第19話 君は”誰”なの
「あらためまして。杏美の移籍先のプロダクションで社長をしている坂本切絵です。君の噂はかねがね彼女から聞いています」
「ジョーからじゃ?」
「彼女はもう杏美よ。君が知ってるジョーくんはもういない。今は錯乱して戻ろうとしているけれど、東京で産まれた『あずみん』は、大阪の『ジョー』にはなれない。彼女はこれから『オンナノコ』として生きていくしかないの」
「それで、あきらめさせるために、わざわざこんなことを?」
「えぇ、苦労したわよ」
11月20日19時51分。
旅館『土蔵魔倉』。風営法の締め上げにより廃業した置屋を改装した旅館は、外見からは考えられないほど前衛的なデザインをしていた。
ミラー張りの壁が続く廊下。
ブラックライトの照明。
男も女もバニーの格好をした従業員。
そして外壁ごと飾られているストリートアート。
気分はおとぎ話のよう。
異世界に迷い込んだ気分だ。
そんな旅館のエントランス。
星を吸い込むブラックホールのトリックアートが床に描かれ、卵をくりぬいたような流線型の椅子が置かれた場所。緑と黄色の卵に腰掛けて僕と坂本さんが向き合う。
偶然なんかじゃない。
僕の代打出演はもちろん、ジョーが居合わせたのも仕組まれていたんだ。
あの音楽フェスティバルでの出来事は、すべて坂本さんが裏で糸を引いていた。
「坂本さん。貴方はジョーに僕を諦めさせたかった。アイツに、僕が失敗する所をあえて見せつけて、バンド活動をやめさせようとしたんだ」
「……私の頭の中を覗いたように言うのね」
「これまでの行動と発言からの推測です。本当の所は貴方しか分かりません」
「そうよね。よかった。じゃぁ、教えてあげない」
余裕たっぷりに彼女は笑う。
しかしその眼差しは鋭い。虎視眈々と僕の去就を窺っている。
もし彼女の意に反すればどうなるのか――。
彼女が脚を組み替える。ストッキングに包まれた黒い指先が恒星を潰す。
次元を裂いて現れた黒い脚によって執拗に痛めつけられる青い星。まるでこの世の不条理そのもののような光景に、逆に心が冷静になった。
「どうして気がついたのか、聞いていい?」
「ジョーが僕の兄弟子だって気づいたからです」
「……そんなことで?」
「どうして彼が僕の兄弟子――僕より先に弟子になったと分かったんです? ジョーは僕よりひとつ年下ですから、普通に考えたら彼の方が弟弟子ですよね?」
「……もしかしてカマをかけたの?」
「偶然ですよ。けど、それは貴方がジョーから話を聞いていないと出てこない。彼の秘密――ノブさんと『兄妹』だってことを知らないと、でてこない反応です」
「それだと、私がジョーくんの知り合いってだけで確信はできないんじゃない?」
「僕をステージに無理矢理担ぎ出してジョーを連れてくる。そんなことができる知り合いは、ここには貴方だけでしょ?」
「証拠は?」
ジョーのスマホに残された通信のやり取り。
けれども、僕は両手を挙げて首を振った。
「降参です。証拠はありません、最初に言った通り推測です。真実は坂本さんの頭の中にしかありません」
「……どうかしらね。けど、君の提案に乗ってあげてもいいわよ?」
僕の降参宣言で緊張の糸が切れた。
急なライブで疲れた後に大人との丁々発止がトドメになったのだろう。
どっと僕の身体を疲れが襲う。重いため息を吐き出して一度前屈みになると、坂本さんの足が押しつぶしている恒星を僕は眺めた。
視線に気づいてその指先がうねる。
再び僕が顔を上げると、坂本さんが眼鏡を外していた。丸いレンズを灰色の眼鏡拭きで磨きながら、彼女はなんだか他人事のように鼻歌を奏でた。
彼女の事務所に移籍したアイドルのように――。
「ジョーのことをお願いします。僕は彼と一緒に居られません。貴方くらい頭の切れる人が、傍に居てくれるのは頼もしいです」
「あら、そんなことでいいの? 彼女を元のジョーくんに戻せとか、大阪に返せだとか、そういう熱いことを言うと思っていたけど?」
「えぇ、そんなことアイツは望んでいませんから」
お願いの返事は必要ない。
僕と坂本さんの望みは奇跡的に交差することはなかった。お互いの望みを叶えるために、なんら譲歩する必要がないのだ。
僕たちは『同じ大切な人間』のために取り越し苦労を重ねただけ。
