第2話 双極性障害
昔から爆買いをする傾向はあった。
尊大な夢を語ることもあった。
何日も寝ずに活動することもあった。
躁状態と呼ばれる、いわゆる「ハイ」な状態である。多分高校生くらいの頃からこの傾向はあった。僕の高校は神奈川県内で最も体育祭が派手な学校で、九月半ばの祭りに向けて前年の九月から準備をするような頭のおかしい(悪口)学校なのだが、祭り直前の八月、夏休み中はブラック企業もかくやと言わんばかりの労働を求められる。もちろん多くの生徒は自主的にやっているのでブラックな雰囲気は感じていないのだろうが、真面目に労働としてとらえたら結構な額をもらえるようなことをしていると思う。いくつか「仕事」の内容を挙げよう。
・ダンスの振り付けを考え、百人以上の踊り手たちに指導、一定レベルまで教える。
・十二畳くらいの板にアートな感じの絵を描く。
・建築用鉄パイプを組んで大道具を作る。
・段ボールと針金で総勢百人分以上の小道具を作る。
・業者レベルの量の布を仕入れ、総勢百人以上の衣装を作る。
これに加え、体育祭と言えば、というような大縄跳びやリレーなんかの競技の練習をさせたり、これらの仕事のバックアップ的な、マネージャー的な仕事をする組織も存在したりと、まぁとにかく多忙を極める体育祭なのである。この体育祭のシビアなところは、ゴミの処分や最終下校時刻の厳守といった生活態度も得点に含まれる。その上、体育祭の実行に当たって各クラス予算を組まされるのだが、この予算を一円でもオーバーしたり、あるいは用途不明のお金が一円でも出ようものなら体育祭の点数から引かれるという制度まである。クラスの会計係が領収書の処理を忘れて用途不明のお金が一円でも出ようものなら、体育祭の競技獲得ポイントから一律五点(もっと厳しかったかもしれない)が引かれる。多くの人が汗水たらして競技で稼いだ点から引かれるのでそれはそれは顰蹙を買う。
さて、双極性障害で躁状態、最高にハイな状態だった僕は、この会計係になった。徹底的な会計管理でクラス全体の金の流れを掌握し、一円の漏れも許さなかった。僕の高校は縦割りだったので、一年一組二年一組三年一組が同じチームになる。一クラス四十人。つまり一チーム合計百二十人分の体育祭関連のお金の流れを把握する必要があった。精神が昂っていた僕にはそれらのある種超人的な仕事が楽々一人で行えた。僕のチームの会計マイナス点はゼロ。自慢しておくと、他のチームの会計では最大で四十点引かれているところもいた。
しかし双極性障害には鬱もある。いわゆるダウン状態で、呼吸するのも億劫になる。
僕は新卒で働き始めた段階で、医師からは単なる鬱病として診断を受けていた。高校の終わり、大学時代にかけて抑鬱状態で、酒におぼれたり職場で首を吊ったりしていたのだが、僕のことを昔から見ている母が、ある日医者に「躁鬱ってことはないですか?」と訊いた。それから、僕が少年時代にしてきた数々の奇行について説明した。そんなことやっていたか、と思ったが、どれも身に覚えがあった。一通り、母の報告を聞いた医師は、「これは確かに双極性障害かもしれない」と告げた。
双極性障害は鬱病とは治療方針が異なる。鬱病は気持ちを持ち上げる薬を処方するが、双極性にそんなことをしようものなら躁状態になって取り返しがつかない。双極性障害にはⅠ型とⅡ型とあるのだが、Ⅰ型は躁の勢いがとてつもなくて、入院治療中にちょっと散歩の許可を出したら近所のディーラーで何百万もする高級外車を購入してきて一文無しになって帰ってくる、なんていう症例もあるくらいにとにかく「ぶっ飛ぶ」。躁は気持ちを尊大にして、どんな事態も「何とかなる」と思わせてしまったり、自分が偉いことを誇示したくなったりしてしまう。Ⅰ型は入院治療となるケースが多い。波の振り幅が大きいからだ。
僕はⅡ型で、Ⅰ型ほど極端な躁の波は来ないが、それでも自殺リスクはとてつもなく高い。Ⅱ型は小さな躁と大きな鬱が来る病気なのだが、大きな鬱状態から躁状態に移行する時の死亡リスクがとにかく高い。精神病の自殺というのは、鬱状態で自己否定モードに入っているところに、躁状態で行動力が出てしまった結果辿り着く先、ということなのだが、双極性障害は四人に一人がこんな感じで自殺する。分かりやすく言うなら「死にたいなぁ。そうだ、死のう」みたいな、思い立ったから自殺してくるみたいなノリなのだ。
実際、僕はこのノリで三回ほど未遂をしている。一回目は職場で。「ちょっと休憩してきますわー」と先輩に言ったその直後に職場で首を吊った。二回目は実家で。二段ベッドの上の方にベルトを引っ掛けて座り込むことで死のうとした。三回目は処方された薬を飲まずに溜め込んで一気に飲むことで死のうとした。どれも本当に、「あ、そうだ。死のう」という感じでやった。思いつめた挙句に……なのかもしれないが、少なくともそんな「念願の」という感じではなかった。言い方は悪いがコンビニに行くくらいの感覚で死のうとしていた。
鬱から躁へ切り替わる時は、同じ景色でも見え方が違う。
駅のホーム。線路。プールみたいに見える。飛び込むと楽しい。そう思える。電車はある意味、波のプールのビッグウェーブみたいなものだ。そのタイミングで飛び込んだら最高だろうな。そう思える。
単に鬱な時は「電車に飛び込んだら痛いだろうなぁ」としか思わない。躁の時は「電車に乗ってどこかに行くの楽しい」としか思わない。だが鬱と躁が混ざると「電車に楽しく飛び込もう」になる。不思議なのだ。自分でも。
この病気は一応遺伝するらしい。僕の母方の祖父がこの双極性障害だったそうだ。多分、だが僕の子供か孫にも遺伝するだろう。仕方ない。僕にできることは、僕がこの病気をした上で得られた知見を共有すること。同じような苦労をさせないことに尽きるだろう。
双極性障害は一生の病気だ。糖尿病みたいなもので、一生治療薬を飲まないといけない。でも考えてみて欲しい。コーヒーがないと生きていけない人っているだろ? ノーミュージックノーライフとか言っている人いるだろ? 仕事がないと死人みたいになる奴いるだろ? っていうかそもそも、電気やガスがないと人は生きていけないんだが?
何が違う? 人間は多かれ少なかれ何かには頼らないと生きていけないのだ。それが「薬」という分かりやすいものだからといって引けに感じたり劣等感を抱いたりすることはない。睡眠薬がないと眠れない? 枕がないと眠れない奴もいるんだぞ。似たようなものだ。薬に関してはそういうスタンスでいて欲しい。お薬代がかかるじゃないか、という人は自治体に相談しよう。自立支援医療という制度を使えば一割負担で済む。
僕には双極性障害という障害がある。
でも僕は、強く生きたいと思う。
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