいないんだなぁ。そう思うと胸の奥がチクリと痛んだ。目覚める度に、喪失感が心の奥底で積もっていくのを感じていた。


 夢ではない現実に、僕は生きている。




 







 ふと庭に目線を落とすと、シノが向日葵の前で座り込んでいた。


 庭に出る。黄緑色の茎の上に、花が立派に咲いていた。鮮やかな黄色を纏った向日葵は、まるで太陽に触れたいとばかりに、背筋を真っ直ぐ伸ばしている。昨日来たときには気づかなかったので、恐らく今朝咲いたのだろう。


 近づこうとしたとき、かこん、と何かを蹴った感覚がした。空のペットボトルが芝生に転がっていくのを見て、顔を上げる。向日葵の花びらや葉っぱが濡れていた。

 これでシノが水をあげたのだろう。貴重な水を花にあげるなんて何を考えてるんだ。注意しようと口を開くも、そこから言葉が出ることはなかった。


 僕は目を見開く。



 風が吹いた──



 花びらにある大小さまざまな滴が、風で揺れるたび、日光を反射して輝いていた。まるで自然の宝石のようで、僕はその美しさに見とれてしまった。


 後ろから覗き込めば、彼女は白い紙に色鉛筆で向日葵の絵を描いている。どうやら昨日、子ども部屋で見ていた絵日記のようだった。


「何してるんだ?」

「この家の子の宿題。咲くのすごく楽しみにしてたみたいだったから、代わりにやってるの」


 絵日記から目を離さない彼女を見て、僕はため息をついた。


「思い出はあまり見すぎない方が良いと思うぞ。僕には、自分を痛めつけているようにしか見えない」


 僕の言葉を無視して、彼女は黙々と向日葵の絵を描き続けている。全ての物に対してではないがシノには不思議な力があるようで、素手で物に触れるとその持ち主が使っていたときの様子が、映像となって見えるらしい。





「絵本、読んであげてた時に消えちゃったのかな……」


 ある家に拠点を移した時のこと。二人で間取りを確認している時に、シノが呟いた。ベッドの上に大きな枕と小さな枕。

 ウサギのぬいぐるみと共に、開かれたままの絵本があった。それはまるで、読み聞かせの途中で、ふと用事を思い出し、僅かな時間だけ中断しているような、本人達が今にも帰って来そうなありふれた日常が、そこにあった。


 手袋を外すと、彼女はゆっくり絵本に手を触れた。すると両目から、大粒の涙がぽろぽろと零れ始めたので、僕はティッシュやタオルを用意するのに慌てたのだ。





「この向日葵、姿勢良いよなぁ。こんなに背筋ぴんっとしててさ」


 僕が呟くと彼女の手が止まった。シノはきょとんとした顔で、横にいる僕を見上げる。


「背筋? 手じゃなくて? 」

「手?」

「私には、一生懸命手を伸ばしているように見えるよ。太陽なんてちょっと近づいただけで燃えてなくなっちゃうのにね」


 そう言われて見れば、確かに二輪ある向日葵は地面から生えた両手にも思えた。


 「太陽はとても熱いから触れることは出来ないってことをこの花は知らないし、知ることも永遠にないんだろうなぁ」


 彼女は向日葵を見つめながら、そう呟くと、また黙々と絵を描き始める。僕はしばらく向日葵を見つめていた。自分を世話していた主はいつの間にかいなくなり、僕達もいずれはここを出る。世話する人間なんていないのに、生きることに必死な姿が不思議と眩しく見えた。


