第9話 だいじょばない(ちょっと賢者になって落ち着くWAWAWA)

「しーぽん、僕はもうダメだ。ダメなお兄ちゃんなんだ」


「知ってるけど?」


「ひどい! 慰めてくれよ!」


「そういう所って自覚あるか?」


 10月31日12時24分。

 大阪心斎橋駅から歩いて10分。ライブハウス「NO.7」。

 バンドやってた頃にお世話になったお店で僕はしーぽんと会っていた。ハロウィンライブに呼ばれて店でスタンバっていた彼女に、僕が泣きついたのだ。


 ドライな所がある彼女のことだ。ライブも間近に迫っている。つっぱねられるかと思ったが――しーぽんは「すぐ店に来い」と相談を受けてくれた。

 なんだかんだで、彼女も元バンド仲間を気にかけてくれているようだ。


 ライブハウス入り口近くの立ち飲み席。

 丸い銀のバーテーブルを囲んで、僕はしーぽんに昨夜のできごとを話した。


 義妹に迫られたこと。彼女を傷つけてしまったこと。

 ありのままその全てを。


「まぁ、勇気出して迫ったのにインポかまされればガクッとくるわな」


「だから言葉を選んで! しーぽんってば下品よ!」


「女に幻想を抱きすぎ。これくらい普通の会話だよ」


「僕は男の子なの! 女の子への幻想を大事にしてるの!」


「これだから童貞はめんどくせえんだよナァ」


 めんどくさそうにしーぽんが顔をしかめる。


 差し入れに買って来たバーキンのチーズホットドック。食べかけのそれをテーブルに置くと、彼女は口の端のマスタードを親指で拭った。指の腹に豪快についたそれをバーキンの紙袋になすりつけると、入れ替わりにグラスを握りしめる。