お互いの気持ちを知ることができれば、それで充分だった。
混沌が渦巻く宇宙の中に僕はスニーカーで降り立つ。
卵のような椅子は、今あらためてみると救命ポッドのようにも見えた。
僕を守ってくれるものはもうなにもない。ここから先、ジョーに自分の気持ちを告げるのは、全て自分の力でやらなくてはいけない。
はたして、僕は彼にうまく気持ちを伝えられるだろうか。
今度は前のように、黙り込んだりせずに。
「……気に入らないガキね。青臭い顔で全部知ってるみたいに言う。ジョーとはまるで正反対。なのに、そうやって大人になろうとしない所はそっくりよ」
椅子に座ったまま横を向いて口元を隠すと坂本さんが言った。
どこか口寂しそうな表情だ。
もしかすると、彼女は煙草を吸うのかもしれない。
それを止めている理由を僕は知らない。知りたいとも思わない。
「だから親友なんですよ」
「……サキュバスの義妹と付き合ってるんですって? いい機会だから教えてあげるわ。女ってのはね、みんなサキュバスなのよ。欲しいと思った男を手に入れるためなら、自分の全てを使って取りに行く。そういう生き物なの」
ジョーの下へと向かおうとする僕を止めたかったのか。
それとも行かせたかったのか。
坂本さんが最後に放った言葉の意味は、よく分からなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
「いらっしゃいケンチン! よく来てくれたな!」
「うん。入っていいかな?」
「当たり前だろ遠慮すんな。ほら、一緒に飲もうといろいろ買っておいたんだ。今日は朝まで語り明かそうぜ」
亜麻色の長い髪をバスタオルでまとめ上げ、白いバスローブをまとった少女は、笑顔で僕を自分の部屋へと招き入れた。その異性への無防備さが、性自認の食い違いから来ることを、彼も僕も痛いほど知っている。
ジョーが宿泊している部屋は、異質な旅館の中にあってさらに異様だった。
和風でもなく。洋風でもない。強いて言うなら中華風。
壁が全て赤い毛の絨毯で覆われたのっぺりとした部屋。
金色のフレームがはまった窓は円状で、向こうから見えないようにマジックミラーになっている。せっかくの鴨川の夜景もくすんでいた。
部屋の中には机も、椅子も、鏡もない。
布団と枕だけ。
まるで生活感がない。
いや、非現実的な部屋だった。
「ごめんな。旅館の玄関まで迎えに行きたかったけど、ちょっと調子が悪くってさ。部屋から出ちゃいけないんだ」
「具合悪いの?」
「ちょっとって言っただろ? 大丈夫、少ししたら治るからさ!」
ジョーが着ているバスローブの裾を揺らす。
真っ新なそれは膝丈になっていて、少し視線を降ろせばその足が拝めた。湯上がりで火照った身体をローブの白さはよくひきたてている。
大阪時代の彼は、自分の女らしい身体を心の底から嫌っており、露出の少ない服を好んで着ていたものだが――。
「やっぱ、変わったなジョー」
「そうか? ごめんな、昔のこともう覚えてないんだわ」
けろりとした顔でジョーは言った。
鮮やかな亜麻色の髪も。
決して太くなることはなかった華奢な手足も。
どれだけ日に焼けても、秋が来ればまた元に戻ってしまう桃色の肌も。
男にでも女にでもなれる中性的な顔立ちも。
そんな自分が大嫌いなのだと泣いて僕を殴ったジョーはもういない。
彼は大人になったのだ。
気づいてしまうと、自分の愚かさがこそばゆくって僕は頭を掻いた。
置いて行かれるわけだよ。ガキだったんだ、僕は――。
「どうしたんだよケンチン。なんか顔色が悪いぞ?」
「ごめんな、ジョー。僕みたいな奴のために、立ち止まってくれて」
「……お前、もしかして泣いてんのか?」
ぐずりと僕は鼻を啜った。
口の中に流れ混んだ滴の辛さで、ようやく自分が泣いているのに気がついた。
せっかく再開の夜を喜ぼうとしていたのに。
情けなくって俯いた僕の背中にジョーが手を回した。
僕のことなんて、人なつっこい野良猫くらいにしか思っていなかった兄弟子が、僕の背中を優しくさすってなだめすかしてくれた。
なにもかもが申し訳なかった。
彼の期待を裏切り続けたことも。
これから裏切ることも。
その優しく僕の背中を撫でてくる指先を、いつだって握り返せる場所に居てやれないのが、心の底から申し訳なかった。
「ジョー。お前に言いたいことがあるんだ」
