第2話 その勲章、隠す必要なし

 立春が過ぎたのに、春が近づいてきたとは到底思えない冷たい空気に首をすぼめ、正樹まさきが職場を出たのは七時すぎ。

 寒さで足早になりながら、最寄り駅のそばにある民謡居酒屋みんよういざかや暖簾のれんをくぐった。


「いらっしゃい。カウンター空いてますよ」


 騒がしい店内。いつもの定位置に座ると、熱いおしぼりと冷えたビールが置かれた。


「月曜から残業、お疲れ様です」


 顔馴染みの板さんがカウンター越しから、瓶ビールを傾ける。正樹は、グラスを差し出し笑った。


「一人もんの俺くらいしか、月曜から残業できないからね」


 聞こえの良い役職を手に入れたからと言って、私生活が満たされる訳でもなく、居酒屋で食事をとる毎日。


「今日はいるな…。あちらのお二人さん」


 正樹は話題を変えようと、この店でたまに見かける二人に目を向けた。店の雰囲気に馴染んだ和服姿。正樹の視線に気づいた着流し和服の男が愛想良く頭を下げて、女の耳に何かささやく。女が正樹に目を向けた。にっこり微笑んだ色白の美人に心臓が飛び跳ねる。

 年甲斐としがいもなく顔が赤らむが、目をそらすのだけはなんとかまぬがれた。

 彼女が隣の空いていた椅子を引くと、心得こころえたように板さんが、正樹のグラスを移動する。

民謡居酒屋の良い所は、互いに知らない者同士でも好きな民謡話みんようばなしに会話がはずむ。だが正樹は懐かしさを感じながら飲むスタイル。そんな経験初めての事でドギマギしながら彼女の横に座ると、ふわりと爽やかな香りが鼻孔びこうを優しく刺激した。

 緊張と照れを隠すため正樹がビールを仰ぐとグラスを持つその手を見て躊躇ちゅうちょなく彼女が尋ねた。


「その手は、火傷やけどのあと?」


「えっ、あぁそう。見苦しいでしょう。地元で若い頃、神事として手筒花火をげていまして。二十歳はたちぐらいの時、横で放揚ほうようしてた奴のハネをもろに浴びてしまったんですよ」


「ほうよう? ハネ?」


「えーと、手筒見た事あります? 手筒花火を揚げる事を放揚ほうようと言って…。 げ手が花火のつつを両手で脇に抱えて、十メートル位の大きな火柱の花火を噴出させ、最後にドーン!っていう轟音とともに筒底が抜ける反動で筒が跳ね上がる時のアレをハネって言うんだけど」


「そう! 神前放揚しんぜんほうようね。実際には見た事無いわ。セキ、あなた見た事ある?」


 セキと呼ばれた男は、男でありながらたおやかに首を振った。まるで舞でも踊るかのように首にかかる髪を払う仕草は手弱女たおやめだ。

 対して彼女には、混じりけの無いつややかな色香が正樹の目を釘付けにする。

 何より、真っ直ぐ見つめる彼女の目は優しく、揺らがない黒い瞳は不思議と正樹の負担にならなかった。


「じゃあ、その火傷は勲章くんしょうなのよね。なぜ、隠そうとしているの?」


 えっ!! 緊張をときかけていた身体がビクリとし、無意識に火傷を隠す。 

 もう、十年以上前の傷。痛みはもう無い。それでも人目にさらすのを恥じている事を見透かされ驚いた。不快な顔も、同情した顔も、うんざりする程見せられて来たから…。


放揚ほうようでの火傷は小心者しょうしんもの呼ばわりされる事はあるけど、勲章くんしょうだと豪語する奴はいないから…」


「どうして? だって、神様に捧げた火を浴びてついたものでしょ? しかも与えられた炎よね。勲章じゃない!」 


 当然と言わんばかりにニッコリと笑う美人顔は、反論出来ない強い意志と十年分の重りすべてを包み込んで溶かしてしまうような優しさ。


「消防士が人を助ける為に負った傷を隠すかしら? ハンターが鹿を狩る時に突き刺された傷は? ふふ、暖炉の上に鹿の角を飾って刺された怪我をみせつけるのが定番でしょう?」


 彼女の隣に座るセキは、色っぽく長い指を口にあてクスクスと笑う。


 ゴ――――

 …手筒花火てづつはなびの点火直後の音を思い出す。

身体に染み付いた煙の臭い。筒を立ち上げ、吹き出す花火が雨のように全身に降り注ぎ、火の粉の熱に耐え、筒底が抜ける爆音を腹の底に響かせた時の高揚感。仲間との放揚ほうようは正樹の生き甲斐だった。ハネが大きければ筒を返す時に力がいる。あれは事故にすぎない。それでもモヤつく負の感情から逃げるよう地元を離れた。それなのにすっかり忘れていたはずの高揚感が再び正樹の頭と身体を支配する。


 その時、ちょうど店員が客からのリクエストでマイクを持った。小粋な太鼓と、三味線の伴奏が響く。

 月が出た出た、月が出たの歌詞で有名な炭坑節たんこうぶしだ。

福岡県の民謡。もともとは三井田川炭鉱の女性労働者が歌っていたとされているもの。


 ハッ!! 伴奏の掛け声で店員の歌声が店中に響いた……はずたった。

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