 何だか美しいな……。そう思ったら彼女が冷笑した。


「美しい? どこが? どっちかで言ったら哀れじゃない?」


 心で思ってたはずが口に出ていたらしい。


「いや、考えてみろよシノ。まずこれほど見事に咲いているんだ。懸命に生きている証拠だ。一生懸命生きていることは美しいじゃないか」


 そう言うと、彼女は少しの間僕を見つめた。そして、僅かに悲しそうな顔をしたと思えば、黙って家の中に入ってしまった。


 何か気に触ったことを言ってしまったらしい。焦ったけれど、考えても答えは出なかった。




 その日の夜のことだった。




「ねぇ隣で寝ても良い……? 」


 寝室のベッドで寝ていたら、シノの声がした。頭の辺りにある乾電池ランタンを付けて、声がした方へ向ける。シノが薄い掛け布団を頭からすっぽり被って立っていた。隙間から覗く長い髪も相まって、その姿はホラー映画のようで僕はぎょっとした。


 ただでさえこの暗闇である。外には街灯やコンビニのような、人工的な明かりなんて一つもない。誰かの近くにいないと安心して眠れないのだろう。でも、一つ問題がある。僕は成人していても、シノはまだ未成年だ。こちらは大人として、未成年を守らなければならない立場である。


 赤の他人である僕が、彼女の隣で寝ることは許されるのだろうか。そんなことを考えていたら、彼女の様子がいつもと違うことに気づく。彼女の呼吸が荒いように感じたからだ。


「大丈夫か。水飲むか?」


 立ち上がろうとしたら、彼女が首を振る。


「ねぇ、もう一つお願いがあるんだけど……。寝てる間、指掴んでてもいい……?」


 シノが、こんなことを言ってくるのは初めてだった。どうやらかなり精神的に参っているらしい。誰かの体温を感じていないと、この世界で自分しか存在してないような恐怖を、暗闇のせいで一層感じるのだろう。


 いいよと返事をすれば、彼女が恐る恐るベッドに潜り込んでくる。シャンプーの香りがした。僕の手を探し当てた手は幼子のように、僕の小指をきゅっと掴む。震える手が、細く小さかった。


 彼女の体温が小指を通して伝わってくるのを感じながら、シノが落ち着くのを待っていた。荒かった呼吸が静かになるのを見計らって、僕は口を開く。


「なぁシノ。昼間のさ、向日葵の話なんだけど……あの時は申し訳なかったよ」

「何で? どうして? 」

「僕が向日葵のこと、一生懸命で美しいって言ったの覚えてるか? そのとき、悲しそうな顔しただろう? 君のこと、僕は全然知らないから、何でそんな顔をしたのか分からないけど、傷つけてしまったようだったから……ごめん」


 少しの沈黙の後、シノが微かに息を吸う気配がした。


「謝らなくていいよ。だって、真面目に生きてなかった私がいけないんだから」


 シノは続ける。


「新しい家に着くとね。記憶を見に潜るんだけど、みんな生きるのに一生懸命だから苦しいんだ」

「それなのに、何で記憶を見ようとするんだ?」


 苦しくなるのであれば、見なければ良い話なのに。しかし彼女は、自らの意思で「思い出」を見ている。彼女は、うーん、と考え込む声を出す。答えあぐねているようだった。




「これが、私の罪だと思うから。かな」




 不穏な単語に、思わず彼女の方を向く。


「シノ──」

「手、握って」


 彼女の言葉に遮られた。戸惑っていれば、早くと急かされる。


 ゆっくりと彼女の手を放す。手の甲を上から包もうとすると、彼女がふいに指を絡ませてきたので驚いた。小さな掌、細い指先。真っ暗な世界で感じるのは、それと彼女の体温だけ。僕ではない誰かが、ここで生きていることが奇跡にも思えた。


「朝起きたら私だけ生き残ってて、最初はなんてラッキーなんだって思ってたの。でも、違ったんだよね」


 シノは続ける。


「私達はね、運が悪かったんだよ。もし本当に神様がいたとしたら、とことん苦しみながら生きなさいって言ってるんだよ。だからね、私だけでも覚えていなきゃって思うようになったの。ここに、確かに生きてた人がいたんだってことをさ」


