第13話 ドキドキさせるお姉さんのビッグサイズ(ボイン)

「そんな感じで三時くらいまで頑張ってたら寝不足で」


「若いな、謙太。タフだよお前」


「まぁ、寝不足はバンド時代に馴れてますんで」


「そっちじゃねえ」


 ノブさんが「うげげ」と呻いてその場に座り込んだ。

 手にしたモップを床に突き立て、悪酔いした客のような顔をする。


 なんでそんな顔をするのだろう。

 寝不足の愚痴を言っただけなんだけれどな……。


「バンドやってた頃は徹夜で練習とかしてたじゃないですか。ノブさんも付き合ってくれてたし、それは知ってるでしょ?」


「そういうことじゃなくってだな。俺が言いたいのはその――」


「その?」


「ぐぬぬ。なんて目をしてやがる。こんなピュアピュアな目をして、とんでもないモンスターヤリチン。夜は性郷隆盛。これが令和ボーイのニュースタンダード」


 頭を抱えながらノブさんがよく分からないことを喚く。

 バーテーブル拭きながら、僕は完全停止しているバイト先の店長に「サボってないで仕事しましょうよ」と辛辣な言葉を浴びせた。


 11月12日土曜日15時32分。

 枚方市にあるライブハウス『韜晦道中ヒザクリゲ』のライブフロア。

 今日は月に一度のライブがない営業日。店長の知り合いを集めての飲み会を開催する日だ。関西で活動するバンドやライブハウスの関係者、熱心なノブさんのファンやその知り合いが集まるそれは、ちょっとした情報交換会。

