第6話 絶望の淵
「すまんがナビくん。君はここまでだ」
山田が凪の背中をドンと押す。凪は「えっ」と言う間もなく、視界が猛烈な勢いで流れ、独特の浮遊感に見舞われる。
――ガッ!
「な!! なにするんですか!!!!」
凪は辛うじて崖の縁を掴むことができた。この大穴がどれだけの深さかなんて想像もつかない。ただ一つわかっていることは――
落ちたら間違いなく死ぬ。
「ぐっ! いつも背中を叩いてたからって、こんなところで叩いたら落ちるに決まってるじゃないか……!!」
上を見上げると、感情を失くしたように山田がこちらを見下ろしていた。いつものような陽気な笑顔が消え、黒く淀んだ瞳は一体何を考えているのかわからなかった。
少しの静寂の後、山田が口を開いた。
「君は終わりなんだ。ナビくん」
「どうして!」
「龍騎さんの指示だ」
「!?」
言葉を失った。烏龍ギルドのギルドマスターであり、凪と妹の保護者である
「え、どうして……なんで龍騎さんが……?」
頭の中が真っ白になった。山田から大穴に突き落とされ、死の間際。さらに保護者からも裏切られたという動揺で、心臓が強く脈打っていた。
山田は固く目を瞑り、語り出した。
■■■
その日、山田は烏龍ギルドに呼び出されていた。新宿の高層マンションが建ち並ぶオフィス街に、烏龍ギルドの本拠地はある。三〇階建ての一際大きいビルの最上階にギルドマスターの執務室はある。一階から直通のエレベーターに乗り込み、山田は三〇階に到着した。
エレベーターを降りると、執務室の前に護衛が待ち構えていた。
「山田さん、お疲れ様です」
「ああ……お疲れ様」
いつもの調子とは裏腹に山田の顔には生気が宿っていなかった。烏龍ギルド内では、三ツ星ハンターは中堅。中堅であるギルドメンバーは、表の仕事であるダンジョン攻略の他に、裏の仕事を任せられることも多い。山田は、龍騎に直接呼び出された時点で、裏の仕事を任されることを覚悟していた。
「失礼します」
扉を開き、ギルドマスターの執務室に入る。
大理石で仕立て上げられた立派な室内。黒を基調としたモダンなデザインで統一され、扉のすぐ近くには応接間とバーカウンターが広がる。奥には
「来たか。座れ」
よく通る低い龍騎の声に山田の顔が強ばる。
赤黒い長髪と左目に黒い眼帯。黒いロングコートを身にまとう
山田はすぐ近くの応接用の黒いソファに座る。
「単刀直入に言う。次のC級ダンジョン攻略で、凪をダンジョンに置き去りにしろ」
「えっ!」
山田は目を見開いた。
「一体……どうしてナビくんを……」
チッと舌打ちする龍騎に山田の心臓が飛び跳ねる。龍騎は質問が嫌いだ。知る必要のない事だと思うも、山田を動かすためには理由を説明する必要がある。堅気な男だからだ。
「奴は己の有用性を証明できなかった。それだけだ」
「な、なぜ今なんですか! それに、龍騎さんは彼の保護者じゃないですか!」
龍騎の顔が曇る。龍騎は面倒臭い奴が嫌いだ。しかし山田の有用性を図るためにも、この仕事は山田でなくてはならなかった。龍騎は少し嘆息し、説明を続けた。
「俺がなぜ奴の保護者になったかわかるか?」
「いえ、わかりません……」
「保険金だ。奴等兄妹には、多額の保険金をかけている」
「!!」
龍騎は、身寄りのなくなった一条兄妹の保護者となり、多額の保険金をかけていた。保険金は、すぐに死なれても満額支払われることはない。
「奴の猶予は、俺が保護者になった時から、二年だったということだ」
「そんな……」
「二年猶予はあった。俺としては、その間に
「?」
「
「凪は役立たずだったということだ。使い物にならないのであれば、せめて金になってもらわねば」
龍騎は、眉一つ動かすことなく淡々と語った。その黒く淀んだ瞳が山田を見据え、山田は身震いする。徹底した合理主義。己の利益のためであれば、人の命を天秤にかけ、利益を優先する姿勢。山田は沈黙し、龍騎の要求を聞き入れる他なかった。次は我が身であると、理解した。
「無能は烏龍に必要ない。チッ……時間の無駄だったな」
■■■
「嘘だああああぁぁあああ!!!!!」
山田の口から語られる信じ難い話を聞いて、凪が絶叫する。
え、なぜ? 保険金? そんな……それじゃあ、最初っから俺は騙されていたってことなのか? そんなはずはない!
「俺に救いの手を差し伸べてくれた龍騎さんは、そんな人なわけがない!!」
「
「!?」
全てを語った山田に対して、凪は真っ先に否定した。拒絶した。理解が追いつかなかった。
「烏龍は、闇社会にも精通している」
だまれ
「利益が出るのならば、悪事も働いてきた」
だまれだまれだまれ
「君も知っているはずだ。烏龍に二年も居て、知らないわけがない」
だまれだまれだまれだまれだまれ
「君は目を瞑っていた。見ないようにしていた」
「だまれえええぇぇえええぇえええ!!!!」
崖の縁に手をかけている凪に、山田がズイと寄ってきた。
「どうして自分だけが、そうならないと確信していた?」
「!?」
凪は見ないようにしていた。その通りだった。図星だ。
烏龍の悪事も、自分の無能さも。真に向き合ってはいなかったんだ。
どこか、ギルドマスターが保護者であるという事に安心していたんだ。
だが、烏龍でそんな理由がまかり通る訳がない。
どこかで、わかっていた。いつかこうなることを。
気づかないフリをしていたんだ。
自分の無能さに。
「うぅっ……ちくしょう……!!」
少しずつ状況が理解できていた。
「この、この……この下衆共がああ……!!」
「いくらでも罵るがいいさ、その方が俺も踏ん切りがつく」
縁に掴まる凪の手を踏み潰そうと、山田はゆっくりと足をあげた。
しかしその足は、全身は、震えていた。
「うぅっ……すまん、ナビくん……こうしないと、次は、俺が、俺の家族が……」
山田が根は良い人なのを、凪は知っていた。
烏龍に良い人が所属するのは稀だ。山田は病気の家族を養うために多額の報酬が必要だった。それ故に報酬の良い烏龍に所属していたのだ。
だからといって、悪事が許される訳ではない。
だからといって、他人を蹴落としていい訳がない。
「ふざけるな。決して同情などしないぞ。俺にだって家族がいるんだ」
「……すまない」
「くそおおぉぉおおお!!!!!」
山田が勢いよく足を振り下ろす。と、その瞬間、穴とは逆の方向に山田が吹き飛んでいった。
「そこまでだ」
凪の目の前に金色の髪がなびく。閃光のような紅が、立ちはだかった。
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