#9 些細な陰口
透明でなんの変哲もない金魚鉢を眺めている。
一本の簡素な水草の周りを一匹の金魚がフワフワと泳いでいる。
私は寝る前にこの子を眺めるのがあの日以来の日課になっている。
英次クンが取ってくれた夏祭りでの金魚。
そして、初めてキスした夜・・・
あの時の事を思い出すと顔が火照るのを感じて、両手で顔を覆う。
暫くして、指を開いた隙間からまた金魚を眺める。
英次クンと付き合いだしてから毎日がキラキラと輝いている。
それまでが決して楽しくなかった訳ではないが、なんの変化もない日常だった。
お互いの家で過ごしたり、ちょっとお出かけしてカフェに行ったりと特別な事はしていないけど、英次クンと一緒にいるだけで景色が違って見える。
そして、初めてのキス・・・
正直、あの時は緊張していてキスの味なんて覚えてないけど、凄くドキドキして、凄く幸せな気持ちになった事は鮮明に覚えている。
はぁ~、私はこの夏の事を一生忘れないだろうなぁ。
でも、時間とは無常にも過ぎていくもので、夏休みも終わり明日から新学期が始まる。
楽しかった夏休みが終わる。
でも、二学期も英次クンと一緒に美化委員をやる予定だし、放課後や休日も一緒に過ごせるし、悲観する事はない。
夏休みの課題をカバンに入れて明日の用意を終えた私はベッドに横になった。
「おやすみ、キンちゃん・・・」
金魚におやすみの挨拶をする。
金魚だから『キンちゃん』。
我ながら安直な名前だと思うけど、縁日の金魚は長生きしない。
だから、これぐらいが丁度良いと思った。
二学期の初日は始業式と長めのHRだけで終わった。
HRも終わり帰ろうとした時、後ろから声を掛けられた。
「暁美。ちょっといい?」
それは
楓ちゃんは一年生の頃からクラスが一緒で他の人たちより仲が良い。
地味で大人しい私と違って、楓ちゃんは明るくて活発なスポーツ少女だ。
彼女はバスケの部活で忙しいから学校以外で遊んだ事は無いけど、よくメッセージのやりとりをしたりする。
「どうしたの?」
「うん・・・ 率直に訊くけど、暁美って黒若君と付き合ってるんでいいんだよね?」
なにか変な言い回しが気になる。
楓ちゃんには英次クンと付き合っている事は付き合いだしてから暫くしてから伝えている。
「実は・・・ 暁美と黒若君がデートしてる所を他のクラスの子が見かけたらしいの。それで、ちょっとした噂になっているのよ・・・」
「そうなんだ・・・」
正直な話、あまりみんなに知られたくなかった。
後ろめたい事をしている訳じゃないから隠す必要はないけど、不必要に知られたくもないと思った。
単純に目立ちたくないし・・・
この手の話題は女の子だけとは言わず、誰でも興味があるから、すぐに首を突っ込みたがる。
でも、何故か楓ちゃんは私よりも深刻そうな表情を浮かべている。
何がそんなに気になるのだろう・・・か?
「あるともないとも言い切れないけど、ちょっと気をつけてね。黒若君って一部の女子に人気あるでしょ? それで暁美に対して妬み嫉みで嫌がらせがあるかもしれない・・・」
「ありがとう。楓ちゃんは優しいね。私全然そんな事考えてなかった・・・ ハハハ」
「もうッ! まぁ、私が心配しすぎなだけかもしれないからね。言っておいてなんだけど、あんまり気にしても仕方ないから」
「うん、ありがとうね」
楓ちゃんの心配も分かるけど、このクラスは比較的みんな仲良しでそんな事は無いと思う。
他のクラスの事までは分からないけど、クラスが違えばそこまでの実害はないと思う。
この時の私はそのような能天気な事を考えていたが、それが大きな間違いである事をすぐに思い知らされる。
それはとある日の授業の合間。
次の授業は移動教室の為、勉強道具を持って移動しなければならない。
私が教室を出て、廊下を歩いているとクラスの女の子と肩がぶつかった。
その際タブレットなどを落としてしまい、拾おうと腰を屈めた。
その女の子もごめん、ごめん、と言って、一緒に荷物を拾おうとしてくれた。
大した量はなかったので一人で全て拾いあげて、立ち上がろうとした時、
「―――地味子の分際で・・・」
その女の子は去り際に私の耳元で私にだけ聞こえる声でハッキリとそう言った。
私は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。
その声音は恐ろしく冷たく、まるで凍てついた氷の棘が私の心臓に刺さったように感じた。
私は暫く震えて立ち上がる事が出来なかった。
地味子って私の事だよね・・・?