 ここで大きなイベントや商談が決まったりするからおそろしい。


 小さなライブハウスの特権。

 ライブだけがここの存在意義ではない――。


 と、前にノブさんは言っていたけれど、これまた僕にはよく分からなかった。


「はぁ。俺もなんか彼女が欲しくなったわ。つっても、貧乏ライブハウスの店長ってんじゃ、女の子も流石に身構えちゃうわな」


「じゃあ、なんになってたらモテたんですか?」


「吉本芸人?」


「発想の方向性が同じなんじゃ!」


 ていとノブさんに濡れた布巾を投げつける。

 だはーとノブさんが変顔をして身体を揺らす。


 お茶目なおっさんだこと。

 使われる身としては気が楽です。


 昨夜の客が残していった汚れをモップでバケツに移すと、彼はごきごきと肩を鳴らしてけだるそうにステージを見る。常設の楽器が倉庫に仕舞われてそこは空っぽ。

 開店前だというのに、店内にはさっそく寂しい空気が広がっていた。


「まっ、なんか知らんがお前に春が来たのは師匠として喜ばしいぜ。せいぜい頑張れ若人。悔いなき青春を過ごすが良いぞ」


「簡単に言いますけど、どうすればいいんですか?」


「それは自分で悩み選びとれ。それが青春だ。誰かに正解を教えて貰えるほど甘くもないし、間違えちまって人生終わるほど苦くもねえ。ぬるい地獄を楽しみな」


 水捨ててくるわとノブさん。

 バケツにモップをツッコんでひょいと持ち上げれば濁った水が床に跳ねた。打ちっぱなしのコンクリートに染み入るそれを、彼はローファーの底で雑に拭った。


 ライブハウスは16時開店。

 早い常連さんだとそろそろ顔を出す頃だ。

 その前に、ちょっと休憩を身体に入れておきたいのだろう。


 店の裏口に続く扉はちょっと重たい鋼鉄製。灰色の塗装がなんとも重量感がある。

 そんな扉に手をかけると店長がこちらを振り返った。


 なぜかキメ顔で。


「命短し、伊東甲子太郎、ってな!」


「誰ですかそれ?」


 なんの臆面もなくノブさんは「知らん!」と叫ぶ。

 彼が肩で扉を押せばライブハウスの天井に重たい音が響いた。


 フロアに一人残された僕は重いため息を吐く。

 ノブさんの相手に疲れたというより、昨日の疲れが残っているという感じ。

 咲ちゃんってば退院初日から容赦がないんだからさ。


 半地下のフロアは地面からの冷気を受けてやたらと寒い。これから22時までシフトが入っている。日が沈めばドンドン冷える――なんて考えるとちょっと憂鬱だ。


 だいたい開店に必要な作業は終わっている。

 後は注文が入った時に動き易いよう、カウンターを片付けておくくらいだ。


 僕もちょっと休憩しようかな――。


「すみませーん! こちらもう開店されてますかー?」


「あ、はーい!」


 なんて思ったらさっそくご来店。


 ライブハウスの入り口からひょこりと顔を出し女性が中を覗き込んでいた。

 ペタッとした黒髪ツインテール。丸いお洒落メガネ。ギンガムチェックのカーディガンにキルトのスカートというトラッドスタイル。


 あと、むねがちょっとおおきめ。

 えっちなおねえさんってかんじ。


 女子大生って感じの彼女は、僕と目が合うなり人なつっこく笑う。

 その魅惑的な胸と挑発的な表示に、そこはかとなくトラブルの匂いを感じた。


「よかった。こちらの店員さんですか?」


「はい。すみません、まだ開店30分前なんです」


「え? そうなんですか? どうしたらいいですか?」


「ちょっとまだドタバタしますけど、それでも良いなら入っちゃってください」


「いいんですか?」


「えぇまぁ」


 毅然と「外で待っていてください」と言えればいいのだけれど、年下の義妹に振り回されっぱなしの男に、そんなスキルなんてないのだった。

 まぁ、寒いしね。外で待って貰うのはちょっと申し訳ないよね。


「どうぞ、こっちです。何か飲み物とか要りますか?」


 打ちっぱなしコンクリートの床を蹴って僕は女性を迎えに行く。

 靴底の削れる音と感触に、ほんの少しだけ眠気が醒めた。


◇ ◇ ◇ ◇


 11月12日土曜日21時32分。

 シフトは21時までなんだけれど、この日の僕はちょっと残業していた。


「えぇっ! 謙太くんてばバンドやってたの⁉」


「まぁ、学生バンドに毛が生えたくらいですけど」


「けどライブハウスで演奏してたんでしょ? 実力がないと無理じゃない!」


「まぁ、そうなんですかね」


「謙遜しないでよ! やっぱりすごいんじゃない!」


 なんか女性のお客さんに絡まれていたのだ。


 開店前に一人でやって来た女子大生の人――坂本さんと僕は仲良くなった。

 早く来すぎた彼女の話し相手になっていたんだけれど、それで気に入られてしまったらしい。お客さんで賑わった後も僕たちは二人で話をしていた。


 今もこうして、二人でサシ飲みのようにバーテーブルで向かい合っていた。


 うーん、言っちゃなんだけれど、すごく気分がいい。


 バイトの辛さがさっと消し飛ぶ。

 こんなに働いていて楽しいのははじめてだ。

 綺麗なお姉さんに「すごい! すごい!」って褒めて貰えるのすごく精神に効く。


 自己肯定感高まる。


「羨ましいな。私も長いことやってるけれど、箱でやるなんて夢のまた夢だよ。せいぜい高校の学園祭や地域のイベントに呼ばれるくらいだなぁ」


「いいじゃないですか学園祭ライブも面白いですよ」


「高校生のガキに私のテクニックなんか分かるわけないわ。もーっ、やんなっちゃう。お酒おかわり!」


「はーい。店長、追加オーダーでモスコミュールでーす!」


 バーカウンターのノブさんに手短に要件だけ伝える。

 僕の注文する姿をにこにこ眺めていた彼女は、振り返った僕に「えらいね」という感じに目を細めた。なんでもない素振りなんだが――それがまた嬉しいんだ。


 いやー、そんなことないですよ。

 店長がどうにもだらしない人なので、僕が頑張って働くしかないってだけで。


 でへへでへへ。(てれてれ)


 僕をゴリゴリに褒めてくれるお姉さんに、もうぞっこんだった。


「しかし、このお店すごく雰囲気いいわね。流石はノブさんのやってるお店だわ」


「そうですか? 僕はなんていうか、貧乏くさくて嫌なんですけれど。床とか壁とかコンクリート打ちっぱなしで、ちょっとセンスが古いかなって」


「あはは、辛辣ね」


「まぁ、こき使われてるので」


「いい雰囲気っていうのはお店の客層のことよ。みんな、音楽が好きって感じの人が集まってる。音楽でお金儲けしたいって感じの客がいないわ」


「分かるんです? そんなの?」


「まぁね。私もそこそこ長くやってるから、そういうことには敏感なのよ」


 そう言うと、坂本さんは僕の手の甲を艶やかなネイルでつついた。

 まるで水風船でも割ろうとするような、悪戯な指使いにちょっとドキドキする。


 アルコールに酔って上気した頬。

 少し扱い方が雑になってきたボリューム満点のおっぱい。

 ペタッとしたツインテールも心なしかふらついているように見える。だらしない、けれどそれが色っぽい。ほろよい女子大生お姉さんのもどかしい感じよ。


 たまらん!


