第8話 レナ島での暮らし➁

 小舟を持ってくると言ったクレアはセリーナを岸で待たせ、三人でどこかへ行ってしまった。


 一人になったセリーナは座ってチャプチャプと音を立たせる波を見つめる。改めて海の全貌を見渡すと、とても澄んだ海で、下を見れば小魚が泳いでいる姿を確認できて、フリージア王国の海とは段違いだった。遠目から見ると綺麗な海でも、近くで見るとそうでもないとその時は思っていたので、こんな海もあるのだと感心する。


 ピィーとホイッスルのなる音がした。誰かがならしているのだろう。そういえばクレア以外の二人も、彼女と似た黒色のホイッスルをしていたなと思い出す。あれはなんのためにあるのだろうか。


 物思いにふけっていると、キュイと生き物らしい鳴き声がした。すぐ近くだ。


 セリーナは立ち上がってその鳴き声の主を捜す。離れた場所から黒い背ビレが海面から突き上がっているのが見て取れた。


「サメ?」


  一番早く思いついたのは、あの人間をも食する海の生物だ。でも、こんな近くにいるものなのだろうかと疑問にもなる。いるにはいるんだろうが。

 

 考えているうちに、その物体は岸に近づいてくる。


「うわああ!」


 突然その生き物が深く潜り尾ビレが出てきたと思ったら、勢いよく水をかけられて尻餅をつく。頭から直に海水をかぶり、唖然とした。


「な、ななななに⁉」


 慌てて水面をのぞき込むと、今度は頭が浮きあがってくる。その正体は———


「シャチ?」


 実物を見たことはないが、本でなら見たことがある。

 シャチは胸ビレをパタパタさせて岸周辺を泳いでいる。その優雅さにセリーナは腰を抜かした。


「サプライズせいこーう!」


 小舟を漕いできたクレアは満面の笑みで登場してきた。イアバルは小さく手を合わせて口パクで「ごめん」と言っている。これはクレアの独断専行のサプライズらしい。


 シャチは小舟まで行くと、ビューと鳴いてクレアに撫でてもらっている。こんなにも人慣れしているシャチを見るのは初めてだ。


「島民のほとんどはオルカと友だちなんだ。時には漁を手伝ってもらったり、オルカには餌となる魚をあげたりして、関係を構築しているんだ」

「オルカってシャチのことだよね?」


 イアバルに手を引かれて小舟に乗ったセリーナは訊ねる。


「うん、シャチのことだよ。ここにいる人たちはオルカの方が馴染みが強いからそう呼んでるけど」


 そう言われてセリーナもこの島民に倣ってオルカと呼ぶようにしようと心に決める。


 沖合に出ると、数頭のオルカが群れをなして小舟についてきている。数頭のオルカがいるみたいだが、三人にはそれぞれ相棒のような存在のオルカがいるようで、それぞれホイッスルや手でサインを送ってコミュニケーションを取っている。先程のホイッスルの音は、やはり彼らが胸に下げているものだったのだ。


「俺、先に潜るから」


 キースはそれだけ言うと、銛を持ってさっさと海へ飛び込んでしまう。


「了解。ぼくらは小島にいるから、後で合流しろよ!」


 イアバルに声をかけられたキースは銛を振って応答してから姿を消してしまう。


「あたしたちは沖合じゃなくて、浜辺で泳ぎの訓練ね」


 小島を指さされて、セリーナはつばを飲み込んだ。泳ぐのはかなり抵抗はあるが、彼女らの好意を無駄にはできないし、なにより泳げるようになりたい。


 不安をかき消すために櫂を受け取り、無心に漕いでいく。

 ふいにカツカツカツという音が耳を拾って、漕ぐ手を止めた。


「この音……」


 どこかで聞いた音だ。


「オルカたちが発している音だよ。イルカも似たような音を発するけどね」


 クレアに言われてはっとする。この音は自分が溺れ死ぬ寸前に聞いた音だ。

 セリーナはあの時、泳ぐ大きな生き物に掴まって九死に一生を得えて、今こうしているのだ。


「わたしはあの時、オルカに助けられた————?」


 セリーナがつぶやくと、クレアはうーんと唸ってから口を開いた。


「おそらくね。でも、うちのオルカたちは定住型だから助けたのは回遊型のオルカだと思うよ。一度、島近隣に傷ついた群れが近づいて助けたことがあったから、たぶんその集団が助けて運んでくれたんじゃないかな」


 そんなことがあるのだろうか。


「いつものテレパシーか。クレアはどのオルカたちとも仲が良い、というかそれが唯一の取り柄だもんな」

「茶化さないでよお、人が真面目に話してるのに」


 言い合う二人を余所に、セリーナは複雑な心境だった。


「どうして……」


 セリーナは彼女たちとは異なり、友好関係を築いていない。それなのに、助けてもらえる理由がない。


「オルカは頭が良い生き物なの。人に助けられた恩を忘れてなくて、その恩を返したんだよ、きっと」

「なら!わたし以外に乗船してた人たちも助けていたんじゃ!」


 小舟が荒々しく揺れる。

 彼女たちを責めるのは間違っていると頭では理解しているはずなのに、問うことをやめられなかった。困惑するのはもっともなのに。


 しばらくの間、潮の音だけが世界を覆っていた。


「……たまたまなんじゃないか」


 凜としたイアバルの声が激しく心を打つ。


「何事においても完全無欠なんてものはないのと同じで、セリーナも生きるか死ぬか分かれた潮流で、たまたま永らえる進路へと流された。ただそれだけなんだよ」


 セリーナはきつく下唇をかみしめる。


 そう、偶然こうして立っていられているのだ。もしかしたら、こうして流れ着いた先でひどい仕打ちを受けていた可能性だってある。こうしてやさしくしてもらえるだけ、自分がどれだけの幸運に恵まれているのかなんて、とうに理解しなければならない事柄であるかも承知している。だがセリーナは目を背けている部分がある。


「まあこうしてぼくたちと出会えたんだ。なにを悩んでいるのかはあずかり知らないけど、急いでいるわけでもなさそうだし、まずは羽目を延ばして、ゆっくり考えて自分と向き合えば良いんじゃないかな。もし抱えきれないんだったら、ぼくたちも一緒になって考えるしさ」

「イアバルの言うとおりだよ!あたしたちも協力する!」


 二人の温かさに、セリーナは一粒の涙を流す。こんなふうに誰かに想ってもらえるなんて久しぶりで、一度流れた涙は堰を切ったようにして流はじめる。


「海岸に着いたよ」


 セリーナはこれから、レナ島での生き方を学ぶのだ。

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