 彼女なりに、自分の力をどのように活用するべきか模索しているみたいだ。


「だから、一彦さんに出会った時に安心したの。私一人じゃなかったんだって。だから……ありがとう。私を見つけてくれて」



 しばらく経つと彼女は落ち着いたのか、前から気になってたこと聞いてもいいかと言って来た。


「拠点に入るとき神様にお祈りするけどさ、神様って本当にいるのかな?」


 深く考えないように、目を向けないようにしていたのに彼女が言おうとしてることは何となく分かる気がしていた。


「どうしてそう思うんだ」

「だって、世界がこんな状況になってもまだ救いに現れないんだよ? ちゃんとお祈りしてた人もみんな消えちゃって、人々を救わないで一体なんの為の神様なのって」


 彼女がくすくす笑う声が聞こえた。それは違う……。僕は思った事をゆっくり口にする。


「違うよ、シノ。祈りの本質はきっとそこじゃないんだ。神様ってのはそもそも人の心が作り出したもので、漠然とした恐怖や不安を受け止めてくれる拠り所なんだよ。例えば病気や災害、死とか未来とかね」



 だから僕らは祈るんだ。僕はゆっくりと目を閉じた。






 茹だるような暑さで目が覚める。顔を上げると、カーテンから朝日が差し込んでいた。彼女は、いつの間にかベッドの端にいた。


「シノ、起きろ」


 近寄って顔を覗き込む。寝ている彼女は美しかった。声をかけても、シノは起きない。僕は違和感に気づいた。




 彼女の呼吸が、聞こえない。




 身体が強ばり、鼓動が一気に速くなる。だって、昨日まで元気だったじゃないか。


 何で起きないんだよ。


 脈を図るため、彼女の首筋に手を伸ばす。


 君がいなくなったら、僕は……。


 指先を、彼女の白い首筋に添わせる。その瞬間。


「くすぐったい!」

「うわぁ!?」


 彼女が飛び起きた。僕は驚いてのけ反る。


「なに!? 聞こえてるってば。ていうか寝顔見ないでよ……」


 シノが恥ずかしそうに、両腕で顔を隠す。心臓がまだバクバクしているのを感じながら、僕は言う。


「起きてるなら、返事しろよ。てっきり」


 死んだかと思った──


 喉元までせり上がった言葉を、飲み込んだ。


「何でもない。朝ご飯作ってるから、ゆっくりしてて良いぞ」


 立ち上がった僕は、寝室から逃げるようにキッチンへ向かった。




 この時、僕は安堵と同時に思い知っていた。僕は、彼女のことなんて言えない。誰かが側にいることが、どれほど自分に精神的に安心を与えているのか。今は平気な振りをしているが、もし、一人になったらどうなってしまうか分からない恐怖を感じた。


 それより僕は彼女の命よりも、自分が孤独にならなかった事実に、ホッとしていたのだ。


 それが自分がいかに白状な人間であるか、この一瞬に思い知らされた気がして、僕は、自分がひどく嫌になった。






 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「シノ、そろそろ行くぞ」


 灰色の空の下。リュックサックを背負い、庭にいるシノに声をかけた。玄関の扉を閉めて、お世話になりました。と深く頭を下げる。


 返事が返って来ないと思ったら、彼女は向日葵をじっと見つめていた。風が彼女の長い髪を広げる。今日は一つに縛っていなかった。


「バイバイ。大切な思い出見せてくれてありがとう」


 彼女はそう言うと、持っていた絵日記を向日葵の前に立て掛ける。うっすら目と鼻の頭が赤かった。


「鼻かめよ。またしばらく歩くんだから」

「泣いてない!」


 彼女の強がりに、ティッシュを差し出しながら僕は笑った。





 庭に向日葵があった家を拠点にしていたとき。シノと心の距離が縮まったあの夜から、僕らは新しい拠点に移っても、夜は一緒に寝るようになった。他愛もない話をした。故郷や家族の話。僕は学生時代の話をした。シノは高校生だったが、学校の話を聞こうとしたら、はぐらかされた。たぶん、あまり言いたくないのだろう。



