第10話 止まない雨

 凪が地下迷宮に入って数日が経過した。

 一条 海未いちじょう うみは、兄の帰りを待っていた。受験の控えている高校生である海未は、唯一の家族である凪がダンジョンから帰ってこないため学校に行く気になれず、一人自室にこもりベッドの上でうずくまっていた。凪から着信があるかもしれない。手にはスマホを固く握りしめている。


 外では雨が降り続いている。雨音が漏れてくる暗い部屋でうずくまっていると、思い出すのは、二年前。両親が突発的に発生した東京タワーのダンジョンに被災し、消えてしまった日――


■■■


 あの日も雨が降っていた。海未はいつものように中学校の教室にいた。教室では今朝、東京タワーで突発的に発生したダンジョンの話で、もちきりだった。すると、先生が教室に入ってきた。


「一条さん、お兄さんから学校へ電話がきているから、職員室に来てちょうだい」


 嫌な予感がした。両親が出掛けていたのは、知っていたから。まさかと思った。


「海未。父さんと母さんが東京タワーのダンジョンに被災した」


 電話越しに凪は、いつになく冷静にそう言った。「早退して家に帰ってきてくれ」と言われ、すぐに教室に戻り荷物をまとめ家に帰った。


 家に帰ると、びしょ濡れになった兄が、誰かと電話していた。どうやらギルド連盟からのようだった。点けっぱなしのテレビでは、東京タワーが中継されている。


『突如発生した東京タワーでのS級ダンジョンは攻略され、東京タワーは元の姿に戻りました』

『このダンジョンが発生する際に中にいた人は二〇〇名と推測され……生存者はいないとのことです』


 海未は現実を受け入れることができずに呆然としている。テレビから告げられた生存者〇という話が全く頭に入ってこない。ただ外の雨音だけが耳に響いてくる。どこか他人事のように感じた。


 被災した両親は行方不明となった。

 それから数日間の記憶はない。ただただ呆然としている日々の中で、凪は忙しそうに色々なところに連絡をし、手続きをしていた。


「海未、大事な話がある」


 憔悴した凪と、リビングで向き合った。


「俺、高校を卒業したら、ハンターになる」

「えっ……」


 理解が追いつかなかった。いや、分かってはいた。何もせずに立ち止まっていても日々は流れていく。


「お兄ちゃん……どうして?」


 両親を失った喪失感を時間の経過が解決するなんてことは、全く信じられない。これから先、ずっと胸にぽっかりと空いた穴が、埋まることなんてない。


「俺は、兄として、家族を養わなければならない。海未と生活するためにも、働かないと」


 胸に空いた穴が埋まってしまったら、大好きだった両親を忘れてしまうように感じるから。それでも前に進まなければならない。頭では分かっていた。


「……そういう話じゃない! なんで、ハンターなの! どうして、お父さんとお母さんがいなくなったダンジョンに……お兄ちゃんが行くなんて耐えられない……」


 リビングが、気まずい静寂に包まれる。凪だって、両親を失っているのだから辛いはず。頭では分かっているのだ。それでも、何かに当たらないと自分を失ってしまいそうになる。

 しばらくして、凪は重い口を開いた。


「ギルド連盟に行って来たんだ。父さんと母さんは行方不明。このまま一年が経過して、家庭裁判所に失踪宣告をすれば、法律上、二人は死亡したものとみなされるんだって」


 この人は、一体、何を言っているんだろう?

 海未は、何を言っているのかわからない凪の顔を見上げた。頭に血が上り、目から熱いものがこみ上げてくるのがわかる。今にも怒鳴り散らかしたい衝動に駆られた。そういう話をしたいんじゃない。


「でもな。俺は、失踪宣告なんかしたくないって思ったんだ。それに亡骸を確認した訳じゃないし。もしかしたら、どこかのダンジョンに父さんと母さんがいるかもしれないだろ?」


 凪の目から涙がこぼれ落ちた。その理由を海未はすぐに悟った。海未はただ呆然とこの数日を過ごしている間、凪は感傷に浸る余裕もなく忙しなくしていた。泣くことも許されずに、ただ現実と直面していた。


