旅立つ前の数日間

黒羽カラス

第1話 草原の二人

 木材を積み上げたロッジ風の建物には屋根付きのバルコニーがあった。風通しはよく、デッキチェアで眠っている小柄な少年の前髪を微かに揺らす。くすぐったいような表情となり、薄っすらと瞼を開けた。

「……ここは?」

 目の前に緑の大地が波打つ。見渡す限りの草原に少年は口を半開きにした。半ば放心した状態で眺める。

 かたわらには少女が寄り添う。赤茶けたソバージュを肩まで伸ばし、白いTシャツにデニムのワンピースを重ね着していた。薄緑の瞳で微笑み、少年の左肩にふわりと手を置く。

「こういう場所が好きなんだよね、啓太けいたは。だから、眠っている間にわたしが運んできたんだよ」

「ドロシー、君が……ありがとう。でも、いいのかな」

「どういう意味?」

 ドロシーは斜め下に不機嫌そうな目を向けた。

「病室を抜け出して、こんなところにきて。医者や両親に怒られるよ」

「なに言ってんのよ。病院は昨日、退院したじゃない」

「本当に!?」

 初めて聞いたという風に啓太は目を丸くした。ドロシーは大げさな溜息を吐いた。

「看護師から大きな花束を貰ったよね。受け取ったのは啓太の母親だけど。あと十二歳の誕生日が近いこともあって洋服をプレゼントされたでしょ」

「それって僕の話だよね?」

 考え込むように視線を下げる。自身が着ていた水色のシャツを一目見て、あ、と声を出した。

「パジャマと違う。もしかして、これがプレゼントされた洋服とか?」

「そうよ。着替えさせたのはわたしだけどね」

「そうなんだ。ありがとう。なんか、照れるね……」

 最後の声は聞き取れないくらいに小さくなった。

「わたしなら平気よ。高性能ヒューマノイドのドロシーだからね」

「……僕が、平気じゃない……」

 赤くなる顔に風が吹く。沸騰しそうな頭を適度に冷やし、表情を和らげた。

「思い出したよ。確かにドロシーの言う通りだ。昨日のことなのに、どうして忘れてたんだろう?」

「寝起きだから頭がぼんやりしてたんでしょ。それとわたしの姿なんだけど、啓太の年齢に近い設定になっていて、それで意識させるなら変えてもいいよ」

「初耳なんだけど。そんなことできるの?」

「当たり前よ。わたしは高性能ヒューマノイドなんだから」

 得意気に笑うとドロシーは啓太の正面に立った。

 最初に髪の色が黒くなる。波打つソバージュはストレートに変わって胸元まで伸びた。合わせるように瞳は黒曜石に似た色と艶を帯びて切れ長に変わった。

「どうかしら?」

「別人みたいだよ」

「肌も少し変えようか」

 鼻筋から頬に掛けてあったソバカスが消えた。瑞々しい乳白色となり、唇の横に小さなホクロが現れた。

「あとは体型ね」

 大きく迫り出した胸を見て啓太は横目となった。

「ちゃんと見なよ」

「もう、わかったから」

「顔に押し付けちゃおうかな~」

 笑いを含んだ声に慌てて目を戻す。元の姿に戻ったドロシーが、なんてね、の一言で白い歯を見せた。

「本気にしたじゃないか。やっぱり、ドロシーはその姿がいいよ」

「わたしも気に入っているからね。ただ、胸はどうかな。大きくしたほうがいい?」

「なんで、そんなことを僕にくかな。全然、必要ないから」

 啓太は早口で言った。

「一応、啓太はご主人様になっているからね」

「そんな身分ではないよ、僕は。いつも通りに、これからも付き合って欲しい」

「わかった。わたしも気楽でいいし」

 ドロシーは啓太に歩み寄るように隣へ立った。二人は揃って草原を眺めた。澄んだ青い空に浮かんだ雲が微妙に形を変える。

 啓太の目がぼんやりする。

「久しぶりに長く喋って、少し疲れたみたい」

「それに気持ちのいい場所だからね」

「せっかくドロシーに連れてきて、貰ったのに……本当に、ごめんね……」

「気にしなくていいよ」

 ドロシーは草原と向き合いながら目を細めた。静かになった隣にそれとなく目を向ける。啓太は瞼を閉じて微かな寝息を立てていた。

「おやすみ」

 少し乱れた前髪を手で整えた。すっきりとした啓太の顔をじっと見て、紙のように白い頬に薄桃色の唇を軽く押し当てた。

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