「ねぇ、行きたいところあるんだけど」


 新しい拠点を探して歩いているとき、シノが声を上げた。


「海に行きたい」


 僕は立ち止まって、後ろにいるシノを振り返った。


「海なんて。何で今さら」

「やっぱ今のうちに行っておきたいなって」


 海に人がいるもんか。僕は再び歩き出す。


「僕は反対。少しでも人がいる可能性がある場所を探した方が良いと思う」

「えぇ~行こうよ行きたい海」


 後ろで駄々をこね始めるシノ。


「何でそんなに行きたいんだよ」

「私、海って行ったことないんだ」

「へぇ」

「毎年毎年、今年こそ今年こそって思ってたんだけど、結局行けずじまいだったの」


「今年こそって思ってたら、こんな世界になっちゃったし。やっぱ思いついた時に行動しないと駄目だなって」

「何も今すぐに行かなくても良いんじゃないか?」

「そんなゆっくりしてたら私、お婆ちゃんになっちゃうよ!」


 シノが大声で泣きわめく真似をする。十代の君より、年齢的に歳上の僕が先に死ぬんだが。


「分かった! 分かったから!」


 そう言うと、僕はリュックサックから地図を取り出した。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 空っぽの世界で迎えた、何度目かの夜。肌寒い空気を感じながら、僕達は十五畳くらいある座敷に、布団を並べて仰向けになって寝ていた。いつものように他愛のない話をして、自然と会話が途切れる。


 そのとき、シノがふと呟いたのだ。


「私達、このままずっと二人っきりなのかな」


 僕は思わずシノを見た。声が少し震えていたからだ。


 歩いても歩いても、生存者を見つけることは出来なかった。暗闇の中、感じるのは互いの息づかいと体温のみ。僕は繋いでいた手を、優しく握る。


「絶対、どこかに生き残っている人がいるはずだ」

「ねぇ、人を探すよりさ。絶対に人間が増やせる方法あるじゃん」

「何言って──」


 言うないなやシノが突然、僕の掛け布団を剥いだ。温まっていた首筋が冷たい空気に晒され、僕は身震いする。彼女は剥いだ掛け布団を背負うと、僕の上に馬乗りになる。彼女の柔らかなお尻と太腿が腰辺りにあるのを感じた。そこで彼女は静止する。


 恐らく、僕達は今、見つめ合っている状態だ。暗闇なので彼女の表情が読めない。それ故、余計シノが何を考えているのかさっぱり分からなかった。彼女の意図を考えていると、そのまま彼女が倒れ込んできた。


「ぐえっ」


 のし掛かかられて、思わず声が出る。彼女の頬が、耳が、体温が、寝間着の布越しに、僕の胸に当てられる。


 彼女がぽつりと言った。


「一彦さんって私とずっと一緒にいても手、出してこないよね」


 一瞬思考が止まる。


「何言ってんだ!?」


 驚いた。彼女の口からそんな言葉が出るなんて。


「そんなに魅力ない? 私」

「そんなこと……」


 言葉が出なかった。目が泳ぐ。確かに彼女は目鼻立ちも整っているし、身体も華奢で可愛らしい。華奢過ぎるほどに……。あれ……? そこで、原因不明の違和感を感じた。僕が思考を巡らせる前に、シノが続ける。


「ねぇ私、子ども産めるよ?」

「何言ってるんだシノ」


 僕は、今度は怒ったように語調を強めた。ここ最近、彼女が些細なことで爆笑していたかと思えば、急に泣き出したり情緒の不安定さを感じていた。毎日無理しない程度に運動しているし、食事も何とかバランスが取れるようにやりくりしているつもりだ。何が、彼女を狂わせているのだろうか。


