第18話 僕の心は

 ライブは無事に終わった。

 僕の心を静かに蝕んでいた呪いはここに解かれた。

 この時この場所でなければ解けなかった――とは思っていない。

 もう少し時間があれば、自然に解けていた気もする。


「よかったぞ、ケンチン! 俺が言ってた通り完璧だな!」


「……ありがとう、ジョー」


 けれども、最良の形で決別できたように僕は思う。


 渡り廊下の紅色の柵にもたれかかりステージを見下ろすジョー。

 夏みかん色のボリュームネックのセーターに黒々としたワイドパンツ。ゆったりとした服装をした彼は、少しゴツい茶色のブーツを履いていた。

 肩から提げた白革のポシェットが亜麻色の髪と風に揺れる。


 ただそれだけなのに、なんて画になる奴だろうか。


 隠しようのない器量。芸能人としてのオーラ。

 どうして彼の存在に周りが気がつかないのか不思議だった。

 きっと神様が今日一日だけ、彼を『三島杏美』ではなく『ジョー』に何かが戻してくれたのだ。そんな奇跡みたいなたわごとを僕は勝手に信じた。


 僕のためにこの場所に居てくれた親友。

 手を振って励ましてくれた仲間。

 彼のために僕は何をしてあげられるだろう。


 それは本当に何かを犠牲にしないとできないものだろうか?

 天秤にかけていた『彼の願い』が、なぜだか少し軽くなったように感じた。


『見事な演奏でした。急な出演だったにもかかわらずありがとうございました。あらためて、遠原謙太さんに盛大な拍手を』


 狭い観客席にひしめく人々が一斉に立ち上がった。

 スタンディングオベーション。


 僕みたいな繋ぎの助っ人ににそこまでしてくれるなんて。

 思えば、彼らが温かく僕の演奏を見守ってくれたのもありがたかった。

 ジョーだけではない。この場に集まってくれた人たちの善意があったからこそ、僕は立ち直ることができたのだ。


 何かを観客に返したくってギターの弦を弾いた。

 アンコールなんてやっている時間はない。次の出演者のスタンバイは終わっている。しーぽんもさっさとカフェに戻った。


 それでも僕はギターを鳴らした。


「いやー、流石じゃったのう。若いのにいいバイブスじゃった。流石は『あの関西の伝説的ミュージシャン城端信彦の秘蔵の弟子』じゃ」


「よかったわねーしいちゃん。『あの関西の伝説的ミュージシャン城端信彦の秘蔵の弟子』の演奏が見れて。帰ったらお父さんに自慢しちゃおっか」


「うん! ママ、私おおきくなったら、『あの関西の伝説的ミュージシャン城端信彦の秘蔵の弟子』みたいになる!」


「ふっ、今日の所はお前にエールを送るぜ、『あの関西の伝説的ミュージシャン城端信彦の秘蔵の弟子』。しかし、次の関西のミュージックシーンの主役はこの俺」


「マーベラス! エクセレント! ジーザス『あの関西の伝説的ミュージシャン城端信彦の秘蔵の弟子』!」


 …………うん?


「なんかおかしくね⁉」


「「「「あびゃっびゃっびゃっびゃ!!!!」」」」


 僕に拍手を送っていた観客が手を挙げて身体をくねらす。

 ライブ中に盛り上がってやっちゃう動き。けど、別に今は演奏中ではない。ライブ終了後のちょっとしたおふざけだ。


 こんなことで感極まるなんて――ないないありえない!


 白目を剥いた観客がステージに押し寄せる。「うー!」「あー!」という呻き声の大合唱。妙にのろのろとしたその動きは、なんか『ゾンビ』みたいだ。


「謙太さーん」


「けんたー、けんたー、けんたー!」


「抱いてぇー! 謙太くーん!」


「KENTAサーン! 開国シテクダサーイ!」


 なんだこりゃ⁉ どうなってんだ⁉


 その時、僕の灰色の脳に衝撃が走った。


 ここ一週間というもの、僕の身を散々に悩ませたあの怪現象。

 平日の学校では生徒・先生に追い回され、バイトでは女性客に絡まれ、帰り道に電柱の陰に視線を感じる日々を――今まさに思い出したのだ。


 そうか、皆が僕にここまで熱狂したのは間違いない。


「これがモテ期って奴か⁉」


 モテまくり! サキュまくり!


 童貞を捨ててからとどまることをしらない、僕のモテオーラを忘れておったわ。

 まさかこのライブの観客さえも虜にしてしまうとは。


 よもや! よもやだ!(おめめぐるぐるぐるー!)


 僕の衣服に掴みかかる正気を失った観客。

 止めようとしないスタッフ。むしろ加わろうとしているまである。

 冷静にこの光景を眺めているのは、ノブさんとしーぽんとジョーだけだった。


 いや、見てないで助けて! プリーズ、ヘルプミー!