「なんだよ、もしかしてバンドの返事か?」
嗚咽で詰まる喉を無理に動かす。
震える手で彼の手を握りしめる。もしかすると、もう二度と握ることはできないかもしれない指先を、力一杯握りしめた。
小さな声で「痛いよ」と彼が言う。
いつの間にか解けた頭のバスタオル。乾いた亜麻色をした長い髪を靡かせて、彼は僕を見下ろしていた。その顔は今にも泣きそうだったけれど、それを堪えて、僕の次の言葉を黙って待っていた。
あとはもう僕がその望みを言うだけだった。
「僕は、お前と一緒に居られない。東京には行けない。大事な人がいるんだ。傍に居てあげたい女の子が。だから、お前とはもう一緒の道は歩めないんだ」
「……そっか」
「お前が女の子だったらよかったのに。僕が守ってやれたらよかったのに。けど、お前は僕の大切な人じゃないんだ」
友人の顔を見ていられなくって顔を伏せた。
いつだって僕の言葉が気に入らなければ、ジョーは暴力でねじ曲げてきた。
女の身体と男の暴力という最悪の組み合わせで、好き放題に生きてきた彼。それが、今は僕の手を悔しそうに握りしめることしかできない。
自分達の無力さを思い知る夜だった。
あるいは、そんな無力さから僕たちはずっと逃げて来たのかもしれない。
こんな終わりにしてしまったことが申し訳なかった。
けど、これが僕が彼にしてやれる全てだった。
少年時代は終わったのだ。
僕の手を握りしめていた力が緩み、やがてジョーの温もりがその中から消える。
けれども背中の彼の優しい気遣いは続いている。
それがジョーの答えだった。
「……しょうがねえな。そういうことなら、ケンチンに無理は言えねえや」
「……ごめん、ジョー」
「いいさ。無いなら無いでなんとかするのが俺だ。お前より、スゲーギターを連れてきてあっと言わせてやるよ。私と一緒に東京に来なかったことを、絶対に後悔させてやるからな。だから、お前はテレビの中の『あずみん』を見てろよ」
顔を上げるとジョーは相変わらず笑っていた。
ほんの少し、涙で目の端を湿らせている以外は何も変わっちゃいなかった。
「無理言ってごめんな。私も弱気になってたんだ。社長が急に居なくなってさ、一人でどうしていいか分かんなくなって。それで、きっとお前達が一緒に居てくれたら助けてくれるって。都合の良いことを思っちまった」
「……遠くに居たって助けるさ。友達だろ、僕たち」
「……近くじゃないとツレーんだ。誰かに傍に居てもらって、手を握って貰ってないと、もう潰れちまいそうなんだ。ごめんなケンチン」
なにかを掛け違っている。
そんな気がした。
涙が自然に止まっていた。
自己憐憫のためにそんなものを使うなと身体が僕に訴えていた。
なんだこの違和感は。
どうしてジョーは僕に謝ったんだ。
僕たちを迎えに来てくれたんじゃなかったのか。
それはブラフだったって。
どうして。なんでそんなことを。
これまでの彼とのやり取りに何かヒントがあったか。
いや。
ない。
けど。
ある。
最初から。
考えれば。
それは。
分かった。
こと。
白いローブを脱げばそこに桃色の女の身体があった。
二年前、最後に見た時にはガリガリに痩せ細っていたその身体には、あちこちに年相応に肉がついていた。女性的な柔らかさを東京に行って彼女は手に入れたのだ。
そう思っていた。
親友をそんな風に変えた、大人と東京を僕は激しくに憎悪した。
「社長がさ。俺のことを『オンナノコ』にするって、言ったんだ。意味分かんなかったよ。私はずっと、自分のことを男だと思って生きてきた。身体は女かもしれないけれど、心はケンチン――お前と一緒なんだって」
「……ジョー?」
憎悪なんかじゃ足りなかった。
「自分がさ自分じゃなくなっていくんだ。どんどん崩れていくのが分かるんだ。身体の感覚に引っ張られて全部書き換えられていく。感情も、考えも、好みも、仕草も、簡単に『ジョー』じゃなくなった。痛みと、快楽と、薬と、言葉で、俺は『ジョー』から『あずみん』にされちまうんだ」
憎むことで現実が変わるならどんなによかっただろう。
「社長の言う通りにすればいいって。それで私は幸せなんだって。『ジョー』が願った幸せは叶わなかった。けど、今と未来が幸せならそれでいいって。分かりやすい幸せを追いかけるのも『あずみん』らしいだろうって。俺は納得してたんだ」