 鼻息が荒くなった所で、坂本さんが僕の手の甲を叩く。

 下心をがっつり見抜かれていたようだ。


 一枚上手な大人のお姉さんは、僕の手を叩いた指先をピスタチオへ伸ばす。空を剥いて、緑の実を口元に運ぶと――彼女は指ごと口に含んだ。


 ぴちゃりという水音に男心が揺れる。

 昨晩こってり絞られていなかったら危なかった。


「すごいな謙太くんは。箱でライブが出来て、ノブさんの弟子で、ちょっと身長は小さいけれど、よく見るとイケメンだし。羨ましいよそのスペック」


「そんなことないですって」


「だいたいノブさんの弟子になれるのが凄いのよ。どうやって弟子になったの? ノブさんって、弟子を取るような歳でも性格でもないでしょ?」


「ノブさんには子供の頃から遊んでもらってて。その延長線で教えてもらっていたんです。師匠というか、ギターを教えてくれた近所のお兄ちゃんって感じですね」


「やだー、幼馴染ってこと?」


「……まぁ、そうですね」


「関西ライブハウスのカリスマが幼馴染か。大変だったでしょ?」


「いやー、ノブさんより兄弟子の方がちょっと強烈で」


「あら! もしかしてジョーくんのこと?」


「そうです。もう、ほんと、アイツにはいろいろと迷惑をかけられて……」


 話の途中にも関わらず、ぐってりとバーテーブルに坂本さんが突っ伏した。

 なんだかんだで開店からかなりの量を飲んでいる。いまさらだけれど酔いが回ってきたのかもしれない。


 天板に頬をつく坂本さん。顔を覗き込めば瞳の焦点が定まっていない感じ。

 きょろきょろとよく動く目玉にちょっと心配になってきた。

 楽しいからって接待し過ぎたや。


「大丈夫ですか坂本さん? ちょっと奥の休憩室で休みます?」


「えー? そんなこと言って、私にエッチなことするつもりなんでしょー?」


「しませんよ! 純粋な親切ですって!」


 けど、言い方がよくなかったな。

 これじゃ女の子を酔い潰してやらしいことするおっさんじゃないか。

 もっと言葉には気をつけよう。どう言えばいいか分からないけど。


 また、坂本さんの手が僕の手の甲に伸びる。

 皮に突き立てられたネイルをそっと取り外そうとすると、色っぽいうなり声を坂本さんがあげる。すぐに、ネイルの食い込む先が、僕の手の甲から指先へと変わった。


 触れた手の冷たさに僕の心臓が少し震える。


「ねぇ、謙太くん、私にギター教えてよ? いいでしょ?」


「……え、そんなこと頼まれても」


「少しでも巧くなりたいの! 私だって、音楽で一旗あげたいの!」


「……僕は人に教えるような人間じゃ」


「ジョーくんや、君みたいになれなくても、それでも!」


「……僕だって、ジョーみたいになりたいですよ」


 絡み酒に無意識に本音が漏れた。

 呟いてから慌てて僕は我に返る。

 どうやら僕も場酔いしているようだ。


 聞かれていないかと心配したが、坂本さんは相変わらず僕を勧誘している。

 どうやら本格的に酔い潰れているらしい。

 不謹慎だが、少しだけほっとした。


 気を取り直して、僕は坂本さんの肩を揺する。


「坂本さん、これくらいにしておきましょう」


「やだー! 謙太くんに、ギター教えてもらうのー!」


「僕にはそんなスキルありませんから」


「いいでしょ。お礼はちゃんとするから」


「いや、そもそも僕は人に教えるような人間じゃないんですって」


「それなら連絡先だけでも交換しない?」


「……まぁ、それくらいなら」


 テーブルに放り出していたスマホを坂本さんが握りしめる。

 酔いどれふらふらとした動きでそれを操作すると、LINEを彼女は立ち上げた。


 しぶしぶ僕もポケットからスマホを取り出す。


 知り合いに追加されたのはアコギのアイコン。

 僕でも知ってる高級メーカー。しかも、しっかりと使用感のある奴だった。

 もしかして、彼女が使っているギターだろうか。


 僕が弾けるのはエレキ。アコギは専門外だ。

 ますます教えられないんだけれど。


 やっぱり、面倒くさいにことになったな――。


「よし。交換できた。それじゃまた連絡するから」


「あ、はい。よろしくお願いします」


「そうだ、もし変な画像とか送っても許してね」


 戸惑う僕をさらにキョドらせる言葉が飛び込む。


 変な画像って?

 HENな画像ってなに?

 Hな画像ってこと?


 年相応のお姉さんスタイル。

 テーブルに押しつけられた二つの大きな膨らみに僕の目が吸い寄せられる。

 どういう画像かすぐにでも説明が欲しい。


 けれども、連絡先を交換して安心したのだろう、坂本さんはテーブルに顔を沈めてそれっきり、もう起き上がることはなかった。


 年上の女性と連絡先を交換しただけ。

 しかもやましいことはない。

 同じ趣味を持つ者同士のちょっとした交流。


 なのにどうしてだろう。


「いいのかな、咲ちゃんがいるのに、こんなことしちゃって」


 バイトからの帰り道すがら、僕の胸はずっと高鳴っていた。

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