「「「「抱いて! 謙太さーん!」」」」


「ぎゃーっ! なんでこんなことにー!」


 白昼に響き渡る男の悲鳴。そして服の破れる音。

 ゾンビたちの歓声が複合商業施設の空を覆い尽くす。


 まるでライブ演出のダイブのように、僕の身体が持ち上げられた。

 大事な所を丸出し。ギターはもちろん、上着も、ズボンも、パンツも剥ぎ取られてふる○んで、僕は神輿のように担ぎ上げられた。


 うぅん。


 樟葉に吹く風と通りがかりの人の視線は、今日も――全裸には冷たい。


◇ ◇ ◇ ◇


「ふむ。義妹のフェロモンが移ったな。それが君の体臭と混ざって、君自身への催淫効果を持つものに変質したんだ」


「……それじゃ僕のモテ期は」


「モテ期とは? これも若いサキュバスカップルによくある性春トラブルだぞ?」


「……そんな」


「昨日もなにか匂うなとは思っていたんだ。まぁ、若い二人にあれこれ言うのは野暮かなと、注意するのはやめたんだが」


「……きをつかうところがおかしい」


 時は15時12分。

 混沌と熱狂に包まれた音楽フェスティバル。

 その会場から、遠く離れていつもの樟葉駅裏。


 淀川沿いの土手。伸びっぱなしの雑草の上に僕は寝転がる。

 さおりさんが買ってくれたスウェットは冬空の下では少し肌寒い。

 隣には眠たげな笑顔を向けるさおりさんが座っていた。


 フェロモンに当てられて正気を失った観客を、どうにか鎮めて今ココ。

 僕たちは土手に腰掛けて、最悪の週末を嘆いていた。


 またしてもサキュバス絡みでひどい目に遭ってしまった。

 なんでエッチなトラブルじゃないんです?

 男がミイラになったり、裸になって御神輿されたりする展開の需要is誰?


 サキュバスとお付き合いするのは大変ナリぃ……。


「帰りにサキュバス科のある病院で中和剤を処方してもらいなさい。パートナーだと説明すればすぐに出してくれるはずだ」


「分かりました」


「そう気に病むな。若いのだから失敗はするものだ。若い内の苦い経験こそ、人生の宝というもの。なんて言われても、君にはお説教にしか聞こえんだろうがな」


 銀色の房を優しく撫でながらさおりさんは僕に言う。

 本当になんでもないような顔で。


 僕が裸にひん剥かれてすぐのことだった。「待て!」と一喝するや、さおりさんが僕のいるステージに飛び降りてきた。たまたま、ご飯を買いに来ていた彼女が、騒ぎを聞きつけてやってきたのだ。


 さおりさんは正気を失った多くの観客達を睨み据えた。

 そこから彼女は何を思ったか――急に観客に向かってセクシーポーズを決める。そして、サキュバスのフェロモンを彼女は噴射した。

 さおりさんのそれと僕のそれを、観客達の体内でぶつからせる。それにより、強制的に中和状態を作り出した――ということらしい。


 さきゅばすってふしぎだなぁ。


 なんにしても観客達は一斉に正気に戻った。

 夢うつつという顔で目を擦ると、彼らは裸で担ぎ上げる僕を見てこう言った。


「「「「誰だこの変態メガネ!!!!」」」」


「いっそ殺してくれ」


 熱い手のひら返しだよ。


 とまぁ、以上が「くずはモール 音楽祭」の顛末。

 僕はまたサキュバスの業にこっぴどく振り回され、傷つき、そして、よくわからない経験を得たのだった。まったく未来に役立つ経験じゃないのが辛い。


 なにやってるのかな本当に……。


「しかし、君はこの騒動のおかげで悩みを克服できたんじゃないのか?」


「……まぁ、それは」


「だったらいいじゃないか。人生に意味のある出来事はそう少ない。君の何かを変える出来事だったのなら、この経験は間違いなく必要なことだったのさ」


 裸で担がれることが人生に必要なことですか?(ガンギマリ)