三島杏美の身体には、年相応ではない部分が幾つかあった。
苛め抜かれたように黒ずみ肥大した胸の芯。
脇の下には魚のエラのような真新しい切り傷。よく目をこらせば薄く同じような形状のしみが、平行して幾つもそこには浮かんでいた。
身体の体毛は薄い。本来であれば生い茂っていてもおかしくない場所は、何かに焼き切られたように不自然な肌色をしている。
太ももの間に垂れる布を、僕は生理用品だと思った。けれども背中側に回っていることに気づいた時、人間にとって大事な機能さえ彼は奪われたことに気がついた。
けれど、なにより分かりやすい特徴が、彼女の身体にはもう一つあった。
「そしたらあいつ刺されて死んじまいやがんの。俺みたいに、身体と人生を無茶苦茶にした女に刺されて、俺たちを残して消えちまいやがった。残された俺はどうすればよかったんだ。女を刺せばよかったのか。自分で自分達の始末をつければいいのか。散々、俺から何もかも奪っておいて、『ジョー』まで殺して、男に媚びなくちゃ何もできない『あずみん』をこの身体に入れておいて、こんなのってねえよ……」
女性の身体にしか起こりえない膨らみが彼の下腹部にはあった――。
「なに言ってんだよ、ジョー?」
問いかけた少女の中に『ジョー』は居なかった。
彼は最初からそこに居なかったんだ。
彼の身体を使って怪しく笑ったのは女。
僕の知らない、僕の親友の顔と身体をした、『杏美』。
唇の端が瞳から零れた涙を吸う。
僕の目の前でそれは鮮やかに色づいた。
「……ごめんね謙太くん。彼はもう私の中にはいないの。とっくの昔に消えてしまって、私にこの身体を明け渡しの。騙してごめんなさい。縋ったことを許して。けど、『ジョー』の過去に縋らないといけないほど、私は弱くて何もできないの」
蹲る僕の肩を彼女の掌が押す。
そんな風に『ジョー』に身体を優しく扱われるのは初めてだった。
そして、こんな風に気を使われて彼に跨がられるのも。
何もかもが違っていた。
なのに理解ができなかった。
分からなくって僕は彼女を見上げた。
降り注ぐの亜麻色の雨の中で僕を覗き込んで満足そうに女が目を閉じた。
まるでベッドに身を沈めるように彼女が僕の胸板に身体を寄せる。人体とは思えない冷たい感触に、僕の心臓が悲鳴の上げ方が分からず軋んだ。
「……君は、いったい誰なの?」
「私は『あずみん』。貴方たちが作り上げた理想の『オンナノコ』。『ジョー』の身体と歌声と生い立ちと三島杏美という戸籍を奪って産まれた、女。ただ人を喜ばせるための機能しか持ちえない、よくできた偶像よ」
「バカなこと言うなよ。そんな漫画みたいなこと」
「壊れゆく自分を守るために、違う人格を作り出すことがそれほどおかしいかしら。そんな話は現実にこそ多いと思うのだけれど。まぁ、どうだっていいわ……」
間違っていなかったのだ。
彼は『ジョー』ではなく『杏美』だったのだ。
テレビで彼女を見かける度に感じていた嫌悪感は正しかった。僕は、友人の身体を借りて喋る、彼ではない何かを無意識に見抜いていたのだ。
けれどもう遅い。
なにもかも遅かった。
僕の顎先に手を這わせば、それだけで彼女の思惑が分かった。
必死に抵抗しようと身体を捩らせるが、小学・中学時代と一度も力で敵うことがなかった彼の身体を、僕がどうこう出来るわけもなかった。
豊かな胸が僕の身体を布越しに撫でた。
せつなくその肌に汗を浮かべて、僕の親友――だったモノは、懇願するようにその眉根を寄せた。よくできた偶像はまるでそのやり方・言い方がすべて分かっているように、淀みない動きで僕を誘惑する。
まるでサキュバスのように。
「謙太くん。『ジョー』の隣に居てくれないなら、『あずみん』の私に生きる意味を与えて。生きるための理由をちょうだい。最後まで『ジョー』が助けを求めた貴方にしか、こんなこと頼めないの」
「……やめてくれよ。その顔で、そんなことを言わないでくれよ」
「嫌なら突き飛ばして。それで終わるから。私、自分とお腹の子の始末をつけるわ」
「お腹の子って。いったい誰の……」
三島杏美の瞳が悲しい光を放った。
「もちろん、貴方の子供よ」
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