「一人ってね、凄く寂しいんだよ……」


 泣きそうな声に胸の奥が痛んだ。


「分かった。約束しよう」


 僕がそう言うと、シノが息を飲む気配がした。


「じゃあさ」

「僕は、君より先に死なないようにする」


 そう言うと、シノは呆れたように笑った。


「何それ」

「それに僕は、取り残された時点で罰を受けてると思ってるよ」


 僕は続ける。


「安心してくれシノ。罪を背負うのは僕だけで十分だ。だから、こんな世界に新しい人間は生まれて来なくていいんだよ」

「一彦さんは、優しいね」


 シノは声を震わせながら、僕の上から降りた。


「猫ってさ。自分の死期が近いと飼い主の前からいなくなるって言う話あるじゃん」

「いきなり何の話だよ」

「それって、自分の飼い主のことを思っていなくなるのかなぁって。飼い主が、死んだ自分を見て悲しまないで済むようにさ」


 シノの声が、か細く聞こえる。


「でも、遠くまで歩く力がない猫は、きっと飼い主の前で死ぬしかないんだよね。死に顔晒してさ」


 彼女が何を言いたいのか、僕には分からなかった。


 そして、僕らは再び手を繋ぎながら眠りに落ちたのだ。





 翌朝、目が覚める。布団の中で繋いでいた左手が氷のように冷たかった。


 僕は全てを悟る。








 シノが、眠った姿で死んでいた。



 意外にも涙は出なかった。まだ心が追いついていないようだ。僕は、固くなった彼女の手を何とか外す。


 両足を伸ばして障子に背中を預けながら、僕はぼんやりと彼女を見つめていた。今にも首筋に手を這わせれば、彼女が飛び起きそうだなと、そんなことを考えていた。



 座敷を見回すと壁際にある、彼女が背負っていた赤いリュックサックが目に入った。


 リュックサックのジッパーを開ける。プライバシーの侵害になるといけないから、中身を見るのは、これが初めてだった。


 着替えとヘアゴム。洗顔料と折り畳みの櫛。特に変わったものはなかった。


「何だこれ……」


 取り出したのは、小さなプラスチックの箱。外に「薬」と書かれていた。中身は空だった。最後に出てきたのは、手に収まる程のノートだった。中身を開くと、そこには彼女の心の叫びが書かれていた。誰もいなくなった世界に、取り残された時に書き始めたのだろう。


 箇条書きで書かれた目標のようなものがある。達成したのか、いくつか消されている。お菓子をたくさん食べること。思いっきり走ること。


 そこに記されているのは、簡単なものばかりだった。次のページを開く。


 誰かと手を繋ぐこと。


 という文字を見た瞬間。涙が溢れた。閉ざしていた記憶がフラッシュバックする。シノの肌は思えば病的なまでに白かった。華奢なのは、今まで病室にいたから。学校のことを聞いても、はぐらかされたのは、ほとんど行っていなかったからだろう。


 きっと彼女には、初めから時間なんてなかったんだ。


 この世界になって、初めて彼女は自由になれたのだろう。僕らの旅は、彼女にとって人生のエンドロールだったのだ。


 一つだけ消されていない文字があった。





 海に行って死ぬこと。






 持ち上げるため、僕は彼女の身体を起こした。でも細い身体はすでに固くて、このまま海へ連れて行くことは困難だった。


 僕は彼女を再び布団に寝かせると、目を閉じて、ゆっくり手を合わせる。


 ごめん、シノ。君の身体を海に連れていけなくて。その代わりに、君の大事な髪を連れて行かせて下さい。


 どうか、どうか、シノが無事に極楽に行けますように。


 初めて触る彼女の髪。緊張したけれど、何とかハサミで切ることが出来た。それを、

 台所にあったラップが入っていた箱に入れる。



 玄関を出ると、吹いてきた風が冷たかった。僕は家に向かって深々と頭を下げる。


 僕は、再び歩き始める。コートのポケットに手を突っ込む。鮮やかだった世界は灰色になっていた。


 あれほど煩かった、蝉の声は聞こえない。


 彼女の楽しそうな姿は、もうここにはない。


 一人、落ち葉が舞う道を歩く。


 吹いてきた風を、深く、深く、吸い込む。


 潮風の匂いがした。

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