「だから……俺は、ハンターになって父さんと母さんを探すよ。なんか俺、すごいハンターの適性があるんだって。帰りに適性試験受けたら、大騒ぎになってさ」


 凪は止めどなく流れてくる涙を腕で拭いながら、悲しみと少しの嬉しみの混じった声で話を続けた。海未は、ほんの少しの希望を見出した凪の背中を押してあげたいと、そう思った。


「私は……」


 海未は、少し言いかけた瞬間、溢れてきた涙に動揺した。この数日の間、現実を直視できずに全てから心を閉ざしていた。泣くこともなく、ただ呆然と日々が過ぎていく中で。

 今、凪の話を聞いて、現実を直視できた。そうしたら涙が溢れてきたんだ。


「うわああああぁぁん」


 赤ん坊のように泣いた。止めどなく流れてくる涙を拭うのも忘れるくらい、ただひたすらに、帰ってこない両親と、一縷の望みに思いを馳せて、泣いた。この涙は枯れることがないのではないかと思うくらいに、こみ上げる感情の波に、ただただ身を任せて、泣き続けた。

 そして、泣き止む頃には、海未の中で、確固たる決意があった。


 兄は、ハンターとしてダンジョンで両親を探す。

 私は、兄やダンジョンへ向かう大勢のハンターのために、医者になろう。と。


■■■


 二年前を思い出し、海未は感傷に浸っていた。悪い想像を振り払うように前向きに事を捉えることに努めた。ハンターが広大なダンジョンに挑む際、何日も帰らないことはざらにある。きっと凪は、ダンジョンをさまよっているだけで、もう少ししたらダンジョンを攻略して帰ってくるはずだ。


 すると、雨音を下げるようにスマホが鳴り出した。


「――もしもし!!」

一条 海未いちじょう うみか?」


 電話越しの声の主は凪ではなかった。低く、それでもよく通る鋭い声が耳に響いた。


「……はい、そうです」

「俺は、二階堂 龍騎にかいどう りゅうき。貴様ら兄妹の保護者だ。単刀直入に言う、凪はダンジョンに取り残され死亡扱いとなった」


 信じられない言葉を聞いて辛うじてひねり出した「えっ……」という反応を残して静寂に包まれた。雨が強く降っている。


「残された貴様の行く先は手配しておいた。準備を整えておけ。すぐに迎えがくる」


 全く理解が追いつかない。兄が帰らない? 自分がどこかに連れて行かれる? 飲み込めない状況に意識が混濁してくる。


「兄は……どうして帰らないんですか?」


 チッという舌打ちが聞こえてくる。家族を失った遺族に対するデリカシーの欠片もないが、そんなことに怒りがこみ上げる余裕もなく。ただただ、凪が帰らないことを信じられなかった。


「凪は弱かった。だから死んだ。それだけだ」

「どうして兄を守ってくれなかったんですか! それでも保護者ですか!」


 電話越しに怒りをぶちまけた。ただ淡々と要件を述べてくるこの男は、一体何なのだ。何もかもが信じられない。少しの間を挟み、信じられない言葉が耳を突く。


「甘ったれるな」

「!!」

「弱いのにハンターを続ければ、いつかこうなることは、貴様もわかっていたはずだ。凪が死んだのを他人のせいにするな。凪が死んだのは、奴が弱かったからだ。凪を死地に向かわせたのは、貴様が止めなかったからだ」


 図星を突かれたように感じ、言葉が続かなかった。思わず涙が頬を伝う。


 凪と暮らしていければ、それでよかった。

 医者になりたいと、進学したいと望んだばっかりに。凪に無理をかけたくなくて、奨学金で進学できるように準備もしていたのに。それでも凪は海未のために生傷の耐えないハンターを続けていた。いや、海未のためだけじゃない。凪自身のためでもあり、家族のためだった――海未は凪と一緒に誓ったんだ。


「一人にしないで……」


 それでも、やっぱり止めればよかった。と、海未は後悔した。


 「すぐに迎えが行く」とだけ残し、電話は切られた。


 この世に自分しか残されていないという喪失感に包まれ、海未は泣くことしか出来なかった。泣き声を掻き消すように、ただ雨が強く降っている。

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