第5話 二十パーセントの余裕


Hair dressingヘアドレッシグ Lifeライフ


 この店のお代は娯楽の提供。時に客が望まない娯楽を提供させられる事もある。 


「オーナー。金魚の餌、俺買って来る?」


「駄目だ。金魚は環境に慣れないうちに餌をあたえると死ぬらしい」


「じゃあ、エモトが『餌を与えないで下さい』って書いて金魚鉢に貼っといてやれよ」


「分かった。書こう…」


「おでも入れとけば良いんじゃない?」


「「オーナー……」」


 鉢の中のぷっくりした紅色べにいろの金魚は、何か訴えるようパクパク口を動かす。小柄なユナは金魚がいたく気に入ったらしく鼻を擦り付けんばかりに覗き込んでいる。揺らぐ四つ尾は蝶のようで愛らしいのだが、如何にせよ彼は人間の筈だ。


「は〜い♡ 出来ましたぁ~」


 セキの明るい声で正樹が巻いていたカットクロスがバサリと外された。元々のくせ毛をいかしたダンディな出来栄えに、ニヤリと親指を立てるゲンスケとエモト。


「あら、相変わらずセンス良いわね。セキ」


「素材が良いのよぅ~♡」


「そうね。あなたもいい顔しているわ。正樹さん」


 名乗ってもいない名前を呼ばれても今更驚きはしないが、真っ赤に染まる顔はどうコントロールしようとも収まりそうもない。

 正樹の様子に、すっかりサマになったウインクをするセキは金魚鉢を指差した。


「やるんでしょう? 手伝う?」

 

 セキに、ニッコリと微笑むオーナー。後は圧倒するスピードだった。ポンと擬音が聞こえるようにホスト男が椅子に現れる。パクパクと必死で酸素を吸っている様子から本人は戻った事に気づいていない。


「ユナ、D-6Aと、D-6BB用意して。ゲンスケ、エモト、責任とって手伝いなさいな。セキ、終電に間に合わせるわよ!」


 オーナーはその場で着ていた和服の帯を解くと、赤いナンテンとメジロ柄のつむぎそでをぬいた。つむぎとはいえそれなりに重さのある着物がふわりと空気をはらみ、ゆっくりとセキの腕に収まる。


 こんな格好じゃ仕事できないわ! と躊躇ちゅうちょなく肌襦袢はだじゅばんまで床に落とそうとする勢いに、セキとユナが慌ててオーナーの前で両手を広げた。全部脱いだら消えるから御心配なく…と言うオーナーに、セキがそういう問題じゃないの! と珍しく声を荒げた。

 白いブラウスを肘まで折り曲げたいつもの姿で現れてもやっぱりなまめかしさは変わらない。本人は上機嫌でやるぞ~と、茶髪に馴れた手付きで黒い染め剤を塗布していく。


「地肌二センチあけて…。まったく、髪こんなに傷ませて…」


「でも、オーナーの腕の見せ所ねぇ。たぶん他の店だと一ヶ月で茶髪に逆戻りでしょ。中間と毛先もこんなにグラデーション付いてるし。あたし達が敬愛するオーナーが調髪するんだもの♡ この坊やは幸せよ~」


「ふ~ん。セキ、あなた私に隠し事でもあるの?」


「……」


「まあ、良いわ! さっさとやっちゃいましょう。…君もねー。努力する人は好きよ。立派だと思うし、君のナンバーワンになりたい精神はあっれだと思うわ! 同じ接客業って意味で言わせてもらえば、私は一人でも多くのお客より、来店したお客が一日でも長く続く幸福を願う。雨が降れば晴れた日の木漏れ日は最高に美しいわ。君は、今の時間しかお客を見ていないのではなくて?」


 オーナーの言葉と動きは、洗練されたように優雅だ。


「君に必要なもの教えてあげましょうか? 二十パーセントの余裕って分かる? 自分自身に二十パーセントの余裕をもたせるの。そうするとね、自然と上級者よろしく美しくお店に溶け込める筈だわ! 後は、どうせ仕事するならうんと楽しむ事ね!」


 ハイ!おしまい! とオーナーが言うと、クロスがバサリと店の天井に舞う。落ちる速度は重力を無視し殊更ことさらゆっくりと波うち、あたり一面に爽やかな香りが立ち込めた。

 出来上がった男は、もはやホストには見えない。ラグジュアリーの空間こそが似合うであろう青年は、相変わらず口をパクパクさせながら目にいっぱいの涙を浮かべていた。


 

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