そんな事分かりきっている。
あの子は私の耳元で私にだけ聞こえる声で確かにそう言ったのだ。
それに私は自他共に認めるぐらい地味だ。
そんな事分かりきっている。
―――地味子の分際で
その言葉には明らかに蔑みの意味が込められている。
なんであの子が私にあんな事を・・・?
その疑問が頭に浮かんだと同時ぐらいに、楓ちゃんの言葉が蘇った。
―――暁美に対して妬み嫉みで嫌がらせがあるかもしれない
私が英次クンと付き合いだしたから?
分からない。今の混乱した頭じゃとてもじゃないけど、上手く整理出来ない。
私はとりあえず立ち上がり、次の教室へ移動した。
その後の授業はずっと上の空だった。
授業内容などまったく頭に入ってこない。
私の頭の中を占めているのはあの言葉だけ・・・
―――地味子の分際で
何度も頭の中を駆け巡る。
段々と私の心を悲しい気持ちが支配していった。
そんな状態のまま英次クンと一緒にお昼ご飯を食べる。
英次クンは終始元気のない私を気にかけてくれている。
あぁ、英次クンは優しいなぁ、彼にこの事を相談すれば・・・
いや・・・ 英次クンと付き合いってるからって決まった訳じゃないし、余計な心配は掛けたくない・・・
それにもし英次クンも・・・
私の中に大きな不安が広がっていくのを感じた。
もし英次クンも私の事を地味だと思ってて、それが嫌だったら?
英次クンがそんな事思うはずかない、思うはずがないッ!と必死に自分に言い聞かせても、一度脳裏に浮かんだその不安を完全に拭い去る事は出来なかった。
その後も心ここにあらずの状態で一日が過ぎていった。
英次クンの前ではなるべく明るく、普通のように努めた。
家に帰っても嫌な考えが頭の片隅から消えなかった。
けど、唯一キンちゃんを眺めていると心が落ち着いた。
あの日の夏祭りでの出来事は嘘ではないと、この悪い考えは全て私の勘違いなんだと思えた。
しかし、別の日にまたあの女の子と廊下ですれ違った。
私の行く手を阻むように立ちすくしたその子にまた何か言われるのではないかと身を固めた。
しかし、その子は正面からは何も言わず、私の横を通り過ぎようとした時・・・
「あんたじゃ、黒若君とは釣り合わないのよ・・・」
また、私の耳元で私にだけ聞こえる声でハッキリとそう言った。
私は怖くてとても言い返す事なんて出来なかった。
仮に勇気があっても、とぼけられるのが関の山だ。
私の心は黒い絶望色に染まっていった。
その日、私は英次クンと一緒に下校して、駅から一人で家路に着くまでに色々考えた。
私はこんなにも心が弱いと初めて知った。
他人からの悪意に免疫がなく、こんな些細な悪口でこれほどまでに心を乱されるとは思わなかった。
そして、何よりも恐ろしいのは英次クンも本当は同じ事を思っているんじゃないかと、不安に駆られ、彼を信じ切れない事だ。
本当は地味な私の事なんて好きじゃないんだ、いや、そんな事ないッ! あの夏祭りの事を忘れたの?
自問自答の堂々巡り。
こんな醜く弱い私を見られたくない。知られたくない。
どうしようもなく不安で押し潰されそう・・・
気がつけば私は家の玄関先に辿り着いていた。
「暁美、今帰り? 私も今帰ってき、たと・・・」
「お姉、ちゃん・・・?」
丁度帰宅した聡美お姉ちゃんと鉢合わせた。
「暁美・・・ アンタなんて顔して、 ―――ッ、来なさい!」
私はお姉ちゃんに引きずられる様にして家の中に入っていった。
この時、私は一体どんな顔をしていたのだろう・・・か
εεεあとがきεεε
前回との話の落差に書いててツライ。
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