第2話 心に風が吹く

 広大な緑の草原は大海のようだった。風が吹く度に波打ち、柔らかい曲線を描く。

 啓太はバルコニーで雄大な景色を眺める。ふとデッキチェアに横たえた身体に力を込める。斜めの背もたれから背中が離れ、震えながら上体を起こした。少し上がった息を気付かれないように抑え込む。

 やや落ち着いたところで弱々しい笑みを浮かべた。

「こんな自分が情けないよ」

「ずっと病院にいたんだから仕方ないでしょ」

 隣にいたドロシーは草原を見ながら言った。

 啓太は納得しなかった。伸ばした自身の両脚に目を向ける。ジーンズに覆われていたが足首の細さに溜息が漏れた。

「退院する前にリハビリをすれば良かったのかな」

「もう一度、入院するつもり?」

「それは、もういいよ」

 目を草原に戻す。絶え間ない小波が不規則に起こる。その変化を飽きることなく見続けた。

「この草原を駆け回れる日が来るのかな」

 沈んだ声にドロシーは勝ち気な顔で言った。

「こんな草原、どうってことないって。もっと大きな世界を見て回ることだって出来るんだから」

「……そうだね。僕が頑張らないと」

 僅かに口角を上げた。啓太は草原から目を離さず、言葉を続けた。

「今の僕には無理だけど、代わりにドロシーが元気に走ってくれないかな」

「命令なら聞くけど」

「親しい友達のお願いって感じで」

「恋人ではないのね」

 ドロシーは中腰となって薄笑いを浮かべた。目にした啓太は迷いながらも、友達で、と伏し目がちに呟いた。

「わかった。一人ではしゃぐことに抵抗はあるけど」

 にこやかな顔でウインクすると、木製の階段を下りて草原に立った。

 ドロシーは笑顔で走り出す。草の中を蛇行だこうしてふわりと跳んだ。滑らかな着地のあと、クルクルと回る。デニムのスカートが広がって健康そうな太腿がちらりと見えた。

 啓太は眩しい物を目にしたように頭を下げた。

「これでいいかな」

 立ち止まったドロシーが啓太に問い掛ける。

「うん、見てるだけで元気が出たよ」

「やった甲斐かいはあったね」

 ドロシーは後ろ手に組んで戻ってきた。眩しい笑顔で階段を上がる。啓太は照れたように俯き、僅かに首を傾けた。

「あれだけ激しく動いたのに、ドロシーの靴は綺麗だね」

「汚れないようにしたからね」

「高性能だからできることなの?」

「その通り。よくわかってるじゃない」

 ドロシーはそれとなく胸を張る。啓太は、うん、と言いながら顔を上げた。

「ここは広い草原だから、もっと大きく使ってもいいと思うよ」

「そうだけど、啓太とあまり離れたくない。何かあった時に助けられないよ」

「例えば?」

「身を乗り出して落ちるかもしれないし、突風でデッキチェアが倒れるかも」

 自身の言葉に何度も頷く。

「そんなことって――」

 いきなり強い横風が啓太を襲う。思わず、目を閉じた。デッキチェアの片方の脚が浮き上がる。

 瞬時に距離を詰めたドロシーが啓太を胸に抱え込む。風が収まるまで同じ姿勢を維持した。

「もう平気ね」

「ありがとう」

「寒くなってきたから中に入ろうか」

 何事もなかったようにドロシーは啓太に優しい眼差しを向ける。

「大変だと思うけど、その、よろしく」

「キャスター付きだから移動は楽々よ」

 ドロシーは各キャスターのストッパーを外した。デッキチェアの後ろに回り込み、向きを変えてゆっくりと押し始める。

 数歩で木製の扉の前に止めた。

「今、開けるね」

「それ、僕にさせて欲しい」

「さっきも言ったけど、身を乗り出して転ぶことだってあるんだよ」

「注意するから僕にやらせて。これもリハビリみたいなものだよね」

 啓太は今までにない強い視線をドロシーに向けた。

「わかったよ」

 あっさりと受け入れた。デッキチェアを扉に対して横向きにした。啓太は縦長の把手とってに手を伸ばす。ドロシーは止めることなく、穏やかな表情で見守っていた。

 啓太は把手を握った。その感触をしっかりと確かめて前へと引っ張る。扉は僅かに開いた。

「もしかしてホログラフィとか思った?」

「……ごめん。疑うようなことをして」

「でも、これで信じて貰えたよね」

「信じるよ。僕が、どうかしていた」

 啓太は唇を引き結んで俯いた。ドロシーは優しく頭を撫でる。

「思うように身体を動かせない。退院したことが夢のように思える。その不安から思い付いたんだよね。大丈夫、二人で乗り越えていこうよ」

 子守唄を口ずさむように言った。啓太は頷いて、わかった、と涙声で返した。


 風が強まる中、二人は建物の中に入っていった。

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