 細く透明なグラスの中で揺れる炭酸飲料をあおれば、氷とカットレモンが昼間なのにムーディーな音を立てた。


 汚いゲップ。つばがちょっと僕に飛んだ。

 しーぽんのそういう所、最高にロックだと思う。


「悪いケンチン、アタシが間違ってた。どうやら義妹はオメーに惚れてる。常識で物事を判断した私が悪かった」


「なんでだろう釈然としない」


「勘違いだと止めたアタシにも責任がある。どうせ他に貰うアテもないんだから、妹ちゃんにあげるよう説得するべきだった」


 言葉はともかく、土曜日の相談を彼女は気にしてくれていたらしい。

 なんだかんだで真面目なんだよなしーぽんってば。


 僕に「ごめん」としーぽんが頭を下げる。

 そこから顔を上げると、彼女は僕を力強く指差した。


「ケンチン、今こそ脱童貞の時だ。妹ちゃんを幸せにしてやれ」


「……けど、僕なんかで本当にいいのかな。咲ちゃんにはもっと、彼女にふさわしい男がいるんじゃないだろうか」


「なに眠たいこと言ってんだ。そこまでするなら、妹ちゃんはケンチンのことが間違いなく好きだ。だったら、ケンチンがどうしたいかだけだぜ?」


「けど、そうなったのは僕たちが特殊な関係だから」


「関係ない。割り切った関係がいいなら妹ちゃんもそう言う。もちっと、妹ちゃんの意思を尊重してやれ。お前の言ってることはただの一般常識だ。血が通ってねえ」


「そうかもしれないけれど」


「でたよ正解男。オメーのギターと同じだ。バンドマンのくせに面白みのない正解を求めやがって。くだらねーこと気にしてないでやりたいようにやれよ」


 音楽のことは、今はいいだろ。

 触れられたくない過去を話題に出され、僕は咄嗟にしーぽんを睨んだ。


 その時だった。

 僕と彼女の間に流れた剣呑な空気を察したのだろう。しーぽんと同じライブイベントで歌うバンドのメンバーが、部屋の隅から慌てて駆けてきた。

 テクノカットの大学生っぽい男。なんでもない顔でファン喰ってそうな奴だった。


 しーぽんに向かって「落ち着いて、羽衣ちゃん」と彼はなれなれしく話しかける。誰なのかと聞くより早く、彼はしーぽんが握るグラスの中身を浴びせられていた。


 ひでえ。


 目を見開いて驚くテクノカット。

 いや、もはや濡れ鼠。


 絶句する彼をしーぽんが無言で睨む。何があったのか知らないが怒り心頭だ。自慢の足癖を発揮して彼女が床板を蹴れば、きびすを返して男は逃げ帰った。


 ふぅと、しーぽんがため息を吐き出す。


「あいつ。アタシの元カレ」


「元カレ?」


「ファンの娘と二股かけてやがってさ。それで、喧嘩して別れたんだ」


「へぇ……」


 満足そうな顔とは裏腹、しーぽんの声が少し下がった。


「悪かったよ。お前がそういう奴だって知ってんのにさ。ついムキになった」


「いや。しーぽんの言う通りだ。どうせ僕は正解男さ」


「音楽はそれでいい。いまさらむしかえす気もない。けど、人生はそれじゃダメだろ。ちゃんと直しておけよ」


「なんでダメなのさ?」


 しーぽんが黙りこむ。

 手慰みを求めるように彼女は屈むと、床に転がる氷とレモンを灰皿に集め出した。


 すぐに灰皿の上に氷のタワーが出来上がる。


「たとえばさ。お前が妹ちゃんの下着でセンズリこいた話だけれど。あれは正解だったのか、それとも間違いだったのか?」


「聞くまでもなく間違いでしょ、そんなの」


「けど、それで妹ちゃんはお前にここまで心を開いたんだろ。もちろん、そのあとのオメーのケアが適切だったってのもあるけれどさ」


「それはまぁ、そうかもしれないけれど」


「そんな簡単に、正解か間違いかなんて切り分けられるもんじゃねえだろ」


 脚を組み替えたのだろう。

 しーぽんのブーツの紐がぺちりと僕のズボンを叩いた。


「妹ちゃんが好きでマスかいたくせに、なんで迫られたら黙るんだよ。自分の気持ちに従えばいいだけだろ。言わせんなよ、こんな当たり前の話」


「けど、それで咲ちゃんが傷ついたら」


「そいつの答えはもう言った。分かってんだろ、ヘタレお兄ちゃん」


 氷の山を指で弾くと、しーぽんはバンドを解散した時と同じ瞳を僕に向けた。

 その暗い視線に思わず僕は口元を押さえた。


 どうしてそんな瞳をするのか――。


 なんてシリアスに考えた僕の向こうずねを彼女が容赦なく蹴り上げる。

 ブーツのゴム底は厚く、鉄板でも入っているように硬い。


 ひくほど痛かった。


「差し入れと復讐のダシになってもらったお礼はここまでだ」


「……こんなことやってると、いつか誰かに刺されるよ?」


「どこぞの社長と一緒にすんな。大丈夫だよ、俺は枕はやんねーから」


「……ありがとう、しーぽん。あとは自分で考えるよ」


「難しく考えんなよ。オメー、バカなんだからさ」


 顔を上げた僕に、孤高のドラマーが爽やかな笑顔を向けた。

 悪戯でもないのにそんな顔を見るのは、バンドを解散して以来な気がした。


◇ ◇ ◇ ◇


 義妹との今後の関係をじっくり考える暇はなかった。

 神様という奴はどうも空気を読んでくれないらしい。


「えっ? 咲ちゃんが学校で倒れた?」


『そうなの。さっき私の所に連絡があってね。謙太くん、申し訳ないけれど咲のことを迎えに行ってくれないかしら?』


 ライブハウスを出るなり僕のスマホに着信が入った。


 いきなり倒れるだなんて何があったんだ。

 まさか、昨日のやり取りがそんなにショックだったのだろうか?


