ウーパールーパーと私
ヒカリがいなくなって、一カ月が過ぎた。もう浴槽の水も抜いてしまった。袋の底にわずか残った餌や、使い残しのカルキ抜きなどのアクアリウム用品以外に、ヒカリがいた痕跡は残っていない。
茫然自失だった。体から魂がぬけ出る、とはこのことだろうか……私は生きながら死んだような、そんな人間になってしまった。もう何も手につかない。学校にも行かず、だらだらスマホ弄りするだけの自堕落人間が、ここに出来上がっていた。
熱心にやっていた動画配信もやめてしまって、機材は全て部屋のインテリアと化している。時折私の動画には復活を望むコメントがつくけれど、動画配信を再開するつもりなどない。元からヒカリの飼育費用を稼ぐためにすぎなかったから、ヒカリが去ってしまった今、続ける理由なんか何もなかった。
私はテレビを見ないから、情報源といえばスマホの検索エンジンに表示されるネットニュースぐらいなのだけれど、この頃、ネットのニュースに妙な記事が載り出した。
それは、私のいた高校の女子生徒が突如失踪したというニュースだった。何の兆候もなく突然姿を消したので、警察は事件性のあるものと見て捜査しているらしい。
その女子生徒の名前を見た時、私の顔には久しぶりに笑みが生まれた。失踪したのは以前、私の前で鼻をつまみ「くさい」と言い放ったヤツだった。愉快だった。心から喜んだのはいつぶりだろう。できれば猟奇殺人か何かの被害者にでもなって、変わり果てた姿で発見されてほしいものだと願った。
そんな愉快なニュースを見てから、三日後のこと。冷凍食品の在庫が尽きたので、私はエコバッグを片手にスーパーへ向かった。昼間の雨は上がっていて、湿った空気と濡れた地面がその名残を残している。露に濡れた街路樹に、沈みかけの太陽が赤い光を投射していて、緑の葉をきらきら輝かせている。
買い物を終えて帰路に就いた私は、生臭い匂いを嗅ぎ取った。その匂いに、私は心当たりがあった。匂いは左手の緑地公園から漂ってきている。
緑地公園の中央にある、広い池……その水が、大きく盛り上がった。中から現れたのは、私が最も待ち望んでいた存在だった。
「ヒカリ!」
自分でもびっくりするぐらいの大声が、私の喉から発せられた。私はなりふり構わず駆け出し、岸へ這い出したヒカリの元へ向かった。
再会したヒカリは、以前とは比べ物にならないぐらい大きかった。多分、イリエワニとかナイルワニと並べてもひけをとらないぐらいの大きさがある。そんなに育つとは思わなかったから、私は心の底から驚いた。驚いたけれど、怖いとは思わなかった。
近くに寄ると、夕闇の中でも、ヒカリのつぶらな目ははっきりと見えた。ヒカリと私は、しばしじっと見つめ合っていた。そこには、私たちだけの時間が流れていた。
私が両手を広げて、ヒカリの頭に抱きつこうとしたその時、ヒカリの口の端から、白っぽい棒状のものがごろんと転げ落ちた。
それは、人間の腕だった。
「ひっ……」
反射的に、私は後ずさった。ヒカリに恐怖したのではない。人間の腕なんか見たら、誰でも驚くに決まっている。
私はぬるぬるしたものに覆われた腕を、そっと触れてみた。それは決して作り物などではない。紛れもなく、人間の腕だった。多分女性のものだと思われる白い細腕の先端を見てみると、爪には特徴的なネイルアートが施されていた。そのネイルアートに、私は見覚えがあった。
「
私は、この腕の持ち主を知っている……このネイルアートは、同じクラスだった樺山という女子のものだ。正真正銘のクイーンビー、学園ヒエラルキーの頂点、弱者を虐げる暴君……そんな言葉がふさわしい女だ。当然、私にとっては不倶戴天の敵といってよい存在だった。
そんな女を、ヒカリは退治してくれた。嬉しかった。忠犬、いや、この場合は忠サンショウウオか? こんなに飼い主想いな動物は他にいない。ああ、愛おしい。愛おしい。
今度こそ、私はヒカリを抱きしめようとした。もう、誰にも邪魔されたくない……と思ったが、一人と一匹の蜜月を、背後からの声が破壊した。
「あ、アカネちゃん……」
大人の男の声だった。私とヒカリの時間を邪魔しないでほしい……渋々振り向くと、公園の西側の入り口に、背の高いスーツ姿の男が立っていた。
「ぼ、僕はずっとアカネちゃんの動画見てたのに……どうしてやめちゃったの? また戻ってきてよ。お願いだから」
もしかして、私の動画のファンだった人? だとしたら、もしかして私の住んでいる地域を特定してここまで来た?
――そうだとしたら、危ない。
全身の肌が、一気に粟立つのを感じた。私の足は、無意識のうちにじりじりと後退していた。
そんな私の横を脱兎の如く駆け抜け、男に詰め寄るものがあった。
……ヒカリだ。
「なっ、何だこいつは!」
男の叫ぶが早いか、ヒカリは男を頭から咥え込み、一口で呑み込んでしまった。男の足が口内に収まるまで、ものの数秒のできごとだった。
「ありがとう……」
ヒカリが、私のことを守ってくれたんだ。きっとそうだ。私がヒカリのことを想っているように、ヒカリもきっと私のことを……
ヒカリの頭が、私の目の前に迫ってきた。見上げると、口が大きく開かれていて、ピンク色の喉粘膜が濡れそぼっているのが見える。瞬間的に、ヒカリが何をしようとしているのかが分かった。
私は、逃げなかった。逃げたら、ヒカリのことを拒絶してしまうようで嫌だったから。ヒカリのことなら、何でも受け入れたかった。どうせ私は、生ける屍にすぎないのだ。そんな私がヒカリの血肉になれるのなら、どんなにか幸せなことだろう。
私の体は、真っ暗闇の中にすっぽりと包まれた。
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