第五話 天国はある

 ICT支援員の職を辞し、日雇いの仕事場を渡り歩く日々を続けながら、定職の求人には毎週エントリしていた。まとめて5案件程度にエントリするペースが3ヶ月続き、のべ約70案件が不採用であった。そもそも面接にこぎつけたのは数件のみだった。もはやIT技術者を目指すという北海道美瑛での決心は消滅し、アパレルの物流センターの契約社員の求人にも応募するようになっていった。この段階になるとメンタルへのダメージも蓄積される。自分に価値が無いように思えて萎縮してくるし、生活のための日雇いも条件の良い求人があるとは限らず、明日の働き場所が確定していないという不安感も相当なものだ。

 そんな時、登録していた小さな派遣会社から4ヶ月のバイトの紹介がきた。ある自治体の学校の教育用パソコン20万台の設定を変更するというキッティング作業である。給料はよくはなかったが、日々仕事を探す精神的負担から解放され、そして春になれば新規の求人も増えるだろうという想定でそのバイトに就いた。作業自体は難しいものではなかったが、新たな学びもあった。パソコンキッティングとは単に、パソコンが起動できるように設定するだけのことと認識していたが、ヤスオの知らないさまざまな設定項目があった。あらためてWindowsパソコンの仕組みにも無知であったを認識し自分のスキルレベルが市場価値にないことを悟った。

 1ヶ月ほどパソコン作業に従事していると、派遣会社からは長期の契約社員の案件の紹介を受けた。流通業に特化したシステム会社のヘルプデスクの仕事である。面接では「なるべく早く来てほしい」との言葉をもらった。約70社から不採用となり自信を失っていたヤスオは、「どうせ人の嫌がるよくない仕事なのだろう、、、」と何の希望も持たなかったが、日雇い生活から脱出するためには、その仕事を請け負うしか選択肢はなかった。


 ヤスオの仕事は、小売店や飲食店のPOSレジやクレジット決済端末に関する問い合せ窓口業務である。機器トラブルでお客様がレジに行列となり、店員が怒りまくるという光景が想像され、恐る恐るその仕事に就いた。しかし、いざスタートしてみると深刻なトラブルはほとんど無く、電話口の店員から感謝されることが圧倒的に多かった。電話が鳴り止まないということもなく、一日数件しか電話を取らない平和な日もある仕事であった。

 オフィスは本社社屋からちょっと離れた雑居ビルのサテライトとなっており、10名に満たない少人数の職場であった。そこには管理職は不在で、若手社員が数名、あとは非正雇用メンバであった。威圧的な声の大きな人物はなく、温厚で人当たりのよいメンバーばかりの居心地の良い職場である。ヤスオにとって過去40年近くの社会人生活で、これほど平和な仕事場を経験したことはない。割り当てられた仕事に余裕があるため、空き時間にはVBAを使用してEXCEL業務の効率化にトライするなど、前向きに取り組むこともできている。


 若かりし頃コンピュータメーカでの徹夜続きの日々、大口案件の勝利で有頂天だったこと、40代に銀行子会社でパワハラに踏み潰されたこと、組織改革への挑戦と役員との対立、希望を持って早期退職したものの定職に就けずに惨めで不安定な日雇いの日々、、、振り返ればドラマの連続で、いいことも悪いこともあった。そして今、流れ流され辿り着いたところは思いもよらぬ平和な職場環境だ。ここが天国と感じられるのもそれまでの過緊張を強いられた職場経験のためだ。もし、新卒でこの小さな会社に就職していたら、成長と刺激を求めてすぐに転職していたことだろう。人生には巡り合わせと縁がある。良縁となるか否かはタイミング次第だ。そして平和が永遠に続くこともない。非正規雇用のヤスオがいつまでこの場にいられるかは不明である。フリータとしての旅は終わったのか、またいつか彷徨うのか?


 

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