「すぐ行きます! 学校の住所を教えてください!」


 義妹のことが心配で、いても立ってもいられない。

 蓮さんに咲ちゃんの学校の住所を聞くと、僕はタクシーを捕まえて学校に向った。


 幸か不幸か、咲ちゃんの学校は大阪市内。心斎橋からならすぐだ。

 到着したのは14時過ぎ。連絡を受けてから30分ほどが経過していた。


「生徒が言うには、お昼休みに入ってすぐ、席から立ち上がるなり体勢を崩したそうです。外傷はないんですが、それからずっと起きないんですよ」


「……どうしたんだろう」


「食事を抜いていたりしませんか? 多いんですよ、無理なダイエットをして貧血になる娘って。河北さんはそんな感じはなかったんですが……」


 咲ちゃんの担任に案内されたのは、高等部の一階にある保健室。


 病院と違って古ぼけた板張りの床。

 日に焼けた茶色い板壁に磨りガラスの窓。

 揺れるクリーム色のカーテン。並んでいる木製の戸棚。

 そして、窓沿いに並べられたパイプフレームのベット。


 日が差し込むベッドの上に僕の大事な義妹が横たわっている。

 セーラー服を着たまま胸の上に手を置いて咲ちゃんは静かに眠っていた。こんな時だというのに、その姿にちょっと見とれてしまう。

 それは画になる寝姿だった。


「無理に起こされない方がいいと思います。他の教師には話をしておきますので、河北さんが目を覚ますまでそばに居てあげてください」


 断る理由はなかった。

 なにより、僕がそうしたかった。


 パイプ椅子に腰掛けて、僕はいつかのように咲ちゃんの寝顔を見守る。

 気配で目を覚ますかとも思ったがそんなロマンチックはそう起きない。都会に吹く冷たい風が、時々思い出したようにカーテンを揺らすくらいだ。


 保健室の先生は出払っている。

 担任の教師が「他にも用事がありますので」と背中を丸めて教室を出ると、暗く静かなその部屋の中に僕たち二人だけが取り残された。


「……ごめんね咲ちゃん。きっと僕のせいだ」


 眠る義妹に僕は頭を下げる。

 倒れた状況が分からないから何も分からない。けど、ここ数日のごたごたが、彼女の負担になっていたのは間違いないだろう。

 僕が気をつけてあげるべきだった。


 パートナーとして。


 眠り姫の黒い髪を静かに僕は撫でた。

 昨日の風呂場では感じなかったシャンプーの匂いがする。

 学校では王子さまなのに家に帰ったら甘えん坊。我が儘で天真爛漫な咲ちゃんのイメージに、甘く酸っぱいその香りはあっているように思う。


 匂いに誘われるように僕は顔を近づける。

 淡いピンクの彼女の唇がすうと空気を吸い込む。入れ替わりに甘い吐息を吐きかけられた僕は、その濃厚な匂いに酒に酔ったような気分になった。


 同時に、彼女と交わした口づけの味を思い出す。


 いけない気持ちが僕の中で膨らんだ。


 ――これは正しくない。

 ――お兄ちゃん失格だ。


 ――これ以上、咲ちゃんを悲しませちゃいけない。


「……こんな間違った感情に、従えっていうのかしーぽん」


 けれども僕はそうしたかった。

 どんなに兄として取り繕っても、パートナーであることを強く意識しても、根本的な咲ちゃんへの想いを誤魔化すことなんてできなかった。


 息を殺して僕は義妹の唇を噛む。

 

 三度目のキス。

 卑怯で情けないそれは苺のように甘い。

 誰がなんと言おうと僕はそう感じた。


 ――あぁ、僕はやっぱり咲ちゃんのことが好きなのだ。

 ――義妹でもなく、パートナーでもなく、一人の女の子として。


「……お兄ちゃん?」


「……おはよう、咲ちゃん」


 眠り姫は僕のキスで目を覚ました。

 もしかすると、彼女はずっと起きていて、僕が自分の欲望に身を任せるのをずっと待っていたのではないか。なんて、どうしようもないことを考えた。


 けれども、まずは義妹に伝えるべきことがある。


 驚いた顔をする咲ちゃんの肩を抱く。

 濡れた唇を拭いもせずに、僕は目の前の恋しい少女の瞳を覗き込んだ。

 瞳の奥には無限に恋の迷路が広がっていて僕の決意を惑わした。けれど、それを力業で突破して、僕は自分の気持ちを素直に吐き出した。


「咲ちゃん。ごめんね。僕は君のことが好きだ。義妹だからじゃない、パートナーだからじゃない。たぶんもっと純粋に君のことを想っている」


「……純粋って?」


「義妹だからパートナーだから。そんな言葉で片付けたくないんだ」


「……やっと言ってくれたね。謙太くん」


 胸の上に置いていた手が僕の頬を触る。

 涙袋を親指の腹で撫でると、目尻に浮き出たせつなさを人差し指がさらった。

 男の情けなさを桜色をした唇に運んで咲ちゃんは笑った。


 そんな男の情けなさを、全部許すとでも言いたげに。


「謙太くん。愛してるって、言ってくれる?」


「……いいの?」


「いいよ。もう、ここまでされたら一緒だもの」


 いつから咲ちゃんがその言葉を僕に望んでいたのかは知らない。

 けれど、ようやく僕は覚悟を決めた。


「愛してるよ、咲ちゃん」


「私もだよ、謙太くん。こんなに待たせないでよね、バカ」


 もう一度、彼女の唇に触れれば、もうあふれ出る愛が止まらない。

 僕と咲ちゃんは、ここが学校だということも忘れて、激しくその唇を求め合った。


 何度も何度も。

 二人だけの時間がずっと続けばいいのにという願いを込めて。

 これまですれ違い続けた時間を取り戻すように。


「さぁ、帰ろう咲ちゃん。家に帰って、今日はもうゆっくり休もう。なにか食べたいものはない? なんでも作ってあげるよ?」


「本当? 夢の中のお兄ちゃんは、気が利いてて優しいなぁ」


「夢じゃないよ。もう、ねぼすけさんめ」


「それじゃあね。私、どうしても食べたいモノがあるの」


「なんだい?」


 そう問いかけて――。


 背筋を強烈な悪寒が走った。

 この流れ、この状況、どこかで僕は見たことがあるぞ。


 どこだ。

 いったいどこで感じた。

 そう遠くない過去だったと思うが。


 迷ってしまったのが運命の分岐点。


 僕のズボンのベルトをがっしりと、咲ちゃんの手が掴んでいた。そこから繰り出す、咲ちゃんの渾身の笑顔。まるで秋空の下、ススキの生い茂る川辺に立って振り返る美少女のようないい顔をして――咲ちゃんは僕に言った。


「お兄ちゃんの精○!」


「またこの流れか!」

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