 なんかいい話風にまとめて誤魔化された気がする。

 ただ、意味がなかったらないで自分が惨めなだけだ。

 僕は深く考えずにさおりさんの言葉を受けいれた。


 イイハナシダナー。


 まだちょっと夕日には早い河川敷。

 正面に広がるゴルフ場を今日は多くの人が回っている。

 いよいよ本格的になる寒さの前に走り納めという所だろうか、自転車道は僕たちの背中を走る県道よりも混雑していた。


 日中の最も温かい時間。吹く風はどこか柔らかく、秋の落ち着いていてゆったりとした雰囲気が強く感じられる。そんな風に僕の心もようやく落ち着きを取り戻す。


 僕の顔を見てほっとした顔をするさおりさん。

 彼女はワンピースの裾を大胆に揺らすとその場に立ち上がる。空に向かって伸びをすれば、そのトランジスタグラマが幻想的に揺れた。

 たゆんたゆん。


「さて、私は夕食の買い出しに行くとしよう。少年、今日はよく休みなさい」


「そうもいかないんです。これから友人と会わないといけなくて」


「案外に君は忙しい奴なんだな。そんなに友達が多そうには見えないのだが」


「ほっといてください! そいつは――まぁ、特別な奴なんですよ!」


 答えは出たのかな――なんてさおりさんは言わなかった。

 ただ黙って僕を彼女は見守ってくれた。


 お尻についた土と葉っぱを払った彼女は僕に背中を向ける。

 頼んでもいないのに僕のことを気にかけてくれて、惜しみなく救いの手を差し伸べてくれるその人に、僕は慌てて立ち上がると頭を下げた。


「よしてくれ少年。私は君にお礼をいわれたくてこんなことをしたんじゃない」


「じゃぁ、なんでいつも助けてくれるんですか?」


 それは純粋な疑問だった。

 彼女に前に助けて貰った時からずっと気になっていた。


 さおりさんが振り返る。揺れる銀色の髪を頼りない手つきで触れながら、彼女は視線を秋の空へと向けた。薄い雲がかかった樟葉の空はどこか彼女を思わせた。


「そうだな。君のような年齢の少年を見ていると、ついつい思ってしまうのだ。自分にも君のような子供がいたのかもしれないなと」


「それは、どういう」


「女の秘密に踏み込むということは、その女を生涯かけて愛するということだ。君には、既に愛すると決めた人がいるんじゃないのかね?」


 瞳で僕を諭しながら彼女は薄紅色の唇を指でなぞった。

 高級な口紅で彩ったように艶やかなそこを、軽やかに撫でた指先が優しく僕の頬を触れる。これで我慢してくれという感じに、彼女は僕の口の端をなぞった。


「古いまじないだ。これで今日はもう、君の中のフェロモンが悪さすることはない」


「……ありがとうございます」


「好きでやっているんだ、礼を言われるようなことじゃないさ。まぁ、夜には自然に切れていただろうが――念のためな?」


◇ ◇ ◇ ◇


 11月20日19時37分。


 京都三条木屋町通り。

 濃い古都の色街の趣を残したそこに、僕は電車を乗り継いでやって来ていた。

 咲ちゃんには「ちょっと古い友達が遊びに来ていて。話をしてくる」とありのままを伝えてある。電話を切る直前、不満そうに舌を打ったのが今も耳に残っている。


 心配しなくても変なことなんてないから。

 僕は咲ちゃん一筋だし、君の下から離れるようなことなんてないから。

 むしろそのために僕はここにやって来たのだ。


 石畳の敷かれた細い小道を通って街の深部へ。

 たどり着いたのは古めかしい日本家屋。


 細かい格子が入った引き違いの扉。窓から漏れてくるオレンジ色の光。

 香る酒と煙草の臭い。喧噪は遠く、やけに静か。盆地の中、関西でもその寒さを恐れられる京都の街にあって、そこはほんのりと温かい。


 玄関に吊された茶色い毛玉のような謎の飾りが目についた。


「それ、杉玉っていうのよ。酒造なんかが、新酒が出来たときに軒先に飾るの。それを目印に、お客さんが新酒の季節を知るのよね」


「……へぇ」


 背中にかった声に振り返る。


 学生の街と言われる京都によく似合う大人と子供の中間のような服装。

 茶色いダッフルコートに桃色のブラウス、灰色のズボンと長いブーツを着た彼女は――特徴的な丸眼鏡と大きな胸をもったいつけるように揺らした。


 なんというか、驚きはなかった。


 おそらくここに『彼と一緒に居るのだろうな』と、ぼんやりとは思っていた。別にたいそうな推理があるわけでもない。直感的に「そうだったら、いろいろと説明がつくな」と感じただけ。博打のような僕の推理が思いがけず当たっただけのこと。


「驚かないのね?」


「えぇ、まぁ」


「謙太くん、バカっぽく見えていろいろ考えてるんだ。なるほどね。そういうのが彼女を仕込む上で厄介だったのかもしれないわ。貴方、随分と悩んでいたみたいだけれど、大人の言うことを真に受けちゃいけないわよ」


「じゃあ、貴方の言うことも聞かなきゃよかったですかね」


「そうね。その方がよかったかも、彼女のためには」


 そう言って彼女――坂本さんは肩を落とした。


 作戦失敗。

 勝負は自分の負けだという感じに。

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